意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

「自分らしさ」は永遠の課題ではない

永遠の課題、とか「○○は奥深い」という表現を頻繁に目にするが、それらはただその人がそう思いたいだけでは? と思う。根拠に乏しい、説得力がない。そういう言葉は偽のアクセサリーのようである。本物でもいいが。

自分らしさ、も同じ類の言葉ではないか。よせばいいのに、昨日も自分らしさに苦しむブログを読んでしまった。私に言わせれば自分らしさとは、円の中に四角を書くような行為であり、ただでさえ小さな円なのに、無理に四角を描こうとして、面積がどんどん小さくなる。四角が書き終わったら今度は円に戻る。とうぜん内接円である。結果何も書けなくなる。

ある程度続けると気づいてくるが、自分らしさは枷である。私も書きながら「またこの流れか!」とうんざりするときがある。そういうときに私は真ん中ら辺に戻って、そこから人とは違ったことを書くことが多い。あとは、できるだけ話し言葉で書くと良い。人って話しながら飽きる人ってあんましいないじゃないですか? だから話すように書くと、飽きずに書ける。話すように書くコツがわからない人は、この二つ前の文みたいに、同じ単語(ここでは「人」)を繰り返し出すと感じが出る。もちろん下手くそに書けということではない。

私事だが、最近では脳全体ではなく、前頭葉のあたりに独特のしびれを残すイメージで記事に取り組むことが多い。おわり。

彼岸島 感想

昨日の記事を書き終わった後に、Twitterで報告する場面で私は、
彼岸島も続きが読みたいと思ったがあれは裸が多くて」
とコメントした。実は昨日の記事は「いぬやしき」と、タイトルだけで書いているうちに彼岸島のことばかりを書くだろうと私はぼんやり予想していたのだが、予想は裏切られた。裏切られた、というか「いぬやしき 感想」なんてタイトルにしてしまったから、いぬやしきとは人気のマンガだから感想と宣言した手前ちゃんと書かないと、怒られるような気がしたから、うまく脱線できず、結果イヤイヤいぬやしきについてどうこう書かなければならなかった。だから今日は彼岸島について書こうと思うが、やはりタイトルを「 感想」としてしまったからイヤイヤ書く。

私は彼岸島を四巻か五巻まで読んだが、やたらと女の裸と失禁シーンが多くて、
「これはどうしたものか」
と、困ってしまった。私がもし、大人だらけの家に住んでいるなら特に困らないが、未成年がふたりもいるから困ってしまった。私は小学三年の次女に、
「これは吸血鬼のたくさん出てくる怖いマンガだから読まないように」
と忠告するのだが、子供は読みたがる。なぜ読みたがるのかというと、「なにかある」と感じ取るからである。なぜ感じ取るのかと言えば、私が遠ざけようとするからである。私は、例えば昨日の記事でふれた「いぬやしき」の一家惨殺シーンなら、特に「見るな」とは言わない。勝手に見て、勝手に後悔すればいい、とすら思う。だから子供からしたら、私の挙動は明らかにおかしいのである。それならば大人の演技力で、「好きにすれば」を装えばいいのだが、「じゃあ好きにする」をやられると困る。それは賭けであった。私は賭けの類が苦手なので、「私の意外な一面」風の演技で乗り切ろうとするのだが、子供からしたらお見通しなのであった。

どうして裸がダメなのか、私としても不思議だが、子供の性の目覚めに親が関わりたくない、という思いがあるのかもしれない。例えば子供が親の性行為を見てしまい、その後の人生になんらかの影響を与えたという話がよくあるが、あれは親からしてもなんらかの影響は受けるだろう。

私はちゃんとした親の性行為は見たことがないが、祖母が夜中に妹相手に「おっぱいダンス」をやっていたが、私が部屋に入ると途端にそれは取りやめになってしまい、それはショックだった。もちろん祖母の乳房が見れなくてショックを受けたわけではない。

いぬやしき 感想

昨日奥浩哉による日本の漫画、「いぬやしき」の1巻と2巻を読んだ。なかなか面白いと思い、続きを読みたいと思った。しかし2巻の適等に選ばれた一家が殺されてしまう場面は読んでいてつらかった。私には妻と子供がいるからである。最初にお母さんが台所で殺され、次に幼稚園児くらいの子を風呂に入れていた父親が殺され、子供は殺されなかったが父の重みで溺死し、最後に高校から帰ってきた長女が、
「お腹すいたなー。お、今日は肉じゃがかな?」
と言って殺された。つまり家の中は死臭より料理のにおいのほうが強かったから犯行は短時間で効率良く行われたということだ。肉じゃががつらい。どうしてこんな残酷なシーンがエンターテイメントとして成立するのか、作者というか人類そのものが憎かった。私は午前中にそれを読み、そのとき小学校に行った次女が、家のすぐ近くの見通しの悪いカーブで車にはねられるのではないか心配になった。あそこは下り坂だから、馬鹿な車は加速してしまう。私は一年生の頃に、カーブに入る前にカーブミラーを見て、車の有無をチェックしたほうが良いと子供に忠告したが子供にはカーブミラーが理解できなかった。だから死んでしまう可能性もあった。そのあと今度は長女から迎えに来てほしいとラインが来たから、わざわざ川越まで迎えに行った。西口のマックの前ね、と伝えたら東口のマックの写真を寄越した。私はそのときすでにマックの前にいて、サラリーマンが出てきたの見える? ときいたらこちらには学生しかいない、というから変だと思った。私は東口のマックなんて知らなかった。東口のマックには虫がたかるみたいにたくさんの自転車が停められていた。娘が言うには二階は骨付きの鶏肉を売る場所だと教えてくれた。ケンタッキー、が出てこなかったのである。それでも私にはそんな場所があるなんて思いつかなかった。私は西口で辛抱強く待った。

私はあんなにつらい思いをしたのに、一家惨殺のシーンを帰ってから5回くらい読み直した。どうして読めるのか、それは本当の意味でリアルでないからだ、というのを以前どこかで読んだ。バイオハザードでゾンビを殺しまくれるのは、結局ゾンビが人間でないからだ。そういう意味で、ゾンビは、人間が人間を殺すために作られたのかもしれない。もちろん本物の人間を躊躇なく殺してしまう人もいるだろうが、そういうのはまだまだ例外で、例え二次元でもゾンビくらい人間くささを消さないと、大多数の人は気持ちよく殺すことができない。

結局いぬやしきの一家も絵であるから、私は受け入れることができた。例えば大震災のとき、Twitterで誰かが、私たちの住む世界は、もう違ってしまった、と言っていて、私は外を出歩く度に、建物や電柱が私めがけて倒れる想像をコントロールできなかった。それと同じようにいぬやしき、の件のシーンのあと、私の一家も死ぬ気がして仕方なかったが、ものの数時間でそれは霧散した。地震のリアリティには遠く及ばなかった。それは注意深く絵を見ると、黒目が濃く書かれていたり、とか細かい配慮によって、「これは嘘ですよー」のサインがなされているからである。自然現象には当然配慮などない。

地震大雨

昨日の昼の1時少し前に地震があって私は仕事をしていてそのときは休憩だったから天井を眺めていた。私の職場は国道沿いにあってトラックがよく通るから、静かなときなどはそのトラックが起こす振動を地震と勘違いすてしまうからそのときも実は地震じゃないかもしれないといっしゅん思った。何しろ普通の家屋じゃないから食器棚が揺れるとか、電気の紐が揺れるとかそういうのがないから地震と判断するとっかかりがない。そのあと私はめまいを起こしたのかと思い、注意深く天井を眺め続けた。めまいはめまいで厄介でそれならいっそ東日本大震災のときみたいな震度5とかならすぐにみんなも飛び起きて、この揺れが私発信でないとわかればひと安心なのだが。私は三半規管が弱く、大抵の乗り物にはすぐ酔ってしまい、めまいとかは極度に恐れている。あと、メヌエール病というのもある。私がそれにかかったわけではないが、「めまいが激しくて朝起き上がれない」なんて聞くとぞっとする。つまり地面にいるのに際限なく酔っているのと同じ状態だからだ。

昼休みが終わってすぐに
「今揺れましたよね?」
と近くにいた人に訊ねると、そのうちのひとりが
「はい」
と言ったから、とりあえず私は安心した。私はめまいを極度に恐れている。これはめまいとは直接関係ないが、あるとき私が駅の券売機の前を歩いていたら、券売機と券売機の間によく市内の催しのポスターなどが貼ってあることがあり、それを歩きながら眺めていたら私の意志と無関係に足がポスターのほうに歩き出したから、そのときはすごく怖かった。視覚と脚の神経がごっちゃにでもなったのか。私はそのとき券売機とは離れた側から改札に向かって歩いていたのだが、そのときはまるで一心不乱に切符を買い求めているようであった。じっさいは定期券を持っていた。
「あららららー」
という感じにどんどん私はポスターに向かって歩いていき、ある程度まで行ったらまた足の自由を取り戻したから良かった。そういうことはその一度きりだったので、病気なのか一時的な神経のエラーなのかは判断がつかない。個人的には緑色の字で書かれた「赤」という文字を「緑」と読んでしまう現象に似ている気がする。

家に帰るとクーラーがついていて、妻は暑がりだから扇風機もがんがん回していて私は寒いくらいで上着を羽織りたかったが、気を遣わせるのもなんだと思い、そのままでいた。しかし私なりに二の腕をさかんにさすったりして、どうにか向こうから
「寒いの?」
と訊かせるよう仕向けたが、気づく人はいなかった。子供もみんな暑がりで、私などは夜に何もかけずに寝てしまう子供を見て寝冷えするのではないかと不安に思うが、まったくへっちゃらそうであった。ところが夜になるといくらか涼しくなったので、特にクーラーもつけずに床についたが、私は暑くてなかなか寝付けなかった。足元から扇風機の風が「強」であたり、それが首を振りながら一定の間隔であたるのだが、あれって前から思っていたが当たっていないときに皮膚の温度がぐんぐん上がり、風があたるとそのときだけ下がる、というのを繰り返し、上がっているときは暑くて不快だから、私としてはむしろ風にあたらずに、暑いのを我慢するほうがまだマシなような気がする。人工の風だから、風の強さが気温にマッチしないからおかしいことになると思った。

「あちー・あちー」と思いながら浅い眠りについた私だったが、午前二時前に雨の音に目が覚め、あわてて各部屋の窓を閉めてまわった。体感的には3時半とか4時だと思っていたら、まだ2時にもなってなくて驚いた。窓を閉めたら蒸し暑くなるだろうと思い、クーラーをつけたらやはり寒かった。

シンデレラのガラスの靴が魔法の産物でないことについて

タイトルのことに書かれた記事を読んだ。靴だけは魔法で変えたものではなく、贈られたものであり、だから夜の12時をすぎてもガラスの靴のままだったとのこと、そもそもシンデレラは虐げられていたから裸足だったから、何かをガラスの靴に変えることはできなかったらしい。真偽は置いといて、私はここから作者の苦悩をかんじとった。同じ頃私は「物語とは因果である」という文章を読んだ。それによると物語のパターンとは究極的には6種類しかないということ。たったそれだけ!? と思うのが求められた反応かもしれないが、私はつまり、この6種類に分類できなければ物語として認識されないというふうに判断した。もし、シンデレラの靴が魔法の産物であるのなら、12時すぎたら魔法が律儀に解けないと、読者は物語と思ってくれないと危惧した結果の「ガラスの靴は魔法ではなく贈り物」という設定だったのではないか。その設定を読者が知っているかどうかは関係ない。作者を奮い立たせ、どうにか最後まで書ききるための、すがるために用意された「設定」なのではないか、と勝手に妄想した。

私は過去に小説をいくつか書いたが、書いているときは不安です。いや、忘れた。ブラックジャックが手術した後に、その技のあまりの鮮やかさに唖然とした客(じゃなくて、なんかその辺にいた人)が、
「き、君は一体手術のとき、何を考えているんだ?」
と問うと、ブラックジャックは、
「さあね、ヤクザのチャンバラと一緒でさァ。切って切って切りまくるだけでさァ」
と答えて、ベンチでぐうぐう寝てしまう。というのに憧れて、私も文字を並べるだけ並べるが、やはりそこに物語なんて立ち上がらない。物語とはすなわち因果、というのも併せて読んだが、私に言わせれば因果とは問い中に答えを織り込んでしまう物のように思える。例を出すとさっきのブラックジャックに対する問いがそうで、凄腕の医者の技を目の当たりにして、
「何を考えているんだ!?」
なんて質問するだろうか。やはり私には「何も考えていない、考えることは無意味」という答えが先にあったとしか思えない。そうするとブラックジャックエスパーの類でないとすると、ペテンをしていることになってしまう。そうでなければ勘が天才的に鋭いということになり、ブラックジャックは現に天才だから、答えが先でも結局は不自然ではないのかもしれないが、とにかく昨今のストーリーは天才ばかりで飽きてくる。

それでまた小島信夫の話だが「寓話」という小説を私は読んでいるが、森敦と小島が電話で話しているシーンで不意に小島が、
「関係ない話をしていいですか?」と問い、森敦が、
「いいですよ」と答えると、小島はほんとうに関係ない話を始めた。関係ない、とは小説とか本編とかそういうのと本当に関係ないから参ってしまった。

納豆

私は平日朝はたいてい納豆を食べていて、昨日だか子供に、
「朝はパン派? ご飯派?」
と訊ねられ、「どっちでもいい派」と答えた。じっさい、休日にはパンなども食す。義父は強固なご飯派で、それ合わせて義母がご飯をもりもり炊くから、ご飯は積極的に消費しなければならない。仕事のある日はお弁当を持って行くからご飯はそれなりに減るが、日曜などは持って行かないから減らない。出かけたりすれば尚更だから、義母も少しは米の量を減らせばいいのに、そういった応用のきかない女なのである。出かけなければ平日と同じように経るから、非はむしろ私(筆者)にあるのでは? とお思いの方もいるかもしれないが、私は家では気持ち程度しか茶碗によそらない。しかし妻は私のご飯をよそるときは常に大盛りにするから、途中からご飯のたぐいは自分でよそるようになった。
「残してもいいよ」
と妻は言うが、食べようと思えば食べられる量だから困った物なのである。お弁当については円筒形の金属製の器にご飯を盛るのだが、妻にやらせると「ココマデ」の線などお構いなしにぎゅうぎゅうに詰めるから、端のお米がすりつぶされてしまい、私などはやっぱり農家の倅だから、つぶれたお米が不憫なので、お弁当のご飯についても自分でよそるようになった。私は実は極度のマニュアル人間で、「ココマデ」は絶対守るし、あと冷凍食品の「○○Wで●分」などにも忠実じゃないと気が済まない。

話がずれたが、私は朝納豆を食べながら、自分の感情がケーキを食べているときのそれと同じことに気づいた。はて、どうして納豆を食べながらケーキのことを考えているのだろう、とよくよく考えてみたら、私はご飯から納豆が落ちないように慎重に一口大にご飯をわけて口に運んでいるわけだが、その動作が、生クリームや苺がスポンジから落ちないように注意するのと同じだということに気づいた。私は、実は納豆を単体で食べるのがあまり好きではなく、また丼もの全般でも上物とご飯を同時に食べ、途中経過では単独のときがあっても、最後の最後はご飯と上物同時に口に含みたい、と思っている。そういうのは、例えばうな重とかやわらかいのなら容易だが、カツ丼や天丼だとむずかしい。子供のころはどうやって一緒に食べるのかということに腐心したが、やがて上物のあとにご飯を頬張っても良いことに気づき、それはつまり同じ丼や重に盛られても、ご飯とおかずとしてとらえても良い、という発想だが、とにかくそれに気づいてから私は気持ち的にずいぶん楽になった。私は実は大口を開けるのが苦手で、とくに今年の前半頃は大きく開くと顎が痛くなり、これは顎関節症ってやつかなあ、と憂鬱になっていたら、いつのまにか痛くなくなって嬉しい。

頭痛

私の母方の祖母はまだ存命で、もう90才を超える。祖母がまだ80代のある日、かかりつけの歯医者に行ったら、
「少し太ってきているので、甘い物は控えましょう」
と言われた。確かに祖母は祖父が死んだ頃には周りが心配するくらい痩せたが、ある日を境にまた以前と同じように食事をとるようになり、髪を金だとか紫に染めるようになった。祖母は私が子供のころから髪を黒く染めており、逆に祖母の妹は全く染めずに真っ白だったから、頭の色が彼女たちのトレードマークだった。祖父は毛そのものがなかった。その祖父が一足先に亡くなり、祖母は一時期髪を染めるのをやめたら一気に白髪になり、私は
「おばあちゃんになったな」
と思った。それが再び髪を染めるようになり、食事もよくとるようになってお尻も大きくなり、歯医者に「太りすぎだ」と注意された。祖母は
「どうしてこんなババアになってまで、色々我慢しなきゃいけないんだよ」
と、歯医者に逆ギレしたらしい。私はこのエピソードが好きだ。そして、年をとることに、なんらかの希望を感じる。

私の会社の後輩が一時期、
「自分は明日死ぬということになっても、それは構わないと思っている」
という旨のことを言っていて、私は「子供っぽいな」と思った。それはどことなく、いつまでも健康で生きていたいと思っている人を侮蔑する響きがあった。思慮深い人は、長生きなんて恥ずかしくてとてもできないと思っているのかもしれない。しかしながら、私だってかつて夜中にお腹が痛くなって病院に行ったときは、道中
「まあ、死ぬかもしれんが、しゃーない」
と思った。あまりに痛いから妻に救急車を呼ぶように頼んだが、聞き入れてもらえなかった。しかし今から思えばそれは痛みとしては序の口で、私はそのあと尿管結石に、また以前には群発性頭痛になったこともあったが、それらのときは、死ぬことを考える余裕がないくらい痛かった。頭痛のときは私もまだ若かったから、寝ていれば治ると思い、実際一晩寝ると元気になるのだが、昼になるとまた痛み出す。それを何日か繰り返してようやく病院に行ったら、
「風邪です」
と言われ、私も風邪なわけないだろう、と思ったが、処方された薬を飲んだらすっかり元気になり、それから10年くらい今に至るまでそういう頭痛はないから、もう何も文句は言えない。その病院は今では代替わりして建物も改築され、駐車場も広くてきれいになった。