意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

トランプがトランプのような顔をしていた

SMAPの出演するバラエティ番組の録画を見ていたら妻がやたらと「慎吾ちゃんの顔が怖い」と言う。私はすかさず「そう思わされているだけの話かもしれないよ」と釘を刺すと「そうかも」と納得をした。ゲストは安藤優子で、私はだいぶ老けた安藤優子を見ながら誰かに似ていると思ったら妻が「和田アキ子みたい」といい、まさしく頬の真ん中に斜めのシワが入っているあたりが和田アキ子にそっくりなのだった。和田アキ子についてはひとつ面白いエピソードがあり、昔大航海時代というゲームを私はプレイしていたが弟もプレイしていて、大航海時代には当時発見した港に自分の好きな名前をつけられるという機能があった。港は現実に存在するものであり、名付けの場面には薄い文字で本来の名前が書かれていて、私のようなマニュアル人間はその名前をそのまま採用してしまう。しかしあるとき弟のセーブデータをプレイしていたらアフリカ大陸最南端の喜望峰に立ち寄ったら名前が「和田アキ港」となっていて、こんなわくわくするような港もそうはないだろうとひとり爆笑した。弟は部活に行っていたのである。和田アキ子の話はこれで終わりです。ところでゲームというのは特にそこに物語が入ってくると、登場人物や街や武器に好きな名前が付けられることが多々あるが、それは思い入れを強くするための処置なのだろうが私はそこにあまり意味を見いだすことができない。先日たまたまネットでポルノ小説を読みたい衝動にかられたが、そこでも主人公と相手の女性の名前をどうするか? と空のフォームが表示され、それ以上読もうという気にはなれなかった。私はリアルさで言ったら、名前は先方から提示された、なおかつ絶対に変えられないという方がずっと上だと思う。例えば小説で、名付けを読み手に委ねる類の物は、ここ十年で見たこともない。私はたまに小説を書くが、私の書くものは現実で知り合った人が度々出てくるが一応現実とは違った名前をつけるが、あまりしっくりこないときがあって、思い切って全部実名にしたら結構すっすと書けた。しかしやがてその小説は途中で書くのをやめてしまった。

生きるとは死なないこと

これから書こうとすることは、先週金曜日に養老天命反転地に行ったときに感じたことだが、そのときは行った人みんなが感じることだからわざわざ文字に起こすまでのことはないと思っていたが時間が経つにつれ、そうとも限らないと思うようになり、なんにせよ行かない人は感じない。だけれども書こう書こうと思って一昨日が過ぎ昨日が過ぎ、ここまでくるともうちゃんと書ける気がしない。頭の中で書きすぎた。そういうことはまずうまくは書けない。それでも書こうとするのは、他に書くべきことが見つからないからだ。

私はこの3日間高速道路をよく走った。かなりの距離を走った。走り続けているとどうしてこうもしつこく平面が続くのか奇妙な気になってきた。私は道を間違えた。私はふだんからよく道を間違えるのである。ナビに頼りすぎて、県の位置や方角などをおぼえないからだ。しかし道は間違えたからと言って、そこで道からはじき出されるとか、そういうのがないから奇妙だ。私はこのことについて、それは誰かの意図が働いているからだ、と分析した。おおよそこの世にあるもののうち、人が作り出したものには何かしらの意図がある。意図があるから私たちはここまで来ることができた。高速道路というのはかなり強力な意図だ。それが山を削って道路を平らにする。トンネルも掘る。私はとても長いトンネルをくぐった。こんな長いトンネルを掘るなんて、かつての日本はとてつもなく景気が良かったのだろうと、私は分析した。

しかし他人の意図というのは、私たちに何かを強制する。道路を作られれば、もうそこを走るしかない。他人の意図には、自分の意図も含まれる。直線も曲線の一種みたいな理屈だ。たまに「生きているってかんじがする」という言葉を目にする耳にするときがある。頭に「自分の人生を、」と付いたりする。私はその言葉にいつも妙な違和感をおぼえていた。生きていながら、生きることを実感するなんて妙な話だ。私はこの言葉が、暗にふだんのなんでもない自分を否定し、余計な苦痛を自ら背負っているようにしか見えない。考えてみたら、私は旅の特別な雰囲気、が好きになれない。もっと平たく言うと、はしゃぐ子供や大人に嫌悪をおぼえる。それは決してふだんの自分をないがしろにしているから、という理由でもないが。

考える、と私たちは軽々しく言うがそれだって誰かの意図である。強制である。そこでどこかにたどり着いたとしても、それはすでに誰かが開墾した土地なのである。だから正しい間違いでくくるなら、考えることは間違いなく間違っている。

目の前の険しい道を一歩一歩歩くとき、私はこれこそ本来の生きる行為ではないかと思った。足を踏み外すと奈落に落ちて死ぬから、死なないように注意しなければならなかった。これは下手をするとすすんで苦痛を背負いましょうという比喩にとられるかもしれないが違っていて、私が言いたいのは放っておくと死ぬ危険が高まるから注意しましょうというだけのことである。死なないと生きられるのであり、生命だから生きることが目的なのである。

他人の子供にくらべ、自分の子供が死なないようより注意をするのも、愛着か遺伝子と言われるがこれも誰かの意図かもしれないので、ゆっくりと見極めていきたい。

天然

旅先で「天然とんこつラーメン」という看板を見かけ、どこかに野生の豚がいるのか、あるいは豚の墓場のような場所があって、そこから骨を拾ってくるのか、と妄想した。

一昨日私は養老天命反転地という公園に行ったが、昨日も勾配のきつい坂を登りそこは道なき道で私は何度も足を踏み外しながら頂上を目指した。上でポカリスエットを飲んだ。ポカリスエットを飲むのはずいぶんひさしぶりだ。老若男女みんなポカリを飲んでいる。私が子供の頃350mlの缶にポカリは340しか入ってなくて、子ども心に(ぼったくりや)と思ったが、あらためて見ても340のままだった。子供のころはペットボトルなどなく、缶も250と350しかなくて単純で良かった。ヤンブーという、弁当とかエロ本とか、とにかく何でも自動販売機で出てくる店(ドライブイン?)があって、未来はこういう店ばかりになるだろうと思ったが、今は自動販売機で何かを買うことなんて滅多にない。自動販売機じたいは見かけるから、私が買わなくなっただけかもしれない。だから
「将来○○の発達で、なんとかは不要になるかもしれない」
みたいな話をよく聞くが、それは結果的に不要にはなっても、現時点の想像とはかけ離れている可能性が高い。

ゴーストバスターズ 感想

先週金曜ロードショーで放送された「コクリコ坂から」の感想について記事を書いたら、ブロガーのポンコツっこさんから「来週は「ゴーストバスターズ」の感想をお願いしたい」という旨の感想をいただいたのだが、ポンコツっこさんは大のゴーストバスターズ好きなのかもしれないと思い、見ようと思ったが途中で寝てしまった。それは映画が退屈すぎてというわけではなく、昼間暑い中急勾配の坂を登ったり降りたりしたせいだ。夕食にパスタを食べたら、女性アルバイト店員がいちいち
「よろしかったでしょうか?」
「ボロネーゼになります」
とか言うから引っかかった。愛想はあるが、どこかテンポが悪い。だんだんと細かいぶぶんに目がいくようになってしまい、お皿を置くときにお冷やを押しのけたりとか、そういう粗が気になるようになってしまい、あと席も確かに四人席なのだが四人で座ると手狭で、私たちはたくさんの汗をかいてやってきたから、お互いの臭いが気になった。私たち、とは私と家族である。翌日になって子供に
ゴーストバスターズどうだった?」
と訊いたら、
「よくわからない」
と言うのでまったく参考にならなかった。私の子供たちは「世界の果てまで行ってキュー」とかが大好きでその流れで女芸人が好きで、だから新しい「ゴーストバスターズ」にも興味津々だったが、ゴーストとか映画には興味はなかった。私はそういえば、見ながらバック・トゥ・ザ・フューチャーと似ているな、と思った。捕らえたゴーストの体を電流がジジジ、となるところがタイムトラベルしたてのデロリアンに流れるそれと似ていると思う。デロリアンは1.2ジゴワットの電流でタイムスリップするが、最後雷の電流を利用するときに、雷の電流がびっくりするくらいノロいスピードで時計台から流れてきた。私は小学一年の頃、学校帰りに自分に向かってきた雷をすんででよけたことがあったが、大人になっていくらなんでもそんな馬鹿なことがあるわけないと思い直したが、80年代の雷は遅かったのだ。

アリの気持ち

前から行きたかった養老天命反転地というところに行ってきた。しかしあまりに暑かったので正味30分くらいで出てきた。お昼ころについて、腹は減っていたが
「中で食べればいいや」
とか思ったら中は傾斜ばかりであった。飲み物も所持していなかったので、流石に死ぬかもと思った。とはいうものの、養老天命反転地はそこで遊んでいる人は決して死ぬことはないということなので、死ぬことはないのかもしれない。生き死には別として、ズボンの裏側の汗とか頭痛は不快であった。私は家族と一緒に来たが、少し前にSMAPの草なぎくんとか、嵐の大野君が訪れていたので、私の家族はそこに来ることに同意したと行って良かった。私はもちろん、保坂和志とか山下澄人荒川修作について語っていることと、さらには小島信夫が岐阜の出身であるから来たいと思っていた。ミーハーなのはお互い様だった。

行ってみるとなるほど、と思うぶぶんはたくさんあった。誰もが行って後悔する場所ではないと思う。私はコンクリートや岩の山を登りながら、蟻の気持ちについて考えた。私の生家には土地の境界にブロックが並べられていて、私はよくそこで蟻を見た。大きいのも小さいのもいた。土には巣もあり幼い私はほじくり返して蟻の逆襲にあい、膝頭を噛まれて泣いた。30年以上立って、私たちの立場は逆転した。それは私が社会の一員になった、という意味も含まれる。とにかく合理性だとか効率だとか、そんなものは人間同士にしかない価値観である。荒川修作はそれ以外も含めてこの公園を作った。

私の子供が幼稚園に通っていた頃、私の家の前に送迎のバスがやってきて、私たちはバスが来るまで向かいの家の前で待っていた。向かいの家と道路の境にはコンクリートがあって、私たちは暇なときなどはそのコンクリートを見ながら過ごした。冬になるとバケツの水が凍るのでそれを割ったりした。あるとき私たちはコンクリートのわずかな隙間の根元に、土の山が出来ていることに気づいた。土のきめは細かく、そのため山はミニチュアのピラミッドのようであった。一体どういうアレで山が作られたのか、観察していると不意に隙間の上の方で蟻が頭を出し、噛んでいた土くれを離したのである。コンクリートの向こう側は蟻の巣だったのである。私はこの発見に感動すらおぼえ、それは子供にしても同じだった。子供は家主にその事実を伝え、家主は早速ホームセンターで駆除剤を買ってきて、蟻を根絶やしにした。隣家の主人は新潟出身だそうである。

長い

思っていることを書けばいいんじゃない? と上司に言われメールをしたら
「あっつ......長いね」
と言われた。長い物を熱いと感じてしまう類の人のようである。つまりラーメンや鍋焼きうどんなんて熱くてとても食べれないが、ペンネならいける、というクチである。ムカついたが私ももうくたくたで、長い物にはすすんで巻かれたい気分だったので黙っていた。そうしたら「もういいよ」ということになって私は安堵した。

どうしてもあまり人に聞かれたくない電話をする機会が増え、人気のないところすなわちこの時期ならクーラーのない場所となって、寒がりの私もさすがに暑さにこたえてきた。人に聞かれたくないなんて、自意識の極みであるが、私はこのようにしてたとえ仕事中でも思春期の若者のような感性を保つのである。受話器がぬるぬるして気持ち悪い。相手の声が小さくなったので、「壊れた?」と思ったら私が喋っていたから向こうは黙ったのだ。あと私が携帯を持ち始めた頃はまだまだ電波が弱くて、家の中はドコモ以外圏外で、私はIDOだったからわざわざ外にでて電話をしなければならなかった。私の家は日陰が多くて蚊がたくさんいたから、私は車に乗り込んで電話をした。車の中も暑かった。それで電波が悪いと
「ポポポ、ポポポ」
という音がして、それを無視するとやがて電話は切れるから、私は急いで電波の良さそうなところに移動しなければならないが、昨今は雨後の竹の子のように電波塔がにょきにょき生え、通話に困ることはほぼなくなった。しかし私の勤め先は相変わらず電波が悪く、この前ひさしぶりに、
「ポポポ、ポポポ」
というから、「んだよ」と思って倉庫内をぐるぐる回っていたら、それはキャッチホンだった。

一番と二番

よく歌って一番と二番とかあるが、歌詞の文句について同じ箇所で例えば母音が同じなど酷似しているときがあり、それは韻とか呼ばれたりする。私が朝出勤中に聴いていた歌にもそれはあり、それは相対性理論の「帝都モダン」という曲で(作詞はティカ・αという人です)一番では、
Wi-Fiさがして」となっているが、二番では
「ワイワイさわいで」となっている。そういうのがあると私は
(先に考えたのは一番二番のどちらだろう)
と気になってしまう。あるいは同時かもしれない。何にせよ、私は後から考えられた方は言ってみればこじつけであり、どこかないがしろにされたような気になってしまう。韻というのは口ずさんで気持ちいい、耳に心地よい、などの効果はあるのだろうが、意味に踏み込むとどうしても(他にもっと適当な言い回しがあったのでは?)と思ってしまう。

似たような話で私は昔ドラムをやっていて、ドラムに座ってすぐ左にはハイハットというシンバルを水平に二枚重ねにした打楽器があり、実は厳密には下のシンバルは水平ではなく若干傾いている。全体がいっぺんに重なると空気の抜け道がなくて音が小さくなるからである。ハイハットというのは足元に足踏みペダルがついていて、そこで二つのシンバルの間隔を調整して音色を出す。おおざっぱにオープンとクローズというのがあって、クローズは盛り上げに欠け、オープンは節操がない。そうやって初心者ドラマーは二つの音色を使い分けるのである。ちなみに上級者は六種類か七種類音があって、昔雑誌を読んでいたらリック・マロッタというドラマーがスティーリー・ダンの「ペグ」という曲のバックで演奏したときに、「ハイハットを髪の毛一本ぶんだけ開いて」演奏したと言っていた。しかしCDを聞いても髪の毛一本ぶんの音色などわからない。髪の毛といっても老人と若い人では太さにはだいぶ差がある。

とにかくハイハットは二つのシンバルを離すほど音が派手になるのだが、一番インパクトがあるのは、オープンとクローズを同時に繰り出す方法である。これは漫画「るろうに剣心」なら二重の極み、「ダイの大冒険」でいったらメラとヒャドを同時にくりだすメドローアのようなものだがそこまで大仰なものではなく、最初オープンにして叩き、叩いた瞬間に足を踏み込んでクローズにする、すると出た音の余韻が一瞬で途切れ、「ばしっ」というアクセントのきいた音になるのである。しかしただ闇雲に踏めばいいというのではなくタイミングをつかむ練習はある程度必要であり、あとハイハットは左足で基本踏むのだが、左足が利き足でない人が多く強く踏み込めない。ハイハットは重いシンバルを支えているから中には太いバネが仕込んであり、なれない人はクローズにするために踏み込むだけでも難儀なのである。だからこのオープン・クローズがきれいに決まるようになると嬉しくなって、実際の自分のオリジナル曲などの見せ場に積極的に入れたりする。しかし
「あんまり入れすぎると嫌みになるよ」
と先生にたしなめられた。

そういうのが、歌詞の韻を踏むことにどこか似てると感じたが、書いてみたらそうでもなかった。