意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私は落ちこぼれだった

漢字が書ける人がすごいと思った。子供が漢字テストを持って帰ってきて、それは採点済みのものであり、いつも95点とかだからすごいと私は思った。私はいつも漢字テストは20点とかだったから、私の子供は9歳にして私を追い越してしまったのかもしれない。私がドラムのレッスンを受けたときには、先生ではない別のスタジオの人が、「先生にはかなわない、と思うかもしれないが、そのうちに特定の分野に限れば「勝てる」と思えるようになる」と言っていて、私の子供はそういうところにきているのではないか。私は暗記全般が苦手だ。でも記憶力が悪いかというとそうでもなく、とにかくいちばん苦手なのは10秒間絵を見て、そのあと絵が隠れて「何が書いてありましたか?」みたいなのだ。だから厳密に言うと私はおぼえられないのではなく、見られないのではないか、と思う。見るとか聞くとかそういうところが鈍感なのだ。ちゃんと見たり聞いたりしたことはおぼえられる。暗記は記号化すると良いという話を聞き、やってみると何かと結びつけられたものは簡単には忘れないが、このプロセスが億劫でしかたない。私はプロセス全般が苦手で、メモ嫌いもそういうところからきている。今朝も仕事をしながら、「茶色いダンボールが対象とおぼえればいいな」と思いながらぞっとした。絶対におぼえられるはずがないのに、平気でそんなことを思うのは、メモをとるのが嫌で仕方がないからだ。メモをとったらメモを書いた事実や場所を覚えなければならないから、備忘録とは厳密には忘れたときの備えではない。

全然関係ないが、自己紹介でよく「好き嫌いがはっきりしている」とか「好きなことにはいくらでも集中できるが、興味のないことにはまったく集中できない」みたいなのを見かけるが、それは極めて健全なことのように思える。私の友達がそんなことを言っていてそのときは「そんなもんか」と思っていたらネット上ではけっこうそんなことを書き込む人がいて、「これは普通だ」と思い至った。でも確かにのめり込む人はこわい。私は逆に熱中がきかないタイプで特に収集すること全般が苦手で、保坂和志村上ポンタ秀一の話をよくブログで取り上げる割に、彼らの著作物をそんなに保持していない。私は保坂和志の小説は3冊くらいしか読んでいない。小島信夫はもう何冊か読んだが、いまだに「抱擁家族」を読んでいない。これにかんしては、うまくタイミングがつかめないところがある。そう考えると村上春樹は「ノルウェイの森」は早めに読めたからよかったと思う。でも村上春樹はどこから読んでも同じか。小島信夫は「寓話」を読んでから「アメリカン・スクール」を読むと頭の中のまったく違う回路が働くから、順番はだいじなのだ。

明日のタイトル

いつも記事を投稿したあとにTwitterにも手動で更新通知を載せるが、そこに書く見出しみたいな文句に毎回苦戦している。そもそもわざわざTwitterに投稿するのはなぜなのか。投稿すれば閲覧数が上がると思っているのか。それはそれとして、私はとにかく毎日書けるだけ書いて投稿するからTwitterに何かを書くのは本当に難儀する。記事内容を要約したものを載せるのがTwitterの正しいあり方なのだろうが、私は書き終わった時点でもう書いた内容を忘れているから、まとめるなんてできない。それ以前に容易に要約できてしまうものなら、最初から要約して書けば良いと思う。書き漏らしても、あなたの書こうとすることはすでに誰かが書いているから大丈夫なのです。

要約なんてくそ食らえという、私はスタンスなのですが、しかし実生活で私は要約が得意なほうだと思っている。小学時代は「要約がうまい」と先生に誉められたことがあるし、今でも会話で「要するに」を多用する。自己分析するとこの「要するに」は話を整理すると見せかけて、自分の方が能力が上だということを暗にアピールし、その後の議論を自分ペースに進めさせるための布石と見ることができる。あと「要するに」と言いながら、要していないことも多い。自分の都合のいいぶぶんだけ抜き取って、うまくまとめられない相手に先に提示すれば、相手は自分の主張がすり替えられてしまう。みなさん、「要するに」という言葉に注意しましょう。

考えてみると、世の中のすべての人が自分の言葉に固執しているように思える。言葉はその人を形作るなんたらだから、簡単に置き換えなんてされたくないのだ。私は若いころ年上の人とまじめな話をしたときに聞き手である私がどのくらい話の内容を理解しているか示すために、
「つまり、○○ってことですか?」
と確認し、相手は「そうそう」と同意してくれるのに、その後その人の話の中に「○○」という言い回しはまったく登場しないのである。私はそのような現象について、昔は「相手が合わせてくれただけで、実は私は理解できてなかったんだ」と思っていたが、単に人は外から来た言葉には容易には置き換えられないというだけの問題だったのかもしれない。

逆に相手の言い回しをやたらとマネする人はいかにも嘘臭いし。

根性のある文章

http://www.fukayoi.com/entry/sexfriends

村上ポンタ秀一が自分のアルバムを作っている最中に誰かがデモで入れたドラムをいたく気に入り、自身がドラマーであるにもかかわらずこのドラムをそのまま曲に採用しようと思って「誰が叩いたの?」とスタッフに訊いたら「打ち込みです」と返ってきて、それでも採用しようかと思ったが、結局見送った。村上ポンタ秀一は日本でいちばんメジャーなドラマーだから、打ち込みのドラムじゃ購入者ががっかりすると思ったのである。そのとき打ち込みのドラムに対し、村上が最初に言ったのは「根性ある」だった。


私は冒頭に貼った記事を読んだときに同じような感想を持った。だからひょっとしたら機械が書いたのかもしれないと思った。冗談じゃなく、少し前にAIがニュースの記事を書いたとか出ていたからこのくらいは書くだろうと思った。


村上ポンタ秀一は「Welcome to my rhythm」という本の中で、「最近の若いドラマーは4小節ごとに必ずオカズを入れていて良くない」みたいなことを言っていて、まずオカズというのは曲の中でドラムが場面の切れ目で連打するみたいなプレイをいうのだが、それが見せ場だと思っているドラマーが多いという苦言なのだ。だけど、私もドラムをやっていたことがあり、しょっちゅう先生に「もっとシンプルにやりなさい」と注意された。「シンプルにやれ」と言われたわけではないが、とにかくもっと簡単なことを丁寧にやれみたいに言われた。しかし一方で自分も若い頃はそうだったから強く言えないとも言っていた。


若い頃はとにかく自意識に振り回されることが多く、今朝もちょうど学生と思われる人の文章を読んだらやたらと「ー」のような伸ばし棒ばがりで鬱陶しかった。比喩を大げさにしたり、やたらと文を装飾するのはドラムにおけるオカズと似ている。私だって完璧に自意識を制御できてるなんて言えないから偉そうなことは言えないが、少なくとも私はこれらの人たちの先生でもないからあえて注意しようとも思えない。「若い」と書いたが若くとも落ち着いた書き方をする人もいるからこれは才能だろうか。


私が村上ポンタ秀一はかつて打ち込みのドラムにかんする記事で「生演奏がいいという人がいるが、お前の演奏よりも打ち込みの方がよほどうまいよ」みたいなことを言っていて、生ドラムの演奏する人こんなことを言うなんてすごいと思った。確かにそうなのである。私は最近のAIの話を聞いて、文章においても同じことが起きると予感した。機械のほうがよほど正しい日本語、正しい文法で書いてくれる。書く側は「人間くささが」とか「行間が」とか言うだろうが、それらはすべて戯れ言で、やがて淘汰されるだろう。書く意味がない、とみんなが書くことをやめるだろう、初めから書く意味なんかないのに。


冒頭の記事は読ませようという気概がかんじられず、淡々と、しかし執拗にセフレをつくる手段について述べられており、私は狂気をかんじる。たとえば人間が書くときに自分がこれから書く内容については読む人はどのくらいの予備知識があるのか、とか私は特にドラムの話をするときには世間の人がドラムのことをどのくらい知っているのか見当がつかないから、ついつい言葉を足してしまうが、これはナンセンスだ。とにかくナンセンスだと思いつつも毎回つまづくのだが、セフレはそういうつまづき、迷いがまったくかんじられない。そこが機械っぽい。あと「セフレをつくるには聞き上手になれ」みたいなアドバイスの下に出てくる例がまったく聞き上手ではなくて、正直読んでいるこっちが馬鹿にされている気になる。だけれども書いている人が馬鹿にしようとしているのか、それとも本気でオウム返しが聞き上手だと思っているのか見えてこないところも機械っぽい。

コンビニでゲームソフトが買えるようになったとき

2000年になる少し前からコンビニでゲームが買えるようになり、それまで公共料金以外でコンビニの買い物が1万円近くになることはなく、ましてや当時私はまだ高校生だったから、公共料金といってもイマイチぴんとこなかった。そんなときにゲーム好きの水川というやつがコンビニでゲームを買ったことをネタに、合計が何千円にもなったレシートを見せつけてきたから「だからなんだ」と思った。水川はその

後バイク好きの女好きになった。なんでも好きにならなきゃ気が済まないタイプなのである。私は水川と反比例して色んなものに対する興味を失った気がする。そう考えると水川と私は表裏一体の存在なのである。私の「すべてのものに興味を失う」というのは言ってみればただの格好つけなのだが、水川にしたってスケベがすべててはないから、そういうぶぶんでも私たちはうまくバランスをとっていた。水川は鼻の周

りにそばかすがあって極めて地味な顔立ちで、とにかく頭が悪かった。バイクの免許をとって、もしかしたら悪になったのかもしれないが、素朴な顔立ちのせいで、やはり悪にはなりきれなかった。私はよく水川の頭の悪さをからかい、そのうち水川はマジギレするようになった。私たちは当時どのくらい仲が良かったのか、もうおぼえていない。水川は私のことなどもう死ぬまで思い出さないのかもしれない。水

川はあるときFF7をやっていて、私はそれを後ろから眺めていた。そうすると私は水川の家にも遊びに行ったことがあるということだ。私はプレイステーションで発売されたFFのグラフィックについて綺麗だと思ったが、特にやりたいとは思わなかった。私のゲーム熱はスーファミがピークで、FFは5と6しかやったことがない。4も途中までやったが、飽きた。6は以前にも書いたが「うまい魚」を捕まえるのに一生懸命で、それ以外におぼえていることといった

ら、ナルシェという街があって、それを紹介するファミ通というゲーム雑誌があって、その記事でナルシェへ行けというページで「ナ~ルシェ、レッセ♪」とタイトルが振られていて、これはなにかというと、当時「マ~ルシェ、レッセ♪」というCMが流れていてそれを意識したものです。マルシェはカレーかなにかだったが忘れた。とにかくその歌は誰でも口ずさめるくらい一般的だった。あと放置されていた牛肉を

たまたま主婦が発見して保管していた玉ねぎと一緒にハッシュドビーフをつくるというCMも「あら、こんなところに牛肉が♪」という歌とともにみんなの心に刻まれた。当時色んなところで「牛肉みたいな高級食材を放置したままわすれるなんてけしからん」みたいな批判がされていたが、主婦はただふざけて歌っただけで、たとえば誰だって自分の母親を今日初めて出会ったかのように接することは誰だってしたことがあると思う。そう考えると今批判の的になっているものも、十年二十年経ったらとても馬鹿らしくなる気がする。

人工透析と死刑制度は似ている

「じゃあ自分がなったらどうするの?」というふぶんで似ている。私は賛成でも反対でもその辺りは加味して主張すべきだと思う。私は死刑制度は基本廃止すべきだと考えているが、
「じゃああなたの子供がむごい殺され方をしたらどうするの」
と言われると、やはり死んでほしいと思うかもしれない。ただ、じっさいに死刑になって、これでトントンね、みたいな風になっても嫌だと思う。例えば犯人が子供が殺されたのと同じ方法で殺されたとして、気が済まないから親も殺してほしいと思ったときに、今度はこちらが異常者のように扱われても嫌だ。犯人にも幼い子供がいたら、やはり本人より子供が死ぬ方がバランスとしては良い気がするが、しかしこれに賛成してくれる人は少なそうだ。だいいち子供そのものは何かしらやらかしたわけではない。子供というだけで罪から逃れられる風潮もある。

私は死をもって償った、という考えが気に入らず、そこには償う側の押し付けがあるからだ。そもそも死ぬことを「楽になる」という表現があるから許される上に楽になるというのはズルい気がする。楽になるというのはあくまで表現であるが、自分の感覚からしても腑に落ちる。私はしょっちゅう自分の配偶者や子が死ぬところを想像したりするが、それよりも自分が死ぬ方がいかに楽か、といつも思う。家族以外でも職場で厄介ごとがあると、「死んだ方が楽だ」と思うことがある。楽だ、楽だ、と昔から言われ続けたせいもあるかもしれない。

五木寛之の「生きるヒント」の中でインドかどっかへ行った五木が空港で物乞いにたかられたとき、その中に子供がいたからお金をめぐんでやると、めぐまれた子供は礼も言わず、だっとかけて行ってしまう。てっきりお礼のひとつも言われると思った五木はむっとしたが、あとから礼を言うべきはめぐんだ自分の側で、むっとした自分はまだまだ修行が足りない、と書いていた。私がそれを読んだのは中学くらいで、以来私は成熟というのはそういう姿勢を指すのだと思っていたし、できるできないはともかくそれが世の中の共通認識だと思っていたら違った。例えば数年前にTwitterで「傷つけられるよりも、傷つけるほうがつらい」みたいなことを投稿したら、「んなわけないだろ」と返された。以来私は発言に気をつけようと思った。人工透析についていうと、財源が、みたいなことを言われると私には言い返すことはできないが、逆に財源以外は壁はないと思っている。私の理想は自分の不摂生で透析患者となった人が、当前のように治療費を国にもってもらうような世の中である。

私は以前は共済とかを扱う仕事をしていて、私の勤め先には病気や怪我になった人がひっきりなしに訪れ、そういう人に申請方法を教えたりするのが私の仕事だったが、反応はそれぞれだったが、ある種の人が
「かけておいて良かった。こういうことがないと、共済のありがたみがわからない」
みたいなことを言い、私はそれはすごくダサいな、と思っていた。

まくら

さっきテレビを見ていたら「枕を替えたら眠りが深くなった」みたいなことをやっていて、そういえば私は少し前に枕を買い換えた、新しい枕は無印良品のものにしたが、使い心地としては今ひとつで、しかし値段もそれほどしなかったから相応であった。特に眠れなくなる等のアレもなかったが、さっきの「眠りが深くなった」を見て、そういえば最近の私は眠りが浅いのではないかと思った。それは昼間眠くなるとかではなく、夢をよく見るからである。

昨晩私は自分の夢の色を点検するという夢を見た。何日か前の記事で夢に色があるのはカラーテレビの影響、と書いたが一方の私は夢の中で色を確認したことはなかった。それの続きが私の夢の中で始まってしまったのである。私はそれは夢のつもりではなく大真面目に今見ている風景の色を点検してまわり、結局「これは色と呼べない」と結論づけた。カラーでないからといって、白黒でもなかった。色がない、というのは私の認識の問題なのであった。

しかし結局はそれ自体も夢であり、覚醒した今振り返ると子供の説明を聞かされるような、足元のおぼつかない、曖昧な話である。あるいは、私は色に気づかないふりをしている。よく今生きている現実も夢の一部かも、みたいな話を目にするが、私にとっての現実の揺るぎなさはかなり夢を引き離しており、しかしそれも個人差があるのだろう。私は現実ではよく壁とか天井を見て、その凹凸や模様やシミ汚れに注目し、そういう細やかさに揺るぎなさをかんじるのである。なんて言うと、今度は壁ばかりの夢を見そうだ。

私はふと、過去に高橋みなみと付き合う夢を見たことがあったことを思い出し夢の中で私は学生で学ランを着ていた。その学ランの色(黒)はちゃんと認識していた気がする。

たかみなと付き合う夢を見た - 意味をあたえる

たかみなと友達になる夢を見た - 意味をあたえる

内出血

一昨日にドアに小指を挟んで内出血した。引き戸である。想定していたよりもドアの滑りが良く、勢いづいたドアの端に、小指だけ逃げ遅れたのである。子供が一緒にいて、子供は常に大人よりも先に行きたがるからこんな惨事が起きたのであり、もし大人が先なら私は自分が部屋に入ったあとにドアは閉めないから小指を挟まずにすんだ。だからこの惨事の責任の一端もあるはずなのだが、子供は無邪気に
「どうした、どうした」
と、好奇心むき出しに私がうずくまる原因を探ろうとする。指先を見せてみろというが、それだって変色する皮膚を観察したいだけだ。以前私の子供は学校の窓に指を挟んだことがあり、保健室へ行ったら氷で冷やされ、その後に内出血した。それと同じ症状だと判断し、先輩ぶるのである。私もそのことを聞いたときには好奇心むき出しに、
「泣いた?」
とか訊ねたが、もうそのときは痛みもだいぶ引いていたはずだから、私が質問するのはそれほど不躾ではないのである。一方の私はまさに痛みの絶頂であり、小指を太ももの間に挟んでうずくまり、ただ「いてえ、いてえ」と悶絶することしかできないときに、紫色に変色した後に、指紋の線にそって赤いつぶつぶが浮き上がって気持ち悪い、という話を聞かされても対処のしようがない。平常時なら「数の子みたいだね」とか気の利いたことも言えるが、とても平常とは言えない。息も絶え絶えに「指が...ドアの隙間で...」と言うのみである。

私の妻も好奇心むき出しの女で、過去に私が階段を踏み外したことがあって、そのときは妻が階段の途中にコストコで買った韓国のコムタン麺の箱を置いていたせいて、それが階段の足を載せる区域を半分以上占拠し、私がそれを認識せずに思い切り踏みつけて転落したのである。私が転落したのである。妻としたらどうしてそんな大きな物体を見落とすのか理解できなかったが、私だってどうして人の通り道に物を置くのか理解できなかった。私は階段を上り下りするときは、特にぼんやりすることが多いのだ。足をしこたまぶつけ、うずくまる私に妻が「どうした、どうした」と駆け寄ってきた。大人ひとりが階段から落ちたから、相当な音が家中に響いたのだ。妻は何が原因で私が階段を踏み外したのかしきりに知りたがったが、私としては「あっちへ行け」と言うのが精一杯だったので、妻も怒り出した。そのうち妻の父もやってきて「どうした、どうした」と訊いてきた。親子なのである。そう考えると私の実家の人たちの他人に対する関心のなさが、恋しくなった。それからしばらくして、今度は中学生の娘が階段を後ろ向きに転落し、その様子を私は上から見ていたが、後ろでんぐり返りのようなかんじで上から下まで落ち、よく大したケガもなかったと今でも思う。そのときも妻が「どうした、どうした」とやってきたから、私は「けが人は痛みをやり過ごすことにエネルギーをつかわなければいけないから、今はまともな受け答えを期待してはいけない」と諭した。私の家の階段は急なのである。かつて私の妹が家に来たときに、「こんな急な階段の家は珍しい」と言っていて、私はそうだろうか、と思ったがこれだけ人が踏み外すのだから急なのだろう。手すりが着いているので、私はどんなに余裕があるときでも、以来手すりに手を置いて階段を上り下りしている。そのうち手すりが根こそぎ取れたら嫌だなと思う。