意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

水筒に入れた氷の笑い声

タイトルは今朝たまたま手にした「おーいお茶」の側面に載っていた俳句である。私はこれを目にして微笑ましい気持ちになった。私は幼稚園か小学校1年くらいまで円形の陸上自衛隊の子供版みたいな水筒を使っていてあの頃はああいう形が流行っていて大人もあれの大きめのを使っていたように思う。今は知らない。とにかく私はあの形が好きでちっこい蓋を兼用するカップにちびちびお茶を注いで飲むのが好きだ。シートからはみ出た脚に芝生がちくちくした。あの水筒に氷は入ったかは知らないが私は芝生のちくちくを思い出した。幼稚園の遠足で先生が隣の子と手をつなぎましょうと言い私の隣はナガオカカヨコという女だったが私との接手を拒否した。先生はそれに怒って私は先生と手をつないだ。私はもちろん傷つきもしたが無理もないみたいな気持ちもあった。


私のそういう気まずさだとかは後付けの感情だろうか。身体の芯まで大人になって年端のいかない子供を見るとこの小さめの脳内でそこまで複雑な演算ができるのかと思う。できるのだろう。むしろ衰えているのがこちらと思うのが妥当だろう。大人というのは子供の延長戦のような雰囲気があるがどこかの時点で突然遮断され過去の自分もどこか他人を見るような目で見てしまう。そうでもない。恥ずかしいことや失敗したことはよく覚えていてそういうことを連続して思い出すと死にたくすらなるが村上春樹ですら「失敗の歴史」みたいなことを言っていて私は村上春樹を心のより所にしている。


ところで私はこの俳句を小学生かせいぜい中学生がつくったものと思っていて隣の作者の行を見たら19歳と書かれていてあざといと思った。小学生くらいなら水筒が実際に笑っているふうに聞こえたのだろうが19歳だと遠足の楽しさを水筒に投影しているように思ってしまう。つまりこの俳句はほんとうは「水筒が笑っているように聞こえる私の感性の鋭さよ」と自らをたたえた句なのである。そりゃ俳句を詠むくらいの人だからとうぜん感性は鋭いしそれを認める自己の存在というのもあるのだろうがそういうのがあっけらかんと出されると興がそがれる。私はチラリズムを信奉しているのか。私は自己に無頓着な、無自覚な作品に憧れる。

土葬

義父母と墓参りに行きそれは義母の実家の墓で私が初めて訪れた墓であった。もしかしたら一度くらいは来たことがあるのかもしれないが墓というのはどこも同じような外観をしておりたいていは直方体の縦長の石を組み合わせたものを墓と呼ぶ。だけれども今日のところは墓同士の間隔がせまいうえに新しい墓の周りに古い墓が取り囲むように配置するという独特の外観だったのでおそらく初めてだろうと判断した。古い墓石は角が丸まっているから風雨で削られたから年月が経ったのだろうと判断した。寺の方はコンクリートの地面がありさらには門の前にロータリーもあった。義父の墓の方はもっと寂れていて寺には誰も住んでいない様子であった。障子がやぶれコンクリートも途中で途切れそこに水たまりができていた。水たまりは周囲の泥をやわらかくし私は靴が汚れるからそこを歩きたくはなかった。寺の床はどこでもそうだが高く床下には空間があった。寂れた寺は壁も汚かった。少し行くと焼却炉がありそこに枯れた花や線香の箱などを人は捨てるのだった。


私の生家の寺は寺の中では繁盛しているようで墓は碁盤目状にならび線香に火をつける場所も確保してある。私は大人たちが寄り添って線香の箱や花をくるんでいた新聞紙を使って火をつける様子を眺めるのが好きだった。ときには私も枯れ葉を集めるのを手伝うこともあった。私は火を扱うことに馴れた人に無条件に尊敬する思考の癖があった。だから墓がもっと整備されて火をつける場所が決められてそこに鎖につながれたチャッカマンなどがあるとがっかりした。最近のお墓にはたとえば野球に縁があった人などは野球のボールを模した墓石などがよういされたりと色々バラエティーに富んでいる。


墓参りという行事は子供が小さい頃は墓のすそに子供を座らせたり立たせたりすると周りの大人が喜んでそれで暇がつぶせたりするがある程度成長するとあまり興味をもってのぞめなくなる。水をくんだりとかも適当に他人に任せればよい。義父の兄つまり私の義理の伯父は先祖代々の墓に芝生を植え晩年はいかにも几帳面にそこにはえる雑草を毎朝抜いて過ごしたがやがて死んで墓は荒れ放題となった。墓は周囲と比べてそこだけがまぶしく私はあまり墓参りをしたいと思わなかった。伯父じたいも我を通す性格でしかも私も若かったからついつっかかったりして正月に会ってもあまり話はかみ合わなかった。大仰に奥からノートパソコンを取り出すから何をやっているのかと思ったら家系図を作っていてその末端に私の名前もあって私はあまりいい気はしなかった。パソコンといえば今ならインターネットと同義でインターネットのないパソコンなんて想像もできないがこうして自己満足の高低にはインターネットはあまり関係ない。むしろインターネットで傷つく人は大勢いるからそういう人はLANケーブルを引っこ抜いて自分の先祖を指折り数えたらいいんじゃないか。無線LANの人はルータの電源を切ろう。

核家族

朝ニュースを見ていたら「活字離れ......」みたいなことが言われていてそれは本当なのだろうかと疑問に思った。世の中には真偽かんけいなくそれっぽく聞こえる言い回しというのがある。例えば核家族とかがそうだ。昔大学の先生が
「日本は核家族化が進んでいるなんて言うがそんなのはウソだ」
と言っていて当の私は核家族の家庭で育ったから違和感を抱いた。小学校のときに教科書で「核家族化が進んでいる」というのを読んで「ふんふん」と思ったクチだ。先生はバブルの影響による地価の高騰を挙げ
「今どき一世帯でローンを払い終わるわけないんだ」
と主張し出席している生徒にひとりずつ持ち家かどうか尋ねた。私は持ち家だと答えると住んでいる場所を訊かれ答えると今はここまで田舎に住まないとローンなんか払えないんだよと言った。私より都会の家に住んでいる人は「お金持ちだね」と言われた。私はこの教授が好きだった。


なので当然3年以降はこの教授のゼミに入って卒論が書けたら素敵だろうなと思っていて申し込んだら落ちたのでびっくりした。その教授は哲学の先生で経済学部で哲学をやる酔狂なやつはいないだろうとたかをくくっていたら私の頃は空前の哲学ブームだったのである。それはそうではなくて単にその先生が人気だっただけであった。私はちゃらちゃらした学生に囲まれてまんざらでもなさそうな先生と決別しまた私はまさか落ちるなんて考えてなかったから第二志望とか書かなくて仕方なく定員に満たないゼミに申し込んだ。直接教授のところに行って仲間に入れてもらわなければならなかった。一号館の七階に部屋があってそこに行くと
「なんで第二志望を書かないのか理解不能
と冷たく言われた。それは西洋思想のゼミで私は実は一年の時にその教授のゼミに所属していてそのとき私は第一志望でそのゼミに入ったがそこは学年でいちばん人気のないゼミで私以外は他からはじき出された人かそもそも志望すらしなかった人だった。そのためゼミ内の雰囲気は極めて悪く一年間思想らしいことはなにもせずエクセルだのホームページだので終わった。私は馬鹿らしくて仕方ないからほとんど出なかったら親に手紙がいって私の親はそういうことでは怒らず「どうするんだ?」と言うからそれ以降は行くようにした。それまでに大学そのものをやめる人もいた。その人は4月の最初のオリエンテーション旅行で部屋が一緒で一緒なのは8人くらいいたがみんな初対面で「なんなんだよ......」みたいな空気があって私は嫌で嫌で仕方がなかったがとりあえず誰かがトランプしようと言ってお金をかけて私は200円くらい負けた。そのトランプしようといった人が旅行から帰ってすぐに大学をやめた。つまりノー授業であった。私はそれを聞いて驚いたが教えた方も私もまだ全然面識なかったから「えっ」くらいのリアクションしかとれなかった。あと大学は煙草を吸う人がたくさんいてそういう人は吸い殻をその辺に捨てまくってそれを大学が雇ったゴミ拾いのおっさんおばちゃん中東の人みたいなのが年中ほうきで集めていて本当に馬鹿みたいだった。私の大学の程度が低いからなのかもしれないが私はほんとうに大学なんて一刻も早くやめてゴミ拾いの人になりたいと思い続けて3年になって哲学のゼミに落ちた。

SO YOUNG

今から20年くらい前の今時期にイエモンの「SO YOUNG」という曲が発売され私はそれを初めて聞いたのは川越の街をぶらぶら歩いているときだった。雑踏にまぎれてとぎれとぎれに聞こえ最初吉田拓郎の歌かと思っていたらよく聞いたらイエモンだった。イエモンだとどこかの時点で確信できたからその前にすでに聞いていたのかもしれない。春であった。川越は20代中頃まではよく通った街で車でも電車でもよく行った。私にとってはいちばん身近の都会であった。そのときもいつかはこんなにも来なくはなるだろうと思いながら来ていてそしていつからかほとんど来ることはなくなった。結婚して最初の頃はよく電車に乗ったがそれも乗らなくなった。若い頃滅多に電車に乗らない年寄りが「切符の買い方がわからない」と言って馬鹿かと思ったが私も自信満々で買えるか不安だ。切符を買うという発想自体古い。


それで久しぶりに川越に来ることになって車で来たが道が細くなっているとかんじた。よく子供のころ通った道が短く感じたりするが私は大人時代にその道を通っているから細くかんじるのは奇妙なことだった。さらに奇妙なのは久しぶりに川越にきたという私自身で実はせいぜい1ヶ月くらい前に同じ道を通っている。何年か前にその道で中村玉緒を見かけて大騒ぎしたことがありそれをブログにも書いた気がする。テレビの撮影だった。その後私は奇跡的にそのテレビ放送を見る機会があり私自身も通行人としてテレビに映るのではないかとわくわくしたが映らなかった。私が映るのはせいぜい電気屋の入り口にあるビデオカメラのデモの映像である。


春という季節からイエモン経由で思い出したから20年ぶりと錯覚したのである。


その後妻が同じ模様の服を来た女が自分よりも細いからと不機嫌になった。女は子連れで鷲鼻だった。ショッピングモールの中で子供をカートに乗せたまま女はジュースを買いに行った。子供はずっと母親の姿を視界に捉え視界から外れなければ子供は泣き出さない仕組みだった。私はその子供の様子を見て死ぬことなんか怖くないと思った。私が子供だからである。それとがたいのいい灰色のニット地のコートを来たカナダの山奥の熊みたいななりの女がフードコートで店員しか開けないような引き出しをがんがん開けていて何かを探していて私はそれも興味をもって眺めていたが女はやがて目当てのものを見つけて大人しくなった。

ひとりの時間がないとと言うのはいかにも子供っぽい

幽遊白書の歌で「街の人ごみでひとりぼっち」みたいなのがあってそういう風に日常でひとりになるほうほうはいくらでもあるのにわざわざ別室を用意してもらいそこで悠々自適に暮らしたいというのはいかにも虫が良い。私にもそういう願望はあるがそんなのをわざわざ表明しようとは思わない。いつだってお母さんみたいなのがいればいいなあと思う。母は「あなたが犯罪をしたらちゃんと自首するよう説得しますよ」と言った。そういうのがいい。「まさか」とか「なんで」というのはまったく私の身になっていない。しかしそういう風に親身になってくれる人は今はいないので探せばいるのかもしれないがもういないと決めつけてしまったほうが私も気楽だ。親はまだ生きている。


私は大人で結婚もして子供もいるので迂闊に「ひとりの時間がないと」などと言えない。そんなものは皆無であり皆無と思わせて実のところいつだってひとりなのである。例えば私は人の話はもういつでも話半分でしか聞いていない。半分で聞いて半分余ったぶぶんを自分に割り当てるのである。さらになんでも自分に関連付ければ他人の話はすべて私のアイディアとなるのである。他人のふんどしで相撲をとるの思考版である。


あとは細かいテクニックとして趣味を合わせない明かさないというのもある。趣味が人とあってしまうともうそこで自分の時間はおしまいである。同じ話題で盛り上がれば楽しいでしょ? という人はもう自分の時間の確保はあきらめ一生他人に依存して生きるとよい。私はそういえば趣味の話になって愉快だったことはない。いつだって私は相手に話を合わせているだけである。相手が不快にならないよう楽しく自己主張できるように熱心に相づちをうち目を輝かせる。当然そんなことが長続きするわけはない。私は趣味は趣味話は話と区分けしたほうが楽なのである。趣味は結局は誰かを疎外する装置である。自分が楽しければ相手も楽しいはずというのはただの願望であり自己満足である。私は部屋に10人いたら10人が同じだけ楽しい気持ちになる話をするのが理想と思っておりそれには趣味は役に立たないのである。

田中歯科医院

毎朝田中歯科医院の前をとおって会社に来ている。歯医者にもさまざまな形があって例えば元コンビニ型等あるが田中歯科医院は自宅兼用型と一目見てわかるたたずまいでありというかただの一軒家に看板だけ立っている。看板がないと民家にしか見えない。門が立派で中には松が植えられている。扉は当然引き戸だ。錠は二重である。田中歯科医院は階段を二段くらい上がった土地に建てられていて文字通り敷居が高い。これでは近所の顔見知りの人しかやってこないのではないか。家屋の外観からして医師は高齢の人と思われる。高齢の人は総じて乱暴だ。いつからかコンビニよりも歯科医院のほうが数が多いと言われるようになって歯医者はどこも清潔でスタッフは物腰やわらかく玄関も当然バリアフリーだ。子供の頃に行った待合室がリアルに田舎の駅の待合室みたいだった中川医院(内科)が懐かしい。中川医院は今は二代目になって建物はきれいになり駐車場には生意気にもロータリーがしつらえてある。電気の力で上げ下げするシャッターの向こうにはベンツが停まっている。私は若先生には一度くらいしかお目にかかったことはないがまるで「ベンツくらいしか楽しみがないんですよ」と言いたげである。そうじゃなければ道沿いに横棒の細いスケスケのシャッターなんかつくるわけない。中川医院の駐車場は昔は砂利で4台くらいしか停められず私はその一角に停めた母の赤い車の後部座席で横になり母が早く会計を終えて戻ってこないか心待ちにしながらひたすら天井を眺めていたのをおぼえている。風邪を引いたのである。私はこのブログで700回くらい書いたが子供の頃は病弱でインフルエンザの予防接種でインフルエンザにかかるような子供だった。前日から熱の上がった私は息も絶え絶えにパジャマから洋服に着替え母の車に乗って病院にやってきた。しかしおぼえているのは待合いのポスターとあとは車で待っている場面くらいだ。診察は一瞬だからすぐに忘れる。受付の脇に診断書の値段が出ていて目玉が飛びでるくらい高かった。

不思議な体験

先日芥川賞をとった山下澄人という小説家がいてその人がこの前Twitterでルソーだか誰だか外国のそういう系の人が回顧録かなんかで子供の時に一歳になったばかりの弟が焚き火に向かって日に飛び込むのを見たがそれを長いこと本当の出来事と信じていたみたいな話を紹介していて山下澄人保坂和志はそういう人智とか物理とかを超えた話をするのが好きでかといってオカルトめいた風に話をもっていくのではなくあくまで日常的なこととして「そういうこともあるんだよ」と話す。例えば山下澄人の「緑の猿」という小説には中に折り込みで保坂和志との対談が入っているがその中で子供の頃なんとか球場に行くと外野席に座っていてもなんとかというバッターのストライクゾーンがボール一個分の精度でわかったみたいな話を山下がして保坂が「あるある」みたいな特に驚くでもない反応をしていた。私はもちろん山下澄人が好きだから小説を読みその後そこに出ていた保坂和志の名を知って徐々にハマっていくのだがそうなると私にもそういう「人智を超えた」記憶がほしくなる。それは些細なことというか解釈とか態度の問題でリアルな人なら「それはそのバッターに打ってほしいと願う心理がそうさせた」みたいな解釈をする。思い込みみたいな。そういえばこの手の話を地に落とすときかなりの確率で「心理的」という言い回しが登場する。心理とか気持ちというのは日常のその他のぶぶんを担当していることがよくわかる。つまり説明可能な箇所は論理とか客観とかそういうのが担当し説明不可能かそれに近い部分はなんでも気持ちの問題になる。というか「気持ち」というキーワードを用いて論理の側にもってくる。一種の翻訳機である。よくお化けが出てくる話で最初は「疲れ」とか「気のせい」とかいうが絶対にそんなわけないのに周りの人々は奇妙なくらいそれに納得する。そういえば数日前に子供と怖い話を読んでいたらおじいちゃんが死んで自分と父親が通夜のときに棺桶の脇に布団を敷いて寝ていたら夜の間中枕元に足音が聞こえてそれは最初父がトイレに立ったのかと思って翌朝訊いたら父も全く同じことを思ったといいそこがぞっとするポイントなのだろうが私の子供は
「ステキじゃん」
と言った。これも解釈の問題だけど死体の脇で寝ていたら足音がしてそれを最初に「おじいちゃんだ」と思わないのはおかしい。ひょっとしたらこの父子のほうこそオバケかなにかでそこがぞっとするポイントなのかもしれない。


それで私は最近自分の人生を振り返って不思議だったことをいくつか思い出したが今日書くにあたってほとんど忘れてしまった。おぼえていることを以下に書く。

・私は長男だがずっと兄がいると思っていてしかもその兄は両親がパチンコに興じているときに真夏の車の中に放置され熱射病で死んだ。それを機に両親はパチンコをやめた。

・通っていた幼稚園で馬を飼うことになりその馬の名は「本人」となった。しかしそれは「ポニー」という馬種を聞き違えただけで担任は両親によく教えるよう連絡帳で伝えた。最近になって当時の連絡帳が出てきて見たがそんな記述は一切なくあるのは私が病院にいくために早退する旨の連絡ばかりだった。当時は体が弱かったのである。当然両親は本人のことなどおぼえていない。

・小1のころに近所に雑木林があって家で今日の探検コースを決めるにあたり雑木林の地図に適当に線を引いたら実際にそこには小道があった。

・友達が人魂に追いかけられた。