意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

タートル

朝ぼんやりしていたら、窓際に洗濯物が干してあって、今日は雨が降っていたから部屋干しだった。昨晩妻が干したのである。そこに私の夜寝るときに履くズボンが干してあり、それは柔らかい布の側面に、
「シー・タートルズ
と英字で書いてあって、はて、タートルだけで海亀ではなかったか、と思う。このズボンを見る度に思っていた。履いているときは思わなかった。
「タートルは海亀」
というのを教えてくれたのはトータス松本だった。トータスは陸亀であり彼は陸亀が好きだからトータスなのであった。対してタートルは、タートルズで知った。タートルズは初めはゲームでやって、弱っちくてすぐ死んだ。弱いのは私のせいだったが、ひとり箸にも棒にもかからないような武器のやつがいた。そのあとアニメもいくらか見て、敵のひとりの声が美味しんぼの副部長の人で、一度次週予告で、
「山岡~」
と絶叫して、「だれ?」と同僚につっこまれるシーンがあった。もちろん私は誰であるか存じていた。

私には亀=弱いというイメージがあって、それはコブラという漫画の影響で、コブラがどこかの星にいったらそこで戦争に巻き込まれとある外人部隊に紛れ込んだら、その中にひとり裏切り者がいて、全員容疑者という話があった。そこで真っ先に殺されるのが、亀型の曹長だか伍長だった。それが砂漠地帯で昼間の気温が50度とかなる場所で、だからみんなは昼間は洞窟とかに避難するのだが、そのときに犯人に足を引っ掛けられ、曹長は転倒し亀だから起き上がれない。コブラが助けに行こうとするが、
「馬鹿やろう、お前まで死ぬぞ」
と怒られて、亀型曹長は蒸し焼きになって死ぬのである。だいたいひっくり返ったらリカバリーのきかない弱点丸出しの人が、よく外人部隊なんかに入ったものだと、そのときも今も思ったが星ごとに理屈は異なるのかもしれない。

タートルについてはもう一つ面白い話があって、弟の部屋に英語の時間に書いた文章が貼ってあって、そこに、
「マイ・チームズ・ネーム・イズ・ビーチ・タートルズ
タートル・イズ・ウミガメ(英字)」
と記されていて、「タートル・イズ・ウミガメ」とは、「タートルとは海亀のことですよ」と説明しているのだが、英語圏の人からしたら海亀のほうが意味不明だから、説明が逆説明というか、混沌に突き落としているようで、私は弟の壁を見る度にシュールな気持ちになった。

その隣にはイエモンのポスターが貼ってあった。

公式

二日ほどまえの記事で、「この記事における言いたいことは、これである」という旨の言及をいただき、私としては特に言いたいことがあって日々文字を並べているわけではないから、いっしゅん
「言いたいことは特にないです」
と指摘しようと思ったが、言いたいことのない文章なんてあるのか? そもそも自分の介在しない主張というものが、たとい100パーセントの自分の手から生み出されたものだとしてもあるのではないかと思ったのでやめた。そもそも「これが言いたいことだ」とわざわざ指摘してくださったのに、「ありません」とむげに突き放すのもどうかと思ったので、「正解である」と、思い直した。あくまで私の頭の中の話である。じっさいその文は最初は違うことを書いていて、書ききってから直した箇所だったので、私なりの感情の●●があったと思われる。

それは「日常とは今」的な文句であった。

私としては「そんなん、あたり前やんけ!」という読者の突っ込みを想定しての文であった。でも○年前の日常、なんて言い回しもあるから、私が思うほどあたり前でもないかもしれない。しかし、なんの修飾語もつけずに日常と言ったら、現在のことを指すのではないか。

一方私は記事を最初から読んだ人は、そんな突っ込みをしないだろうと予想していた。私は極めて狭い視野の理屈を積み重ねていって、そこから書く前には思いもしなかったことを導き出すのが好きなのである。恣意的な理屈をなるたけ避けていくと、ほんとうにこれでいいんだろうか、みたいな結論にたどり着くことがある。それがすごい、すごくない、や価値の有無は関係なく、私としてはそこまで思ってはいないが、ここまで書いてみると、こういう考えにならざるをえない、というところに来て始めて「書いた」という満足を得ることができるのである。その対局がポジショントークと呼ばれるものなのだろう。

保坂和志がある著書の中で
「死刑制度はこれこれこうだから、よろしくない」
という旨をのことを書いた数年後、保坂の父親が亡くなりそれは交通事故だった。加害者はその後保坂に
「線香あげさせてください」
と言ってきたが、保坂は断った。この行動をかえりみて保坂は自分はやはり死刑制度賛成派なのではないか、と考える。と、別の著書に書いた。

このことについて私は「保坂すごいな」と思った。なぜなら私はそのことを分けて考えていて、昔友達がとある漫画を読んだことを私に教えてくれ、その内容は弁護士が主人公でこの人は死刑制度反対だったが、家族を殺され、その犯人が死刑にならないと、法律が裁けないのなら自分が裁く、と犯人を殺すというものだった。私はそのときは若かったから弁護士の行動を一笑に付し、感情と理屈は分けて考えるべきで、私はたとえ家族が殺され、その犯人を殺してやりたいと思ってもそれでもその場合の私はもうその時点で死刑制度の賛否を語るためのテーブルにつくことができないという風な分け方をしていた。

それで、今日は書いていたら外がばたばたして落ち着かなくて、こう読み返してもなんの話だったかよくわからない。板尾創路
「矛盾があってもいいんですよ」
と言っていたから、そういうのも今日の記事に影響した。矛盾を許さないというのは、一種の思考停止である。

就職

濱口桂一郎著「若者と労働(中公新書ラクレ)」を読んで、こういうの待ってた、という気になった。私は長い間組織に入ったらどうしてそこに忠誠を誓わなきゃいけないのか、会社のためにがんばらなきゃいけないのか、本当は社長や上司など見る角度によっては私よりもぜんぜん愚か者なのに、すべてのパラメーターが自分よりも上回っているような態度を取らなければならないのが疑問であったが、ある程度の答えを得ることができた。それまでは無能のふりをする罪の意識を、無気力、やるきゼロの態度でごまかしていたわけだが、著者の主張する世の中が実現するのなら、私はやる気を少しは出せるのかもしれない。

奇しくも今日の午前中、就職活動中の若い方が自らの命を絶ちたい旨の記事を目にし、それは毎年どこかしらで目にする文字の羅列であり私の感情もパターン化され、彼(彼女)の感情は相対化され、一種の娯楽になってしまい私は二重に気の毒に思う。「お母さんも泣いている」とあって、お母さん泣いている場合じゃないですよと思ったが、それはなにも一緒に受かりそうな企業を探すとか面接の稽古をつけてやれとかそういうことではない。私が親で、親らしいことをしたいと思ったら、まずは落とした企業の悪口をさんざん言って、家庭内不買運動を展開する。でもそれも結局は親が子供を低く見ていることの裏返しではないかと書いてみて思った。そう考えるとやはり親は子供だって良い歳なのだから、知らん顔するのがベストである。知らん顔できるくらいの関係性に至っておく必要がある。

ところで同じ日の午前中、私は私で自分が案外早死にするのではないかと思った。両親と、あとよく知らない人たちがジャガイモ掘りを始めて、明らかに私よりも溌剌として元気だったからである。私はここのところ下痢気味で、トイレの中で用を足し終わっても、このまま便座に座り続けていたいと思った。蒸し暑いから、熱中症にでもなったのかしらと思った。元気の前借りというエナジードリンクを飲みすぎて、自己破産直前にでもなったのか。相変わらず腰も痛いから、かがむのが億劫で、何より服や靴が汚れるのが嫌だった。今日知り合ったばかりのよく知らない人に、
「百姓の倅は、だいたい野菜が嫌いなんです」
とうそぶいた。しかし私の父だって百姓の倅のくせに、ドヤ顔でキュウリを縦に切るのだから「程度にもよりますが」と、すぐに補足した。

何もしない私は必然的に子供たちの監督者となり、この子供たちもひどかった。鬼ごっこや隠れん坊では、私を鬼ばかりにし、いい加減に追いかければ「やる気を出せ」と叱責し、本気で追うと「大人げない」と文句を言われる。「お家ごっこ」では私だけが一家の外の、隣の家の住人で、そのくせ家具の搬入は私ばかりにやらせ、挙げ句の果てには不法侵入で警察を呼ばれてしまった。私の
「弁護士を呼んでくれ」
「黙秘する」
の要求には一切耳を貸さず、裁判は形ばかりでさっさとイバラの牢に入れられてしまった。牢の天井にはとても食べられない、小粒の葡萄がぶら下がっていて、この葡萄は私の子供のころにはなっていただろうかと思った。そこは私の父の実家であった。

いつまで生きるか問題

たまにネットなんかを見ていると高齢者の話題がでていることがあり、そういうのに「高齢者は死んでほしい」というようなコメントを寄せる人がいるが、そういう人はおそらく若いのだろうが自分と年寄りが地続きであるという視点が欠けている。私はもう中年といってもいい年齢なのでおいそれと「高齢者にいなくなってほしい」とは思わないが、若くても同じ気がする。それはあなたが食うに困っておらず、比較的豊かな生活をしているからですよと言われればそうかもしれない。私は私自身が我慢することにはあまり感じないが、子供にお金がないからと言って我慢させるときなんかは、とても惨めな気分になる。じっさい泣きたい気持ちにもなるが、でもそういうのってどこか胡散臭い。胡散臭いというのは、子供に対して私は可哀想な気持ちを抱いているが、心のどこかでは同時に気持ちの良さを感じているということである。

私は私をあまり信用していない、というかわかった気になる自分がイヤなので、例えば動けなくなったら死ぬ、みたいなことを主張する人もいるが、その人がじっさい動ける人だったらその言葉はまったく信用できない。死にたいかどうかは、じっさいに動けなくなるまではわからないのである。また、手押し車を押しながら、よろよろと前屈みになりながらのろのろ歩く老婆を見て、
「どうしてこんな醜態をさらしてまで生きるのだろう」
と疑問に持つ人もいるようだが、やはりそういう発想の人は子供っぽいというか、世界の人々はぜんぶ自分の複製と思っているのではないか。複製ではないのである。それに、なにも高齢者だけが老いているわけではない。私はおよそ五年前に、全力疾走をしたら、心臓が止まるかと思った。胃の中のものをすべて吐き出しそうになった。もう何年全力疾走していないのだろう、と考え頭の中でイメージするように体を動かせないことを悟った。それは、そのときは全力疾走という非日常行為だったからまだ良かったが、これからどんどん日常にじわじわと染み入ってくるのだろう。逆だ。私たちは動かせる範囲を持って「日常」と呼ぶのだ。だから、やはり背の曲がった老婆も自分の日常を生き、どんどん拡張していけば、寝たきりも日常だ。日常を生きている。

日常とは今現在のことである。

たくさんコメント書いた


ホームセンター行ったら金庫をがちゃがちゃやっている子供がいて、
(ああ、この子は将来金庫破りになりたくて、こんなことをしているんだな)
と私は直感した。店員が屈強な男ばかりで腰に工具をぶら下げていた。防犯ベルコーナーの、展示用防犯ベルが鳴り響き、屈強な男のひとりが最初は放っておけば止まるだろうと足踏みをしたが、止まらないので小走りで防犯ベルの下へ行った。ベルは止まった。そのそばに合い鍵の店があってそこの女の店員が退屈そうに眺めていた。今日は暑かったが、1日そんなところにいたから暑さがわからなかった。

たくさんコメント書いた


ホームセンター行ったら金庫をがちゃがちゃやっている子供がいて、
(ああ、この子は将来金庫破りになりたくて、こんなことをしているんだな)
と私は直感した。店員が屈強な男ばかりで腰に工具をぶら下げていた。防犯ベルコーナーの、展示用防犯ベルが鳴り響き、屈強な男のひとりが最初は放っておけば止まるだろうと足踏みをしたが、止まらないので小走りで防犯ベルの下へ行った。ベルは止まった。そのそばに合い鍵の店があってそこの女の店員が退屈そうに眺めていた。今日は暑かったが、1日そんなところにいたから暑さがわからなかった。

振り返れない

昨日どこかのブログだったかサイトだったかで紹介されていた本を、私も読みたいと思い、私は以前なら読みたいと思った本くらいぜんぶ暗記できていたが、最近はおぼえが悪くなってきたのでAmazonのほしい本リストに投稿している。だけれども今日、さっきまで私はものすごく頭に来ていて、理由は若い社員がペットボトルを飲みかけのままゴミ箱に捨てたからで、例えばそれが中身を開ける場所がなくてやむを得ず、とかならわかるがすぐそばには流しがあり、そもそもここは会社なのだ。
「おいおい、すぐそこに流しがあるだろ」
と誰かが注意しても
「平気っす」
とニヤニヤしたまま取り合わない。ゴミ箱のそばが私の部署なのだ。悪臭を放つとか考えないのか。蓋をぎゅっとしたから平気なのか。しかし回収にくる業者が嫌な思いをするとか思わないのか。その人がたまたま虫の居所が悪いとかだったら、苦情を受けるのは私なのだ。もしかして私の意識が高すぎるだけなのだろうか。私はみんなに良い顔をしすぎなのか。

私はちょうどそのとき、別部署に文句のメールを送っているところで、直接飲みかけゴミ捨て野郎とやり取りしていたわけではなかったが、やり取りは聞こえた。「ご存じの通り、」のぶぶんで私の指は止まってしまった。私はブログでは「ぶぶん」と平仮名で書くが、会社では「部分」と書く。ぶぶんが本当の私だ。私は
「飲みかけなんか捨てんじゃねーよ、くせーだろ」
と言ってやりたかった。さらには、
「榎本くんて、意外とモラル低いんだね」
とイヤミの一つでも言いたかった。しかし彼はとっとと行ってしまったので何も言えなかった。彼に私も「飲みかけをゴミ箱に捨てる人」と認識されたらどうしよう。私は自己愛が強いから、そういうのが許せないのである。ちょうど彼の上司が通りかかったから、告げ口してやろうか。上司は私に無理やりジャガイモを渡し、
「車だろ?」
と言い、そのまま自転車で去っていった。ジャガイモなんかいらない。ジャガイモは義妹がこの前嫁ぎ先からたんまり持ってきて、おかげで日曜の昼に私は5個だか6個だかまとめて食べさせられたのである。ふかしたやつを、バター、マヨネーズ、塩、のローテーションで。バターではなくマーガリンだった。