意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

味がしない

ちょうど一月ほど前に自分の中の花粉シーズンが終了したと思いそのことを記事にも書いたが先週末くらいからぶり返してきている。終わったと勝手に思い薬も飲むのをやめたせいなのか前よりもひどい気がする。薬を飲んでも効かない。そうしたら今度こそ医者に行くしかないのだがあと一週間もすれば終息するだろうと思いそのまま踏ん張ることにした。結果を見ると愚かな選択だが見なくても愚かだった。経済というのはお店に売っていないものにも値段をつける学問だと思っている。つまり医者代は高くとも1日を憂鬱に過ごす方がよほど損なのである。


昨日は一時間くらい残業をしたが最後の方は数字が追えなくて困ってしまった。システムに入力するコードを拾うのに一体どういう手順を踏めばいいのか本格的にわからなくなってしまった。私は鼻が詰まって食事の味もわからなくなっていたがその上口内炎までできて食事にストレスをかんじるようになった。お腹も痛くなってそれを言ったら「明日は休みなんだからいいじゃん」と言われた。私は今日は休みだった。しかし部屋で一日中ごろごろしながらスマホのゲームをダウンロードしたりしたがあまり楽しくなかった。スマホのゲームは「私たちはこうやって利用者を夢中にします!」という主張が強すぎてこっちも「はい! がんばります」みたいになって疲れる。基本無料ゲーム系だと特にかんじる。私は有料のゲームも以前はやったが先払いな分そういうほうが総じておおらかである。しかしスマートすぎて疲れるぶぶんもある。結局パックマンをやった。パックマンは私は下手くそだが先日のエイプリルフールでGoogleマップパックマンになっているということを友達に教えてもらいやったら楽しかったのである。友達はマップ上にパックマンのアイコンがあるのが許せなかったらしく最初は仕様変更だと思っていたから私が「エイプリルフールのネタでは?」と教えたらそうでしかしパックマンは4月2日になっても消えずまた友達は憤り始め私はそのうち消えるんじないのと思っていたが曖昧なのが許せなさそうだったので調べていつ消えるのか教えてあげた。そのくらい自分で調べろよと思った。

初めての記憶

仕事帰りにセブンイレブンに寄ったらレジの人が研修中という札をつけていて私がモンスターエナジーを単品で出したら栄養ドリンクのフェイスアップを行っていたお尻のポケットにハタキを突っ込んでいた女店員がレジへ飛んできて
「袋に入れますか?」
なんて訊いてくる。気の利いた抜け目のない先輩姿を新人に見せつけたいのだろうか。意地悪な書き方をしたがそういう気持ちは私にもよくわかる。私も最初の職場で二年目に後輩ができて総会で粋がっていたらスキンヘッドのベテラン社員に
「ちょっとそこ邪魔」
と冷たく言われてものすごく恥ずかしかったことがある。私の座った席が間違っていたのである。そういうことはひとりならああすみませんねという具合だが誰かと一緒それこそ後輩なんかだど3割り増しくらい恥ずかしい。あのスキンヘッドは元気だろうか。その男はスキンヘッドな上に耳にピアスを開けカメラが趣味なので上からの指示で総会の様子を写真におさめていた。私の席はカメラの視界の邪魔だったのである。いつだってカメラは人の何倍も偉くカメラを持った人は時に権力者のように振る舞い私たちの自由を制限するのである。スキンヘッドも後輩もそのときの私の恥ずかしさなど想像もおよばずそもそも私の存在も忘れただろう。後輩は浦和レッズの熱心なファンだったがあるとき職場の金を使い込んで辞めさせられた。少しいい加減というか調子の良いところがありカメラ事件の一年後くらいに会ったら妙にこなれた口のきき方をするから私は面食らってしまった。仕事がある程度できるようになると急に態度が大きくなる人は一定数いる。自分の仕事ぶりを勝手に換金しその額よりも給与が低いから自分は優秀だという妄想が態度の根拠である。しかし若いうちは偉そうなのもいいかもしれない。私も偉そうだとさんざん言われた。偉そうにしていれば周りからたくさんダメ出しされて効率的に仕事をおぼえられると当時は思っていた。間違っていたか正しいかはわからない。若いうちはとにかく年上がたくさんいてこちらが多少的外れなことを言っても耳を傾けてくれる人が大勢いた。今はこちらが合わせなければならないから疲れる。さびしい。

よき仲間

朝走っていたら私のマラソンコースには広めのどぶ川がありそこは広い上に深いから子供が落ちたら大変だからと丈夫なフェンスが張られている。勾配のある土地だから立つ場所によってはどぶはかなり深くて大人でも骨折しそうである。そこに頑強なフェンスが張られている。フェンスの網目には注意を促す看板が掲示されているが合わせて極めて想像力の欠如した人が書いたポエミーな文字の羅列いわゆる標語というものが書かれた看板もあり私は普段そんなものを熱心には読まなかったからどんなものか気づかなかったが今日たまたま目に入って読んだら
「清流で 友と語らう よき仲間」
というのがあってこのどぶ川が清流かどうかは置いといてこの短い言葉の中に友だ仲間だとプレバトの俳句のオバさんだったら卒倒しそうな内容である。プレバトというテレビ番組に登場するオバさんとは俳句の専門家でしょっちゅう「文字の節約」と口をすっぱくして言う人で私はそういう考えにあまり賛同できないがいくらなんでも友と仲間が一緒に出てくるのはひどすぎると思った。しかし私はこういう文章を吟味するのも好きなのでこれは一体どういう状況なのか立ち止まって考えると結局は友と語らっているのは仲間であるからこの叙情主体は本人は語らってはおらず口をつぐみ傍観しているのみである。もしかしたら怒っているのかもしれない。さらに「よき仲間」は叙情主体にとっての良い仲間ととれるが同時に客観的な良い仲間、人間的に優れた「よき」かもしれず仲間でもなんでもないのかもしれない。「仲間」も人類みな兄弟的な極めて希薄なつながりをイメージして使われたのかもしれない。そう考えると叙情主体は完全に孤立した存在でありしかもおしゃべりをしている友達を眺めているのだからその状況を良しとしていないのだろう。仲のよい人とおしゃべりできればどぶ川のそばにいたって清流の傍らにいるかのようだねと皮肉のひとつでも言いたいのかもしれない。

ヤンジャンのような夢

メガネをかけた男の人は権力者で自分の顔が印刷された一万円札をつくるという。それを元恋人だかの木村文乃(だったか違うかもしれない)に自慢するのだが木村は「好きにすれば?」とつれない態度。メガネは内心悔しくてたまらないがそのとき木村が機械の設定を間違えて中にいた患者さんが丸ノコで八つ裂きにされてしまう。具体的に悲鳴が上がって死んだことがわかるのではなく外からふと見た丸ノコの歯の部分に血がべっとりついていて木村が自分のミスに気づくのである。頭を抱えてその場にうずくまる木村文乃。そこに一万円札のメガネの男が事態を飲み込み「あーあ」とまるで感情を込めずしかしそのことが最大の嘲りになるような調子で何度もつぶやく。という夢を見た。


書きながらヤングジャンプの漫画にありそうなシーンだなと思った。自分の顔の紙幣というのがいかにも底が浅い。あるいは私の想像力が鈍いのか自分の顔を印刷するくらいの権力を握るとはもう日本としては跡形のないくらいの革命でも起きなければ無理なのではないか。しかし革命というのもちょっと子供っぽい。そういう雑な想像みたいなのがいかにも青年向け漫画っぽい。あるいは劇画というか。しかし雑じゃないと何にも起こせないし周到にやりすぎると今度は読者がついてこれない。だから雑でかまわないのだ。しかし私としては興ざめするというかさめな用に頑張って読まなければならなくなってきつい。


ベルセルク」という漫画があるがあれも途中まではなんとか読めたが女戦士がすごく強いのにあるとき生理になったら一気に弱くなってピンチになるという展開を見てちょっと気持ちが離れてしまった。そんなに極端に弱くなるなら今までどうやっていたのかというのが私の疑問である。年中戦争に首をつっこんでいるのに今回たまたま生理とたたかいが重なったというのは無理があるしつまり今までは何らかの対策を講じていたはずなのである。それが何らかのトラブルでうまくできなかったという描写があれば私もいくらか納得がいくがそういうのがないからなんとなく作者が生理に夢中になりすぎているような気がした。

忘れ去られた靴

自分の中で靴は運動靴というか遊びに行く用は夏と春秋冬用のを一足ずつ持っていてあと冠婚葬祭スーツ用のを一足と普段履きのモックシューズを一足持っている。スーツも何着かはあるが着るのは黒の一着でそれで冠婚葬祭も仕事の会合なども済ましている。私の中ではそういう認識だったがこの前妻に「ブーツきれいにしといた」と言われ「ハテナ?」と思った。ベランダに干したと言われ陰干しの方がいいのではと思ったが知らない靴だったから言わなかった。そのうちに少し思い出しそういえばフェルト地のが欲しいと思って買ったことがあった。白や茶色が無難だがズボンとの色の組み合わせを考えて群青にしたのだ。しかしいつ買ったのか思い出せない。比較的長い期間欲しいと思っていた種類だがあるとき行った靴屋が店員の態度が悪くてすんでのところで買うのを取りやめたことがあった。私はここ数年靴をよく買っている。以前は靴は滅多に買わなくて汚い靴をずっと履いていたが汚い靴を履く人は性器も汚いとかものの本に書いてあってそういう風に見られるのもなんだと思ってきれいな靴がほしいと思っていた。新しい靴は大抵きれいだった。性器と靴の汚れの相関関係はでたらめだろうが。そのころモックシューズを履いていたら思いのほかどこが壊れることもなくせいぜい底が減るくらいでいつまでも履けるというのも靴を買わない理由になっていた。紐がないから丈夫なのだ。だからこれを履かなくなっても次もモックシューズにしようと思ってそうした。前よりずっと高いのにしたがもしかしたら早くダメになってしまうかもしれない。店員に「洗うのは良くない」と言われたから水をじゃんじゃんかけるわけにもいかない。最近の靴屋の店員はすぐに防水スプレーどうですかと勧めてくるから鬱陶しい。防水スプレーは最初しか吹きかけない。私はとにかく面倒くさがりだ。そんな面倒くさがりが靴を5足も持っているという。おまけに季節で履き分けている。元スポーツ店に勤めていた同僚が靴は何足か履き分けてローテーションさせるほうが長持ちするという。一見もっともだがそれよりも単にモックシューズにすれば長いこと履いていられる。私は春秋用と夏用と冬用のブーツを持っているがモックシューズばかり履いている。私の家は人数が多いくせに玄関がせまくそのため私の靴を置くスペースがないため仕方なく部屋に置いている。部屋は二階にありそのためかなり早い段階で「今日はこの靴でいく」と気張ってないとけっきょくいつものモックシューズになってしまう。

自己嫌悪

主に仕事で思ってもいないことを口にすると自己嫌悪をかんじる。仕事以外でも相手の容姿などで特に秀でているわけでもないのにうっかり褒めてしまうとお調子者の自分に嫌気が差す。私はとても優しい性格であと頭もいいからこの人はこういう風に言ったら喜ぶだろうなという正解が頭に浮かぶことが多いのでついつい気持ちのよい言葉を並べてしまう傾向がある。もちろん相手も馬鹿な人ばかりではないから私が本気で思っていないのは見抜いているだろうがお互いにこうすることがエチケットだと言わんばかりに今度は向こうも誉めてきたりする。しかし褒めないことも多い。私はこうして毎日言葉を並べながらその実不適切な使い方で言葉を貶めてしまっているのである。


一方でバカスカ本音を並べてくる人も苦手だ。私はすぐに解決策を提案する人が嫌いだ。私は一見悩んでいる風な話をすることがあるが他人に話す段階のものはすでに自分の中に解決策があるか策を練るまでもない些末なものかあるいは逆にノーベル賞級のアイディアが必要なことである。だから相手の提案は的外れか「んなことはわかっているよ」というものばかりだ。私は相手とのコミュニケーションのために場を持たせるためにあるいはちょっと馬鹿を装って相手に優越感を抱かせるために話しているだけだから本格的に話に乗らないでほしい。


一方で私はというと実は私は解決策マニアでそういう話がでるとすかさず「こうしてみれば?」みたいなことを言い妻などに煙たがられる。だから私が解決策を出されるのに苛立ちをおぼえるのは同族嫌悪だ。私の解決したい欲を満たしながら相手にも不快感を抱かせないために私はそういうときはなるべく突飛なことをギャグっぽく言うよう心がけている。昨日は会社の飲み会だったが私はわざわざ「突飛ですけど」と頭にわざわざつけて解決策を提案した。相手が上司だったから気を遣ったのである。上司は私がうざかったのかそのうちどこかへ行ってしまった。


しかしなんにせよいちばんの自己嫌悪は自分が主張しすぎてしまったときで相手が調子に乗ってあれこれご高説を述べているときなどはつまらないし不愉快だが私の方はしゃべらずに済んでいるので心の奥底では安堵しているのである。

人は書く前に考えたことを書きたいと思う

出張に行くのだが朝余裕があったので妻の車のタイヤを交換した。スタッドレス→ノーマルである。暖かくなったのでずっと換えなければならなかった。スタッドレスの細かい溝が熱をもったアスファルトに削り取られる様を想像してプレッシャーをかんじた。妻がオートバックスでもどこでも勝手に換えてきてくれればと思う。しかし実際それはそれで不愉快ではある。去年か一昨年くらいに私がぐずぐずしていたら換えてきてしまったことがある。そのとき貼られたポジションのシール(左前、右後など)がそのまま使われている。ご丁寧に車を俯瞰したときにどこにくるタイヤなのかイラストが描かれている。その横には「そろそろ新しいのに替えましょうか!」みたいはメモが貼られている。どこでも良いわけではなく是非当店でというメッセージである。オートバックスとは少なくとも同じ業界ではかなり大きな企業でありそこで働く人はそれを誇りにかんじるのだろうかとぼんやり考えた。同じ模様のツナギを着て馬鹿みたいであるが馬鹿は私のほうだろう。しかしいつまでも下っ端でレジ打ちばかりやらされていたらステータスもなにもない気もする。


昨年亡くなった義理祖母のところに生前訪ねたときに私の孫は上がどこそこで下はどこそこにアルバイトで勤めたが優秀だから社員に登用されたみたいな話を延々と聞かされた。私はこの孫を気の毒に思った。私の妻なども孫であるが自慢の種は内孫ばかりであった。一方私の祖母はまだ存命だがおそらく私よりもよほど自分のほうが優秀だと思っているから私のことを自慢の種にしたりしないはずだ。


とにかく年老いた人のいい玩具にされないためには可でも付加でもない愚鈍な人間になるのがいちばんである。


オートバックスのタイヤのポジションシールを見ながらそんなことをぼんやり考えたがその後今日のブログはこんなことを書こうかしらと思い今思っても忘れるだろうなと思ったら忘れた。私はそういうことには頓着しないよう心がけているがそれでもいざ書くときになるとそれを思い出そうとしている自分に気づく。書くことなんて書きながら考えればいいのに最初の一文字はちゃんと思ったことを書こうとして書くのをためらう。これは私ひとりの問題ではなく多くの人も同じなのではないかと思った。私たちは考えるから人間なんだと思いこんでいる節がありそのため頭の中は常に文字や思想であふれかえっているようなイメージを抱くが実際のところ筋道だったものはなく衝動ばかりでスカスカなのである。