意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

手帳

以前も書いたが私はメモをはじめとする何かを書き留めておく行為全般が苦手で、手帳に関してもいちいち書き留めておくことが面倒で、予定はだいたいおぼえてしまう。忘れたら大変なことを書くのだろうが、そんなものはむしろ忘れる方が大変なくらいなので、それこそ書いておく必要はない。忘れたらその程度の予定ということだ。そういうスタンスで今まで特に大きなトラブルを起こしたことはないから、それでどうにかなったのだ。私は物をおぼえる行為が全般的に苦手だと自覚しているから、そういう謙虚さがこと今後の予定については忘れさせないのかもしれない。トランプの神経衰弱とか、どこそこまでの道のりなどは、まずおぼえられない。

しかし、上記の目さんの記事にあるように読むに値しないような退屈なコラムを来る日も来る日も読まされたり、メーカー名に山下達郎っぽさをかんじたり、なによりこの目さんのようなキレッキレの記事が書けるなら、それだけで手帳を持つ意味はあるだろう。

(手帳についての雑感)


2、
今朝はひさしぶりにレミオロメンの「エーテル」というアルバムをシャッフルで聞きながら出勤したが、このアルバムを私は20代の頃によく聞いたが、私の中では極めて音の悪いアルバム、という印象だった。それは昔に流行ったMDという録音媒体で聞いたせいで、MDはCDよりもかなりコンパクトな円盤で、しかし切り取られた外周のぶん音が劣化するという視覚的にも極めて納得できるつくりになっていた。私などは音に無頓着なほうで、別にエーテルだけを聞くぶんにはとくに不都合はなかったが、それから何年か前たってiPhoneで音楽を聞くようになると、プレイリストや全曲シャッフルとかやるようになり、そうするとエーテルだけ音が悪くて聞いてらんない気分になる。しかしiPhoneで聞くなら私は一度はパソコンで取り込むから、MDで聞いていたというのは変だ。私はMDのラジカセとパソコンをつないだことは一度もないから。どこかで記憶が食い違っていて、しかしそうすると媒体関係なくエーテルは音の悪いアルバムであり、確かに私のドラムの先生などは
「日本のアルバムは嫌がらせかってくらい音が悪い」
と言い、さらにドラマーの村上ポンタ秀一も、スティーリー・ダンという外タレが代々木体育館でライブしたのを見たときのことを回想し、
サウンドエンジニアはみんな眠れなくなったと思うよ」
とコラムで語った。つまりスティーリー・ダンはめっちゃ音が良く、しかしそれは外国と日本では会場の環境が違うからだとエンジニアは思っていたが、代々木体育館でも良い音で演奏し、結局は音の悪さはエンジニアの怠慢だと露呈したという意味だ。とにかくエーテルの音はただでさえ悪い日本の音の中でもチャンピオンった。あるいは最近の日本の音も良くなって、エーテルだけが例外なのかもしれない。あるいは私がCDを取り込むときに操作を誤って音を劣化させてしまっただけの話かもしれない。今朝はたぶんGoogleプレイミュージックで聞いていたからか、前より音が良いと感じた。しかしそんなものは全く当てにならず、音楽のデジタルデータでも拡張子がMP3だとクズ、MP4だと良いとか言う人がいるが、MP4なんて見たことがない。WAVがいいのかしら、なんて思ったらこれはタイトルとかの情報は保持できない。iPhoneで取り込んだときはAACとかあったけど、確かにそれで取り込むと元のCDよりもサイズが小さくなるが、だからといって音はどうなのか。一方Googleミュージックは取り込むと自動でMP3になって、だけれどもこのMP3はそこらのとは違うんだ、などと言ってくる。なんにせよこの手のことはほどほどにしないと音がうるさくて音楽が聞こえなくなる。

私の車が踏切にさしかかるとその手前に一組の男女が手をつないで歩いていて女は白い柔らかい布の膝下のスカートを履きブーツを履き、不意に左のブーツに石ころでも入ったのか男の腕にしがみついてブーツを脱ぎ、逆さにして振ってそれを眺めながら私は幸せを感じた。

よく嫁姑のやつで

最初嫁の方が姑になんらかの嫌がらせを受けていて、それは姑の個人的なものでありあるときそれが露見すると舅や夫が「なんてことしてくれなんだ!」と姑を責め、姑がむくれて以降関係が改善する(あるいは姑が孤立する)みたいな話をインターネットで二度三度目にしたが、私としては現実味を感じない。どういうぶぶんに感じないのかというと、少なくとも舅が姑を責めるというぶぶんである。たとえば姑が個人的に嫁をイジメていたとしても、舅と姑は長い間一緒に暮らしているから、舅は姑の味方なのである。味方という言葉は少し子供っぽいが、長い間一緒に暮らしているから同じ思考回路になっていて、嫁の訴えに対して何が問題なのかわからない。せいぜい
「まあ色々あるよな」
と一般論に逃げてニヤニヤしているだけである。ある程度考える力が残っていて相手の立場になれてもせいぜい誰もいないところで
「色々迷惑かけてすまんな」
と頭を下げるくらいである。衆目の前で咎めるなんて、嫁が死ぬくらいの大怪我をするとか、犬が死ぬとか家が燃えるとかそのレベルにないとありえない。犬も、昔の人は「犬なんて」て考える人もいるからいくら息子夫婦が可愛がっていても、アクセサリー程度にしか考えない人もいる。家も完全に姑の非が認められないと難しいだろう。だから舅も姑くらいアホで、最終的には何を言っても無駄だ、と嫁が悟って距離をとるという方が私は現実味を感じる。

祖母が入院をしており、それは私の義理の祖母であり年も80を越え、少し痴呆も入り、これはどうなんだろうという話を耳にする。それは私の義母の母であり、最初義母も義父も、どこか祖母が死ぬのを待っている節があり、私としては「それはないんじゃないか」と思った。たとえそれが本心でなくても、私はそういう類の弱さを認められない性分なのである。私も年を取り、頑固になったのかもしれない。しかし、よくよく話を聞いてみると待っているのは同居の息子夫婦のほうであり、義父義母はそれが許せない、というのである。私は息子夫婦(義母の弟とその嫁)の言動を耳にしていないのでじっさいはわからないが、義父母のニュアンスとしては、許せない、というより物足りないというのに近い気がした。例えば嫁がお見舞いもせずに、自分のパート仕事にばかり行っている、という文句から私はそのように判断した。私はそれだけで嫁側に立ってしまい、義母が口うるさい小姑のように感じてしまった。もちろんこの件に関し私が当事者に何かを言うことは永久にないが。

この類の話に関する人の豹変ぶりは恐ろしく、そしてやるせない。

私は芸能通

一昨日美容院へ行ったら美容師に
「スマップってなんで解散しちゃうんですか?」
と訊かれ、また木村と香取の不仲についてもコメントを求められたので
「工藤が悪い」
と答えておいた。これらはいずれもネットで仕入れた情報であり、美容師はネットをあまりやらないからこれらの情報が新鮮な様子だった。私はむしろ「香取が被害者」みたいなのを目にしすぎて最近では「木村が被害者では?」みたいな風に思うこともある。なんにしても私にはわからない。わからないからエンターテイメントである。私は2010年にスマホを買ってからネットをよくやるようになったが、それに慣れきってしまうとやらない人のあまりの物の知らなさに驚いてしまう。だからそういう人を相手にするとついつい得意げに喋ってしまうので、どこか恥ずかしさを感じる。あとネットの情報は基本テキストなので、音にすると違和感がある。私は「ブラック企業」という言葉をテレビが言い出す前から知っていたが、ある時期からテレビでも言うようになり、そうすると父親だとかも
「ブラックか!」
と、さも40年前から知っていた風な口のきき方をするが、私はやはりその「ブラック」という言葉の響きに恥ずかしさを感じた。

私は子供がキスマイフットツーが好きだから、そういう意味でもスマップの動向に詳しかったのである。今年の年はじめに飯島がやめる以前から私は飯島派とジュリー派があるのは知っていて、飯島はフジ、ジュリーは日本を牛耳っていた。それらが去年だかに近藤マッチが芸能生活40周年だか迎え、そのステージではボーダーレスになって飯島だろうがジュリーだろうが現役のすべての手駒が揃って近藤の舞台に花を添え、私は感動した。それは確かフジの音楽番組で草なぎが司会で、だからジュリー陣営は若干の居心地の悪さを感じた。あとそれからさかのぼること20年に、JフレンズというV6とトキオとキンキの組んだ連合があって曲はマイケルが書いたりして当時は流行った。それらがミュージックステーションに出演したときに、同時に少年隊が新曲を引っさげてやってきて、彼らが歌うとき、バックダンサーをJフレンズが担当し、それは普通はジャニーズジュニアとか、外注のダンサーが行うから私は
「なんて豪華なんだ!」
と感動をした。私はジャニーズアイドルなんて当時も興味はなかったが、当時は妹がキンキのファンで、その絡みでジャニーズ関係の番組はみんな見るみたいな風習が始まり、私はすっかりジャニーズアイドルに詳しくなってしまった。私の生涯はジャニーズとともにある。

短歌の自由201609号

題詠 5首

1. 星

文字並べ今日もブログに星がつく。おーありがとう、ありがとねー(^_^)ノ


2. 吹

最終回死んだ寺尾が見ているよ、吹奏楽のそういうドラマ


3. はちみつ(蜂蜜、ハチミツも可)

養蜂場血圧ゼロの元恋人、はちみつレモンで毒をぬかれて


4. 川

日曜朝星野に怒られ川上が中日やめて「ビックリマン見るわ!」


5. 秋刀魚

夏秋刀魚、秋秋刀魚から「大根です」冬秋刀魚ったら「おろさず食べた」


テーマ詠

 テーマ「秋」

読書の秋、芸術の秋、運動の秋、食欲の秋、木の葉、蜻蛉、鈴虫の音…
あなたが感じる秋の気配を詠んでみてください。



6、秋高く天肥ゆる馬午年の午後は短し歩けよ遅寝


7、先週は火曜出張金研修これが私の秋ですよ(拝)


8、8月は良かった今年ここ十年でいちばん良かった「「「ボジョレーかっっ!」」」


9、犬わんわん猫にゃーゃーの蟻ぷちぷちリスは急いで冬支度
(※ブランキージェットシティ「リス」)


10、10月は休むよ月曜生まれるね? 甥が増えるよ満月臨月



※コメント
・テーマ詠みが楽しかった。次月以降もやりたい。
・秋という字と私という字は似ている。他の季節も対応する一人称はあるのだろうか。
・解説(1、私ははてなブロガー。2、比較的どうでもいいドラマだったが子供がどうしても見ろと言うから見た。苦痛だった。3、蜂と書くだけでは蜂蜜にはならない。4、テーマが石なら石井浩朗が出てきた。関口宏も出したいが字数が足りぬ。5、春夏秋冬煎餅というのがあって、しかし袋を開けると秋だけない。「飽きない煎餅だから」だって。ダジャレだね。6、ダジャレだね。7、新幹線乗った。8、旅行に行った。9、好きな曲。10、妻が出かけるので、私は来月休みを取る予定。)

文章をうまく書くには体言止めを使うと良い

たまにホットエントリーされている記事のコメントを読むと、「文章がうまい」とほめられているものがあり、うまいとほめられる法則を自分なりに考えると、どうやらそういう記事は体言止めが使われているようだ。体言止めというのは、「体言止めを使う私」「台風が過ぎ去った翌日の川」というように、人や物を最後に持ってくる手法でこうして書いてみると確かに「私は文章という物を意識しています」という感じがして、ほめる側がほめやすい環境が整う。あと「止め」だけあって、独特の間が生まれる。実は私は文章における「間」というものが苦手で妙なところに句読点が入ったり、改行が入るのも苦手で話が飛ぶ場合でもわざと改行を入れなかったりする。間は現実味を破壊する。そもそも私は自分がしゃべるように書きたいと思っているので、体言止めみたいなしゃべり方をすると気持ち悪いから書くときもあまり使いたくはない。しゃべるように書くとはおそらく誰もが考えていることだろうが、しゃべると言っても独り言の場合と会話の場合があり、私の場合は前者だが後者のことを指す人もたくさんいるだろう。私は結局ひとりだから無駄に騒がしい文章は書かず、静かな部屋で耳をすませて聞くような書き方をしている。

とにかくうまい文章を書く法則はわかったのだが私はそういう記事についてあまり最後まで読みたいと思うことは少なく、もちろん最後まで読まなくても面白いものは面白いがこの手の記事は「もういいや」という気にさせる。とにかく過去の話をする場合は気をつけた方がよい。「コミュ障だった過去の私」とか出てくると「またか」と思う。人と違うことをやりたい、というくせにいきなり量産型の過去が飛び出す。とにかく人より目立ちたい人にはまずは過去を改竄することをオススメする。「私は飛び抜けて頭が良かったから誰もついてこれなかった」とかで良いと思う。これらは結局同じことを言っている。「過去は明るく、未来は暗く」のスタンスでやればもっと面白いものが書けるから参考にしてほしい。

そういえばここのところ定期的にキャンピングカーでヤギを飼いながら旅を続ける人のブログが話題になるが、私はあの絡みの記事を読むのが楽しい。批判する人とそれに言い返す件の人のやり取りがプロレスのようで読んでいてスカっとする。やはりこれも一種のやらせなのか。お互いに「あなたには関心はありませんよ?」みたいなことを表明するが、その実お互い放ってはおけないようである。互いに隙を見せ、互いに致命傷にならないように攻撃するのである。ところで「互」という字は点対称である。

私がないの

幼い頃から人を笑わせたり驚かせたりすることが好きで、小学四年か五年のときの国語に絵だけの台詞のない四コママンガがあって、それは吹き出しが書かれているから何かしゃべる用意はあるのだが、空白になっている。そこにオリジナルの台詞を挿入しましょうという授業で、当時私の考えた台詞は生徒たちの爆笑を誘ったが、どういう台詞だったかはおぼえていない。そのときの気持ちは「ま、こんなところだろう、俺面白いし」みたいな具合だった。それから何十年かして、Webの「ボケて」というサービスが当時の空白の吹き出しに台詞を書き込む作業に似ているが、私の投稿したものはちっともウケない。ウケないし、自分で読んでもあまり面白くない。他人の考えたもののほうがずっと面白い。私は昔からテキストの笑いが好きだから本当に涙を流すくらい笑って家族からは気持ち悪がられたが、自分のものはそれに到底及ばない。そういえばこのブログでも最初の頃は面白さを狙った記事も投稿したが、最近はまったくやらなくなった。しかし私は全く笑いの才能がないわけではなく、日々の記事でもユーモアは欠かさない。また、記事だけでなく会話にも笑いは入れている。それはちょっとした心がけ程度のものであり、相手の緊張感をほぐしたり、自己満足でやっている。というよりほぼ条件反射的なぶぶんもある。

会社で「こんなとき、あなたはどうする?」みたいなクエスチョンが出され、それは比較的ざっくばらんな場だったので、本音では「女房に迎えに来てもらいます」と言いたかったが、上司先輩もいるので「彼女に迎えに来てもらいます」みたいな上品な言葉に差し替えた。彼女でも少しはウケるが、女房のほうが破壊力はあった。そういう歯がゆさを感じながらふと、笑いとは他者の目線である、と悟った。質問では「あなたは?」となっているが、私は「あなた」のことなんてちっとも考えず、「あなた」以外の人が、どういう感情になるかばかりに関心を寄せている。私はものを書くときにいつも、もっと原始人みたいに書きたいなあ、と思うのは、常にここで読者はくすっとなるだろう、とか考えてばかりだからである。別に原始人が配慮に欠けているとかそういう話ではないですよ? だけれども原始人は文字を持っていないから、文字の始まりとはそのまま自意識の目覚めであると言っても差し支えないのかもしれない。つまり原始人のように書く、というのは土台無理な話なのだ。原始人を幼児に置き換えても同じである。私たちは義務教育くらいまでは封建社会でそれから革命やら戦争を経て現代人に追いつくのである。追いつくとしかしもう用無しなのか、時間ばかりが早く過ぎ去っていく。どうして途中から笑いの話でなくなったのかと言うと、以前も同じこと書いたなあと思ったからです。

父ヒロシのとおなじくらい

ふと自分の子供が「ちびまる子ちゃん」と同じ年齢であることに気づいた。そうすると私はその父親である父ヒロシと同じくらいの年齢なのか。作品と同じように私の子供にもお姉ちゃんがいるが、そのお姉ちゃんよりも私のお姉ちゃんの方が年上だから、ひょっとすると私のほうが父ヒロシよりも上なのかもしれない。なぜヒロシの頭に「父」つくのかと言うと、昔ファミ通掲示板コーナーで「ヒロシと言えば?」みたいな質問コーナーがあって、私はわざわざ投稿しようとまでは思わなかったが、
(ヒロシと言えばちびまる子の父親のヒロシだろう)
と思っていたら少し経って結果が出て、そこには久米宏だの生島ヒロシだの、ひろしだの、ちょっとしたヒロシ博覧会のようになっていた。もちろんちびまる子のヒロシもいた。それ以来私はちびまる子のヒロシのことを区別するために「父ヒロシ」と表記するようになった、と書こうと思ったが頭に父をつけたのは単なる思いつきだった。

それで私はこのままヒロシのことを書こうかファミ通のことを書こうか迷うが、そういえば今日は随分長いメールが送られてきて、それは書いたのは東京の人で最初は私の上司に送られてきて、それは軽い苦情でありしかしご存じのとおり私の上司は長い文章をあつがる人で、たぶん相当あつかったのではないか、ほとんど丸投げのような形で転送されてきた。文末には「しっかり対応してください」なんて書かれている。こんな汎用的な文をはさむなんて、さては全く読んでないな、と思った。確かに長いメールは疲れる。私は長い文章は頭、お尻、真ん中、みたいな順序で読んだりする。そうやってメリハリをつけないと頭に入らないのである。漫画などは最初一気に読み、ストーリーを把握してから二回目を読む。