意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

シャキーンのサイコロソングがすごい

シャキーンというのはEテレで月曜から金曜の午前7時から放送されている番組で、サイコロソングというのはその中でたまに流れる歌である。なぜサイコロなのかというと、1から6の目それぞれに別々の歌詞がついていて、それをランダムに組み合わせて歌う。数組の歌手が同じメロディーでそれぞれ1から6までの歌詞をつくり、だいたいの目が出る人もいれば、6ばっかりの人もいた。私はその中の谷本紗也歌という人の歌がとくに気に入ったからアルバムを飼ったらその中で相対性理論の歌のカバーをしていたから、私は似たものばかり好きになるなと思った。それとサイコロソングには映像もいっしょに流れるがそれが小学生が歌詞の内容を再現するのだが、男の子と女の子それぞれが主人公のときがあり、男の子は背が低くてコロコロコミックで下品なことばかり言ってる男の主人公みたいな雰囲気だが、対照的に女の子は脚が長くてもしかしたら中学生かもしれない。それがおかっぱの髪型で半袖短パンの体育着を着て片手風ぐるまを決めたりするから、私としては目が離せないのである。

ところでサイコロソングのすごいところは片手風ぐるまではなくて、先日久しぶりに番組内で曲が流れたと思ったら今回はライブ形式で、出演者が歌っている歌手の傍らでサイコロを振り、出た目を歌手が確認してその場でそれに合わせた歌を歌うというものだった。サイコロは完全なランダムだから当然1が続いたり、ということもあり、しかし1の歌の担当の人は一回歌い終わるともう自分の出番は終わったつもりで後ろに引っ込むがまたすぐに出番がきて、慌てて前に来る様子がいかにもおかしかった。頭でくることはわかってもそれまでの歌の反復がそうさせるのか、一旦終わると一息ついてしまうのである。そこが人間くさくて良かった。

書くことがたくさんある

朝は次々に言葉があふれてたくさん書くことあるなあと思っていたが、なにせ車を運転しているからその場で書くことができない。あれか、マイクに話しかければいいのかと思うが、セッティングしたところでいつも話すことがあるとは限らないし、思いついてからセットするのは危険だ。それでそのときも(書くときまでおぼえてられるかな?)と思って案の定忘れ、そういうときはなんでもいいから書くとたまに思い出したりする。思い出したら思い出す前に書いたことはを消せば朝のことを書ける。消したことはないが。

それで思い出したが昨日ズイショさんがnoteに文章のリズムのことを書いたという旨のtweetを目にして、リズムのことを考えていた。私はブログをやり始めたころ複数の人に「リズムの良い文章」と言われることがあり、私は「昔トラムやってたから」とうそぶいたら相手も納得している風であり、ブログとはなんでもアリだなと思った。実はリズムについて考えたことはなかった。それでも最近ドラッカーの本を読んだらドラッカー、あるいは翻訳者の文のリズムがとても良いとかんじた。それはこの手の本には珍しく一定の間隔で短くて断定的な文句が挟まれていて、読んでいてそこでつんのめるかんじになる。あるいは素振りしてバットがすっぽ抜けるような文である。ただそういうのがリズムが良いとかいうのは安易だ。

とにかく私は自分の書くものについてリズムを意識しないよう心がけだ。リズムが良いと褒められて、じゃあもっと良いリズムのものを書こうとすると、ロクなものにならないからである。よく言われるが、褒め言葉にこそ注意しなければならない。褒められてダメになった人をたくさん見た、という文章をいくつか読んだ気がする。私は2010年代初頭まではいかに伝えるかとか、共感こそ大事みたいなことを考えていたが、やがて行き詰まった。そういう相手ありきの書き方は安定性に欠くからである。そもそも共感だなんて、いかにも自己満足で気持ち悪い。

そうしたら最近になってもうあまり「リズムが良い」とは言われなくなった。最近では「話すように書く」と言われることがあり、これは私にとって意外だった。確かに以前の記事で「私のブログは延々と続くひとり言」と表現したことがあったがそれは比喩であり、もっと言えば嘘なのである。私は書いていてこんなに固い文章もないだろうと思うことが度々ある。もしかしたら読者は私が会社や家庭でこんなしゃべり方をしているのかと思っているのかもしれないが、現実の私はもっとお茶目でチャーミングである。会社で立場が上の人でも話のわかる人だと思えば、けっこうきわどい冗談をぶっこんだりする。当然それで失敗することもあるが、案外けろりとしているのである。

よく文章でもなんでも、成果物と自分らしさに統合性を求める人がいるが、私はそういうことに無頓着で、むしろ出来上がったものから私というキャラクターをつくるほうが作業としては好きなのである。

保坂和志

今月号の三田文学という雑誌で保坂和志の特集が組まれるというから購入した。そこに保坂にかんする山下澄人の文章も載っていて、そこに芥川賞の選考に出すために、原稿用紙250枚あった小説を200枚に縮めろと、編集者に言われた保坂が、
「だったら最初から200枚目のところで切って出してくれ」
と言った、というエピソードが書かれていた。それが山下が小説を書き始めたきっかけだった、と言う。この話は他でも書かれていたことがあって、YouTubeに投稿されていた保坂と山下の対談でも「これ読んだときに、ロックだな」と思って、とか言っていたから私は「山下は本当このくだりが好きだな」と思った。しかし山下の記憶は間違っていて、実は芥川賞ではなく群像新人賞に出す、というときの話で最初は群像にそのまま載せる話だったのが、編集者の誰かが「短くして出せ」と言ったのだ。結局保坂が逆らったからかは知らないが、新人賞には出されずに雑誌にそのまま載った、というのが保坂和志自身が書いたもののどこかに載っていた。山下は何度も書いているうちにわけがわからなくなったのかもしれないが、自然と間違えてしまうタイミングを狙っていたようにも思える。保坂和志の文章を読むとよく
「違っているかもしれないが、同じことだ」
と記憶の曖昧さをこのように書いているところにあたる。幼い頃の記憶とかなら違っても確かめようがないが、なんとかという本で読んだこととか、確かめれば済むことでも、そのまま書いてしまう。親切な本だと編集注が括弧で「実際は○○」と書いてあったりするから、本当に間違って書いている。どうして確認しないのかというと「同じこと」だからである。山下澄人も最近は似た書き方をする。私もさっきの群像新人賞のくだりは細かいぶぶんで合っているか自信がないが、どうでもいいやーって思う。

昔読んだべつの小説家は芥川賞をとるときに編集者に200枚あった小説を100枚にしろと言われ、一生懸命削ったら今度は250枚にしろと言われ、そうやって伸ばしたり縮めたりするうちに、本当に書くべきところだけを書く技術を身につけ、無事芥川賞をとることができた、というのがあったが、これは読むと確かにとれそうな気がする。しかしそういう原因があって結果がある、というのはスポーツである。努力は裏切らない、というのもスポーツの世界の言葉であり、表現の世界では関係ない。実は私は保坂和志の250枚→200枚のエピソードを読んでしばらくはそのことをどう捉えていいのかわからず、戸惑った。無意識に「編集者はプロと呼ばれる、とても偉い存在」というのが刷り込まれていた。何日か前の私のブログの記事で、大宮のライブハウスでバンド演奏をしていたころ、そこのスタッフに頭が上がらず、適当なアドバイスを真に受けてた、というようなことを書いたが、私は案外権威に弱いのである。怖くても胡散臭くても、自分の内からの声に耳を傾けないと、結局何を書くこともできない。

私は村上ポンタ秀一というドラマーのコラムを読んでいたときに、ポンタはアートとスポーツは違うということを言っていて、その例として例えばバラードを演奏するときは万全の体調よりも少し風邪をひいたくらいがいいとか、あとしばらく警察に捕まっていて久しぶりにシャバに出て最初の演奏のとき、たどたどしい感じがすごく良かった、みたいなことを書いている。だから練習してうまくなる、とか削る分だけクオリティが増す、みたいなのは嘘だ。

雨のち晴れ

会社のちょームカつく人としゃべって、最近はそうでもないかなあと思っていたが、やはりあのお役所感あふれる態度が我慢ならない。「お役所」という場所がどういう場所かは正確には知らないが、まず第一にこちらの質問に嫌々答えるというのがある。「質問の意図がわからない」みたいなことをすぐ言う。私が前に勤めていた場所でもそういう人がいて、その人は「本部」という場所にいて、何を聞こうとしてもまずは番号を言わなければ始まらない。番号とは会員番号である。私は一般論として「こういうケースにはどう対応したら良いですか?」という聞き方を好むが、この手の人たちは絶対にそれを認めない。もしかしたら話の主導権を渡すのが、何よりも我慢ならないのかもしれない。私のものの訊き方がアホなのかもしれないが、私以外にもアホはたくさんいる。私だって質問を受けたとき、今朝もあったが、
「○○運送がコンビニに停まったらエンジンが動かなくなっちゃって......」
と朝会社について着くなり言われて、一体なんのあらすじだろうと思い、結局それは単に荷着が遅れますという話で私は「で? だから?」と言いたい気持ちをおさえて辛抱強くドライバーのとった行動の報告を受け、最後にはちゃんと「ありがとう」と労った。そもそもドライバーが言い訳がましいだけの話かもしれない。まるでロシアの小説だ。まわりくどいのは小説だけにしてほしい。小説を読むとき、いったいこのやりとりはなんだろうとか思うが、それがないと小説ではないのである。なんだろう? と思える私は幸せだ。例えば「このシーンは読者になんとかという印象を受けさせるためにあり、後々のなんとかというシーンにつながる」みたいな分析が隙間なく出来てしまえば、もう読む意味などなくなってしまう。もしかしたらストーリーと呼ばれるものは、すべて作る側の計算で紡がれるというのがポピュラーなのかもしれないが、それこそ「あらすじ」なのである。

私は仕事に対してもっと小説的に取り組む必要があるのかもしれない。

小嶋陽菜

「こじまは」まで打つと予測変換で出てくるから便利だが、それって結局自分の領域外の思考ではないか、とスマホで書き始めた早い段階から考えている。しかし逆に領域内について考えると例えばワープロで打つ場合も自分が書けないような漢字が書けてしまうし、じゃあ紙とペンならばセーフなのかというと、すごく細くてインクの出の良いペンならば画数の多い漢字でもすいすい書けるが4Bの鉛筆だとか指先で書くとかならば難しい。紙というのも大変ありがたい存在で、もし砂浜に書くとかならば、十何文字書いたところで嫌になってしまうだろう。そう考えると自分なんてものは最初から存在しない。昨今AIという言葉をよく目にするが、いよいよAIに仕事だとかのお株を奪われたとき、我々はそもそも何のお株も持っていなかったことに気づかされる。あるいは持っていた時代もあったのかもしれないが、「AI、AI」と唱える度にちょっとずつ持って行かれている。あるいはAI自身も「俺たちの力だ」とか思ってくれればまだ可愛げもあるが、AIは人間を軽く超えるという話もあるから、可愛げはないかもしれない。

小嶋陽菜が一億円をもらうCMを最近よく目にするが、私は一億円はさすがにあげすぎでは?  と思った。小嶋陽菜の容姿に関して、である。あげるのはブラザー・トムで、CMにはもうひとり女の太った芸人が出ているが、彼女は一円ももらえなくて「ガーン」となる。しかしこの場合はもらえないほうがずっと幸せなのである。小嶋陽菜だって場面によっては一円ももらえないときもあるだろうから、さんざん甘やかされてある日突然「0円」はきついと思う。それはともかく、小嶋陽菜に一億円あげるくらいなら、もっとそれに相応しい容姿の女性がいると思うがCMはフィクションだから、「小嶋陽菜の容姿が絶対の世の中である」と私は自分の中のチャンネルを合わせた。私は普段小説とか読むくせに、たまにうまくこのチャンネル合わせがスムーズにいかなくて自覚的に「合わせよう」と思わないといつまでもグチグチと文句を言いたくなってしまう。文句というか「どうして?」と疑問が止まらなくなる。私は最初ブラザー・トムの神経が信じられなかったが、よく見ると彼らは原始人の格好をしていて、これは現代社会ではありえない出来事であることを示唆しているのかもしれない。

と、小嶋陽菜に散々なことを書いたがこれは私の好みの問題であり、あと私の家族は女ばかりで、女ばかりだとたいてい女性アイドルには辛口でそういうのがうつってしまった面もある。よく人と話していると特定の容姿を売りにする芸能人に対して「××のかわいさがぜんぜんわからない」とか、話術を売りにする芸能人に対して「△△のどこが面白いのか、全くわからない」とわからない自分がさも偉いという風に語る人がいるが、その人は人より感性が劣っているだけである。よく人は人と感性が違うことを良いぶぶんと評価するが、それは周りの人がわからない面白さや美しさを感じられた場合のみに限られるから理解できないことを大声で言わない方が良い。

思考はすすむ

タイトルは最後の一文から拝借した。昨日に自分の子供に「考えないというのは生きていないのと同じなんだよ」みたいなことを言われ「こしゃくな」と思った。生きているすなわち思考なのか。この子供の頭の中は言葉であふれているのか。しかし私は感情とは思考とはまた別のもので、感情に支配される時間というのも一日のうち少なからずある。ふと、頭の中に「思考<私<感情」という図式が浮かんだ。感情には支配されるが、思考はむしろ制御するものだからである。孫悟空がお釈迦様の手のひらに気づかないように、ある程度成長しないと気がつかないのが感情というものなのだろう。たしかに若いうちはムキになっても、なかなかその事実を受け入れがたい。夫婦の会話で「なに怒ってんの?」「怒ってねーし!」と語尾を強めても、本人は至って冷静なつもりなのだ。

ぜんぜん関係ないが頭の中に仕事にたいするちょっとした懸念があって落ち着かない。そんなときにとある太った事務員がいつもと違った色のセーターを着てきて、その雰囲気から察するに彼女は休日出勤をしているようだ。私の会社はシフト制なので、ぱっと見その人が休日出勤なのかはわかりづらい。私はその妙な余裕ぶった態度にいらいらした。他の部署だから特に接点はなかったが、遠目に背中の肉がたるんでいるのが気にくわなかった。私は休日出勤なんかぜったいにしないようにしようと思った。そのゆるいかんじが許せない。「来てやってんだ」という態度が透けてしまうのだ。その気になればいつだって帰れるんだぜ? みたいなのも気にくわない。かといって休日にやってきたと思ったら脇目もふらずに必死にパソコンに向かったりする人も嫌だ。かつてそういう人もいた。しかし蓋を開けてみたら仕事のための仕事というのか、無駄の塊みたいなことをやっていたから、以来私は忙しい人というのが信じられなくなった。とても良い経験をしたと思う。

怖い夢を見た

昨晩午前3時くらいに目が覚め、それから仕事のちょっとした懸念事項が頭から離れなくなって、うまく寝付けなくなった。嫌な時間に目が覚めたと思った。枕が妙に低くかんじるのも良くない兆候であることを示している。年が明けて枕を新調し、私としては硬めのものを選んだつもりだったが数日つかうとやはりへこんだ。頭の形に譲歩しない枕は粗悪品なのだろうが、私はやはり硬めの枕が好きなのである。結婚してすぐの頃に妻が誰かの結婚式の引き出物でずいぶん硬い枕をもらってきて、それはつまり二人の固い絆とかそういうことを言いたいのか知らないが、最初私はこんなコンクリートみたいな枕で誰が寝るんだと思い、妻もだいたい同じ反応だったが使ってみたらとても気に入って続けて使った。ところがなんの弾みなのか、いつのまにかその枕は妻の所有となり、私には軟弱な枕が割り当てられるようになった。それを昨年末まで使った。年が明け、めぐりめぐったチャンスに私は今度こそ堅い枕を買おうと思ったが、思うような枕は売ってなかった。あの枕はよほど高級品だったのだろうか。とにかく私はつかうとどんどんへこむ枕が気にくわないのである。へこんだらひっくり返して使うのだが、その作業も面倒だし、ひっくり返してひんやりするのも冬場はしんどい。だけれども日頃よく寝付けないとか、起きてもまったく疲れがとれたかんじがしないとか、そういう睡眠についての悩みがまったくないのに、枕にこだわるのは滑稽だと思い、また、健康なうちにあまり医学的な枕を使用するといざというときに寄る辺もない状態になりそうだから、やはり軟弱な枕でも良いと思う。

その前に怖い夢を見た。夢の中で私は下っ端で、工藤静香が難病で入院しており、その病気について本人に説明しろと近藤真彦に言われ、私のような下っ端がそんな大仕事を請け負っていいものかと悩んだ。しかし下っ端であるから当然断るわけにもいかず、近藤真彦のまわりにはいつもたくさんの取り巻き(おそらくジャニーズ)がいて、近づくことができない。私は工藤静香の病状について路地のようなところで聞かされ、その場で本人に伝えるよう命令された。路地とは藤子不二雄のアニメに出てくる通学路のような両サイドに塀がある路地だった。私の通学路は田舎だったから、両サイドに塀がある道はそうはなかった。一応は舗装されていたが、そうでない道もあった。舗装されていない道は砂利道と呼ばれ、雨の次の日などは砂利もすっかり流されてところによっては大きな水たまりができた。そこに石を投げて水切りなどをやった。

起きたら妻や子供の姿はなく、冬休みだから彼女らは下でだらだら起きていたわけだが、ぺっちゃんこの布団を見て、私は火星のようだと思った。それからまた寝て今度は別の夢を見て、若いヤクザのような男に脅される夢だった。刃物もあったかもしれない。男は「俺は×××××の息子だ」と名乗った。×××××とは、中学の時に私を殴った教師の名前だった。フルネームで言ったので私は「その名前ひさしぶりに聞いたなあ」と思った。こいつらは親子そろって俺を苦しめやがってとも思った。教師は私が卒業してすぐに結婚したから、子供がいれば確かに夢の男くらいの年齢になっているのかもしれない。男には眉毛がなく、眉毛がないのは若い証拠である。