意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

マエラスク

近所に交差点があってその角のひとつがあきちみたくなっていてそこによくトラックの荷台だけが残されていて側面に「マエラスク」と書かれている。正確にはマエラスクはアルファベットで書かれているのだが私は英語というかアルファベットが苦手だから(ベータベットになったら使おうかしら)カタカナで勘弁してほしい。それが私の昔のマラソンコースになっていて「これはなんだろう」とよく思った。交差点なので赤信号でとまることが多くなおさら目に付くのである。そしてマエラスクは前の勤めていたところにも停まっていたことがあって私は村上さんという女の人に読み方をたずねたら「なんだろう」と言われた。村上さんは私よりも年上だが髪をツインテールにしていた。その日は水曜日でちょうどお昼だったので週のど真ん中だねみたいな話をしていた。ちょうど今時期の話である。とても大きな敷地の会社で最初の日に「迷子になる人もいる」と教えられ確かにそうだと思った。夏になると近所の家族づれを招いてお祭りとかやっていた。従業員にはビール無料券が配られるとか聞いたが私には配られなかったし特に仲の良い人もいなかったからさっさと帰ってしまった。大きな会社だったので誰かに見つかることもなかった。大きなところなのでもっと探検とかやれば良かったがその頃はあまり精神に余裕がなかったのでやらなかった。旧社屋には幽霊が出るという話だった。


マエラスクをネットで調べたら「マイラスク」というラスク屋さんがヒットし仕方なくでたらめなアルファベットで調べたらデンマークの海運会社ということがわかり読み方は「マースク」であった。でたらめだから違うかもしれないが検索結果にその会社のマークが描かれていてそれに見覚えがあったからまず間違いない。デンマーク語は奇妙だと思った。昔オランダ語については土地的にドイツ語と英語をミックスしてしゃべるとオランダ語になるという話を聞いたがそうするとデンマーク語はドイツ語を青森っぽく話せば通じるのだろうか。


あと私がマラソンコースを変えたのは近所のおっさんに話しかけられるのが面倒でしかしもっと面倒なのはおっさんが家の前でまごまごしているのに遭遇したとき話しかけるべきか気づかないふりをして無視するべきか迷うときでそれが鬱陶しいからおっさんの家とは逆方向にコースをとることにした。そこは土手のそばなので秋冬は風が強くて走る気が失せたが春になると桜が咲いてきれいだった。桜は確かにきれいだがちょっと人間に優遇されすぎているきらいがありいちばん良い眺めの良い場所に連続して等間隔に並べられるとなんでもきれいに見えるものではないか。私は雑草みたいに生える菜の花のほうが好きだ。その桜の木の根本にはパトカーが隠れていて一時停止違反を見張っているのだが。

そのうち仏にでもなってしまうかもしれない

子供の頃のサラリーマンのイメージとは人にペコペコしてばかりで格好わるいというものだったが大人になるとその他の多くの物事と同じように「そう単純でもない」という所感を抱く。この手のステレオイメージで引っかかるのがドラマに出てくる夫婦の描写でいまだに妻が夫に敬語を使ったり夫が妻に「おい」とか「お前」とか言ったりする。新しいドラマでも同じ。そういう風にしないと夫婦っぽくならない、というか手軽に夫婦っぽくしたくて妻に敬語なんか使わせるのである。私は妻の敬語に出くわすたびに「もうちょっとがんばろうぜ」とがっかりした気分になるのである。


もう十年近く前だがジブリ美術館に行ったらミニ映画館みたいなのがあってそこで地べたのような椅子に座ってミニ映画を見たら主人公は幼稚園くらいの女の子で途中でその父親というのが出てきたのだがその父親というのがスラックスを履いていて律儀にポロシャツをズボンの中に入れていて驚いた。こんな父親が今時いるのだろうかと思った。まるで昭和である。休日のショッピングモールだのに行ってこの手の格好をしているのはおじいさんである。めちゃくちゃダサいと思う。しかしそれは価値観だから向こうからしたらだらしない格好子供っぽい服装と思うからお互い様なのである。


最初に就職した職場は私服だったが一応接客みたいなこともするからあるとき本部の上司が「シャツをズボンに入れろ」と怒ってしかし本部は遠くだからまるっきり無視してたらあるとき突然やってきたりするからそういうときは慌ててシャツを入れた。そういう器用さのない人や美意識の高い人はスーツで仕事をするようになった。つまり私の年代の価値観だとシャツをインするくらいならスーツなのである。しかし私の職場の商売相手は割合くだけた人たちなのでスーツだと嫌がる人もいて私もせっかくの私服オーケーがいつのまにかなくなってもイヤだからやはりスラックスを一本くらい買おうかと思っていたらやがてやめることになった。

不死鳥

岸沢統括が去年一時期統括でなくなったが4月からまた統括に返り咲いて同僚と「フェニックス岸沢!」と言いながら揶揄した。ここまで書くのにどれだけ創作を入れたか。岸沢も統括も嘘で本当は別の名前別の役職なのだが本当の名前はけっこう珍しい名前だから万が一ということも考えしかしそういう発想はいかにもみみっちいからいっそ本当の名前を書いて見つかって「よお、フェニックス!」
とでも言ってやりたい。見る可能性は極めて低いからそう考えるとこういう私のひとり芝居ひとりヤキモキはいかにも見苦しい。しかし逆にこの世のどこかに私の醜態がこと細かにしかも実名で書かれたブログがあったらと思うと気持ち悪い。そう考えるとこうして名前を伏せる意味もあるのではないか。私はなにを言いたいのかというとつまり私が誰かの名前を暴くと私の名前も暴かれるということである。しかし私は調子のいいときなどは割と登場人物を実名で出したりする。


統括は珍しい名前と書いたがその土地には多いらしくあるとき統括の地元の支社に電話したら同じ名字の女がその名字を名乗り
「え? こいつ奥さん雇ってんの?」
と引いた。そうしたらその土地に多い名字らしいよと教えられ「ああそうか」と思った。ちょうど同じ名字の女が働き出した頃統括は統括を解任されたころで私は減らされた給料を補うために奥さんをパートで入れたのかと思いめちゃめちゃリアルだなと思った。しかし一緒に働く人は気まずいだろう。しかしもっと不憫なのは統轄が解任されたときには一気に平になったわけでなく一応代わりのポストが用意されそこには元々別の人がそのポストについていたが統括が割り込んでその人は一気に平になった。厳密には平じゃないかもしれない。どちらにせよ格好つけて辞めるかと思ったらまだがんばっているようだ。会社勤めというのはとことん滑稽でちょっと私なんかもとても真面目にやろうという気にはなれない。三月末でたくさんの人が辞めた。ある人は律儀に共有のスケジュールに退職日を入れていたがその後に普通に予定がびっしり入れられており闇をかんじた。また会社のメールは独特の文法で書かれるので実は書くほど文章は下手になります。

親子

これもまた感想だが少し前に狼男の親子のアニメがやっていて私は熱心に見る気はなかったので波縫いのように見たり離れたりして最初のお父さんが下水から引き上げられる前後は見たがなんか悲しくなってしばらく見なくてあとはラストのほうの台風がくる前後を見た。私はこの後の「バケモノの子」も見たことがあるがちょっと退屈だったので途中で早送りをしてしまった。本でも同じように「ああこれはこういうことなんだな」と私の中で納得がいってしまうともうとどまるのが惜しくなってぱらぱらと一気にワープしてしまう。ワープしないものの法則というのについて私はあまり真面目に考えようとは思わないがひとつには概念的抽象的なものにはワープはききづらい傾向にある。これは地道に徒歩でいくように読まなければならない。私は徒歩の読書は途端に眠くなってしまうのである。夜などに本を読んでいて眠たくてたまらなくなって夜だから眠くなるのは自然と思って灯りを消して目をつぶると途端に目がぱっちり覚めるということが最近ありこれはつまり私は本心では文字を追うことを拒否しているのである。私は本を読むことの好き嫌いは置いといて少なくとも得意ではないのだ。ひどいときになると見開きの右端から読み始めて左端にたどり着けないこともある。そういうものは一般的につまらないという評価につながりがちだがどうなのだろう。


よく人は誰も通ったことのない道をみたいな比喩を用いるが誰も通ったことがないというのは誰も興味を抱かなかった道である。そういうのを軽々しく口にする人の想像力とは極めて貧相なのである。道なき道とは例えば深夜の「クレイジージャーニー」を何回か見ればそれを見ているワイプの小池栄子が「わからない」と突き放すように言いつまりそれが理解できない道なのである。そういう道を開拓しつつお金もじゃんじゃん稼いじゃおという発想があるがそれは虫が良すぎるのではないかと思う。欲望は深いほどいいのか。中途半端に聖者ぶるなら欲望に溺れたほうがまだ救いがあるのかもしれない。そうしてカモられるのである。


私はオオカミの映画は退屈とかんじるほど連続して見なかったから評価ができないがそれでも子供が狼に変身したりしながら家中を暴れまわってアパートの大家さんに「犬飼ってんのシってんだかんね」と怒られるシーンを見て辛くなってしまった。私の子供は狼ではなかったがそれでもようやく駆け回れるような年齢になると家中を駆け回って手に負えなくなって例えばご飯を食べなさいと言っても言うことを聞かないので恨めしい。しかもそれは親に対する反抗とかではなくただ純粋に目の前のことが楽しいからいちいち親の言うことなんか聞いてられないからなお恨めしい。殴ればただの虐待だからそうなると途方にくれるしかないのである。私はそういうときにはもうお互い好きなことしようぜという風になって私は私で勝手にやるのだが身の回りには口うるさい人が多くそういう人のムキになっている姿を見るとなんだか私が咎められているような気になってしまう。

A LIFE最終回、ルパン感想

初めのほうは面白がって見ていたが徐々に浅野の勢いが失速してきて話を追うのも億劫になり見るのを止していた。というか私の場合テレビ番組を見るためにはその番組を見ている家族の予定に合わさなければいけないからうまくいかないとぜんぜん見れなくなってしまうのである。とは言うものの私はテレビドラマであれば一話二話飛ばしたところであまり苦にしないのだが。子供の頃漫画だとどうしても○巻が手に入らないとか上下巻の下巻だけが家にあるとかいうパターンが頻繁にとまではいかなくてもあった。後者はちばてつやの「みそっかす」でみそっかすは最初お父さんが嫌な人だったが後から良い人になるのでむしろ下巻から読んで良かったと思う。


A LIFEは妻も放置していたが昨夜見たので私も見たが浅野の失速と竹内のカマトトにも飽きてきたので退屈だったがそれを補うように今度はミッチーの不憫さが目に付くようになった。最終話では浅野を告発し病院から追い出し自分も責任の一端はあるからと辞意をかためそれなりに格好つけるが浅野はその後キムタクに連れ戻されミッチーは最後まで放置された。犬死にである。思えばミッチーはドラマの終始で空回りしていた。取り巻きの松山にはみくびられ恩師は浅野の欲望の犠牲となりミーティングで治療方針を提案すれば頭から否定される。一応浅野の腹心ではあるが突然どこそこの外科部長をやれとかほとんど使い走りの扱いである。一応手術の腕は確からしいがばっちり手術着を決めて手術室に入っても最後まで全員に蒸しされるというむごい回もあった。頭は切れるようだがそれがかえって滑稽に見えてしまう。


金曜日にルパン三世のテレビスペシャルが放送されそれを見たがひどかった。私は見る気は全くなかったがその日は休みで朝から子供とレゴブロックだの風船バレーだのやってへとへとだったからアニメでも見せて注意をそらそうとしたのである。ただ退屈なストーリーならまだいいが変なところでやれ王党派がどうとか詩編がどうとか言うからいちいち子供に質問されるからなおさら恨めしい二時間ストーリーだった。私は別にルパンは嫌いじゃないし子供の頃年末にルパンの過去の映画が一挙放送されたときはほくほくしたものだったが昨日見たものは思わずこちらが恥ずかしくなるような台詞回しだのが何回かあって辛かった。私はやはり瀕死のルパンを銭形が助けながらそのまま見逃すシーンがどうしても納得いかない。その後現地の警察を引き連れて「ルパーン!」と追い回すがそういう無駄にかかる人件費のことを思うとどうして銭形でなければいけないのかという理由が見つからない。それはルパン・銭形の関係だからと言えば済む話なのだが私はもうそういうのに我慢がならないのである。

自由と平等

小学一年か二年のとき二時間目と三時間目の間の業間休みのとき一部のグループがボールを用いた遊びを行っていてやがて休みが終了となり複数の生徒は教室に戻ったがボールは取り残されたままとなり教師はそのことを咎めた。教師の主旨としては「ボールは出した人が片づけなさい」というものでそれを聞いた彼は今となってはもうどんな感情だったか思い出せないがそのことを彼の両親に報告した。両親は
「それは間違っている、ボールは気づいた人が片づけるべきだ」
と教師の論が間違っていることを述べた。彼は両親に報告したということは彼なりに腑に落ちないぶぶんがあったのか。彼は両親の子であるからそういう反応が感情レベルにまでいかないぶぶんであったのかもしれない。しかしそれがそれから30年以上も経った今でも考え続ける事項になるとは思わなかった。彼としては両親の言う「気づいた人は」というのは理想であり限に自分の利を最優先にして見て見ぬ振りをする人もいるのだから誰かひとりを担当としてしまったほうが総数として漏れは減る。責任とか担当という言葉は人間の性悪説に基づいて生まれた言葉かもしれない。学校とは管理されることを学ぶ場所ととらえれば教師がいちいち「ボールは出した人が片づける」と指導することにも納得がいく。学校はいつも係だとか委員だとかが大好きだ。そういえば小学一年のときには「ボール係」というのがあった。体育だか遊びのときにボールを管理するのである。誰がやったかは知らないが今でも彼の脳裏には赤色ドッヂボールを両脇に抱える体育着姿の児童が浮かぶ。彼はボール係が不憫で仕方がなかった。彼は今でも例えば「泣きながらケーキを食べる」みたいなのに弱い。


今読んでいるサピエンス全史という本に「人間は矛盾を受け入れる」みたいなことが書かれていてその前に「自由と平等は矛盾している」とあって驚いた。驚いたのは矛盾していることではなく矛盾していることに今まで気づかなかったことだった。彼は自由と平等は普通に両立すると思っていた。どちらも比類なき良いものと思いこんでいたからである。良いもの同士は足を引っ張り合わないと思っていたからである。こういう書き方ではなかったかもしれないが本では「人類の歴史は思い込みの歴史」とあったから私は思いこんでいた。過ぎ去ったなんとか主義とかは私からすると理不尽極まりないものであったが自由も平等も民主主義も百年とかしたら「どうしてあんなことを」となるのだろう。私は民主主義はともかく自由や平等よりも良いものが想像できないが。私はなるたけフェアに振る舞うことを良しとしているが少なくとも歴史に対してはフェアではなかった。


上記の「思い込み」がはがれかけるときは過去に確かにありそれは金持ちがあるときに「どうして自分の力で稼いだ金を税金というかたちで養わなければいけないのか」という書き込みがインターネット上にありそれは紛れもなく平等によって侵害された自由であるが当時はそういう捉え方はできなかった。

短歌の自由201703号


今月のお題

題詠 5首




1. 草

また草が通路が一時裏の草土が露出し役所呼ばねば


2. あま

あまタンがあまタンだから好きなンだ私は生きない性器も不要


3. ぼたん

たんぼたんぼ※行き倒れの人※たんぼたんぼ※救急車※私と同僚


4. 鳥

生きているうぐいすという雉ならば見分けれる鳥三月以外も


5. 雷

自転車に時速五キロで落雷が後から追う兄式にはなれず



テーマ詠

テーマ「捨」


・台風が来てコンビニのゴミ箱が飛ばされ長野の男はスケベだ


・自意識と取っ組み合って早三年私のブログは五月に始めた


・両隣かわいた刺身に箸のばす彼女は寡婦だ車が好きだ


・籍を抜き毒気も抜かれ元上司熊本地震をダシに口説くな


・北側の十八時には鎖出す誰か踏んづけ離れぬ手と手