意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

右折

朝子供を駅まで送り帰りに右折しようとしたらトラックがものすごい迫力できてさらにそのあとどんどこどんどこ途切れることなく大小さまざまな車が迫ってきては通り過ぎまるでサバンナを大移動するバッファローの大群のようだった。さしづめトラックが群れのリーダーで軽自動車は子供なのである。群れは川にさしかかり構わずじゃぶじゃぶ横切るのだが子供は水流に体力を奪われた上向こう岸が高いところにあって上れないのである。大人ならひとっ飛びで上の平らなところまでいけるが子供のジャンプ力ではどうしても途中で一度脚を置かなければならない。しかし足場は急勾配でぬかるんでいて滑るから子供は何度チャレンジしてもうまく登ることができない。そのうちいよいよ体力の限界が近づいてーー。


それで子供は流されたのかそれとも別の大人が角で押し上げてくれたのか。ずっと昔に「わくわく動物ランド」でそんなシーンを見たがどうなったのか忘れてしまった。子牛の蹄でつるつるになったぬかるみが妙にリアルだった。泥の上ですべるとああいうかんじになるのである。泥はアフリカも日本も共通だった。「わくわく動物ランド」は子供のころ水曜八時から放送されていて小林亜星が出ていたことはかろうじておぼえている。坊主頭の小林亜星がクイズに正解する度に子ライオンのぬいぐるみが回答席にプレゼントされるのである。小林亜星は例のふてぶてしい顔でまったく嬉しそうにもしない。私はまさがこの人が作曲家であるなんて「ぱっとサイデリア」のCMを見るまで知らなかった。「ぱっとサイデリア」はそのあと「ぱっと屋根デリア」になった。最近葬式で故人の好きだった曲を流すというのが流行っているが私が死んだら「ぱっと屋根デリア」の歌がいい。割と泣けると思う。


道は子供のころからある道で昔は細かったがここ数年で一気にぶっとくなって延伸しすっかり激流のような道路になった。拡張の計画はずいぶん昔からあったようでそのための土地が道路の両サイドに用意されそこは土が積まれて山となり草が生えて方墳のようだった。子供たちはそこに登ったりして遊んだ。大人はそこに犬を放ちそのためうっかりすると犬のウンチを足でこねることになった。昔は飼い主のマナーなど皆無だったと言いたいが今でも空き地の草ぼうぼうのところはウンチまみれである。土の上ならセーフとか考えているのだ。隣の家の犬も相変わらず放し飼いだ。しかし犬はどんどん老いて今朝は飼い主がいくら呼んでも玄関から出てこない。死んだのかしら。大変良い毛並みの犬で耳が長かったがすっかりくたびれたモップのようになってしまった。保坂和志がこの前もうこの年になったら新しく猫を飼ってもみとれないから飼うことはできないとか書いていたが隣のおっさんはもうだいぶいい年だがこの犬が死んだら悪びれずに新しい犬を購入してくるのではないか。そうして先に男が死んだらなんやかんやで私が後を継ぐことになったらどうしよう。毎朝散歩を欠かさなくなり草むらの上でウンチしてくれたらラッキーとか思うのだろうか。そうしたらこの記事のことを思い出すのだろう。

紫の花

一ヶ月くらい前に桜よりも菜の花が好きだと書いて菜の花は散るのではなくその黄色にやがて目が慣れて視界に入らなくなるので実は一年中咲いていると書いた。しかし今朝走っていたら頭を落としている菜の花が多数でありその後に紫色のつぶつぶした花が咲いていた。紫色のつぶつぶした花は菜の花よりも背丈が低くやはりこの花も菜の花が咲いている間はその下に隠れていてじつは一年中咲いている花なのではないかと思った。私たちの感覚はゆっくりうつろうものには鈍くできている。私が桜が菜の花よりも好きでない理由について桜は見るたびにその美しさについていちいち同意を求められているような気分になるからであった。その点菜の花はずっと気楽だった。


私のブログが開設して丸3年が経った。運営側が「振り返りませんか?」とメールを送ってきてそこに過去の記事のことが出ていたがら嫌でも意識しないわけにいかなかった。私は現在のブログが生まれて初めてのブログであったから最初の記事が生まれて初めてだった。最初の記事ではキースジャレットが大阪でコンサートをしたら客のくしゃみがうるさくて途中で演奏をやめて帰ってしまったニュースを取り上げた。たしかチケット代を損して憤る客がいたとかだったが私はむしろそれこそファンの本望ではないかと書いた気がする。その次の日の記事ではVC3000のど飴のグレープフルーツ味が出たことを書いた。私はレモン味しか知らなかったから驚いたのである。その次はシークワーサー味が出るのではないかと記した。振り返ると私も書き始めた当初はブログらしいことを書こうと意識していたようだ。そこから一ミリも発展も成長もしていないが。


あと数日したら連続1000日更新になるので初夏は忙しい。

ララランド再び

ララランドというヒットした映画を少し前に見てヒットしたので見た人も多く自然と感想だとか解釈だとかの文章を多く目にした。今までの映画なら感想が多いのかもしれないが最近の映画は解釈と読んだほうが相応しい文章をよく見る。それが21世紀なのか。そういえば私は普段はあまり話題にならないような小説だのを読んでいて映画も数年に一度しか見に行かない。だから自分の見たものにかんしてこんなにもたくさんの解釈があって戸惑った。まるで学校にでも通っているようだった。学校でみんなで映画を見て感想を言い合うというのに似ていた。中学のころ英語の学習の一環で「バードオンワイヤー」という映画を字幕なしで見てそのとき生徒にネイティブな発音を身につけさせるために赴任した外国の男の教師がいたのだがその男はアメリカ人らしく生徒たちのど真ん中の机の上に腰掛けた。そういう外国の教師をアルファベット三文字で現すのだが私はいつも忘れてELTとか言ったら「それはイーエルティーだよ」とつっこまれた。


「バードオンワイヤー」を見ていたらちょっとエッチなシーンがあってするとアメリカ人の教師は「NO!」と言いながら画面を手で隠した。ビックリマークを付けてしまったが大真面目に「見るな!」と叱ったわけではなくソフトに「参ったね」というかんじの「NO」であった。いくらアメリカ人の手が大きいといっても画面のぜんぶは隠れないしあらゆる角度から生徒たちは画面に食い入るからどの道隠すことなんてできなかったのである。アメリカ人からしたら中学生くらいならちょっとした性行為くらいじゃ動揺しないしもしかしたらすでに済ませてしまった人だっているのかもしれないと考えたのかもしれない。私のクラスではワタベとササキが土手でやったという噂が流れていた。私の中学は川べりにあって土手があったのである。運動部に入ると「土手○周」と先輩に命じられてわっせわっせと走らなければならなかった。土手は一周800メートルほどだと聞いた。私はテニス部だからだいたいいつも三周走らされ先輩や顧問の機嫌が悪いと5周とかになった。サッカー部や陸上部はもっと走ったのだろう。とにかく土手は糞食らえでそんなところの影で性行為におよぶなんてワタベとササキはちょっとイカレてると思った。ワタベは野球部でササキはバスケ部だった。ワタベは馬鹿でサルだからどこでもいいのかもしれないがササキからしたらちょっとどころでなくイヤな話だ。ササキは女子では背の高いほうで気が強くグラマラスな体型をしていた。学年の途中で髪を短くした。中学を卒業してから一度もあっていないが今はその人を「お母さん」と呼ぶ人もいるのかもしれずそう考えると奇妙な気分だ。ササキもララランドを見て自分なりの解釈を持つのだろうか。ササキはどちらかといえば頭が悪いから「どうして話の途中で歌い出すんだ」と憤慨するのかもしれない。それは心象風景だから歌っても踊ってもなんら不思議はないが私は最近は物事をフィクション化するにあたり絶対に抜け落ちるゾーンというのが物語には存在しそれを埋め合わすためには歌ったり踊ったりしなければならないと考えるようになった。よく考えたらミュージカルはおかしなものだが何年か前に「コーラスライン」を見たらやっぱり出演者の人は必死であった。


私は解釈というほどのものを持たず心に残ったのはセブとミアがケンカをしたシーンでセブが聞くからに情けないことを吐いてミアの逆鱗にふれるというのがあってその情けない言葉に「男ってこうなんだよなあ」と心の中でつぶやいたことである。共感したのである。どうして「どうせ俺なんて」と自分を卑下するのは気持ちがいいんだろう。愛されることは幸せだが愛されないことのほうがずっと楽なのだ。「嫌いになった」と言われるより「そもそも好きでなかった」と言われたい。私とセブは自分の中の何が傷つかないように何を守ろうとしているのか。私とセブは個人的な知り合いでも何でもないが私とセブ以外は女との関係がうまくいかなくなったときに「そもそも愛してなんかなかったでしょ?」なんて言わないのかもしれない。


セブセブというとフィリピンのセブ島のことを思い出し課長島耕作で樫村が現地のゲリラに殺されたのかあるいは島がフィリピンのマンションで隣の部屋の男が不倫をしていたら亭主に見つかって指の先を撃ち抜かれたのがたしかセブ島だったのではないか。

五時マン

子供のころ「大きな古時計」を歌いながら「ご自慢」の意味がわからなくてよく外人だとコールマンとかいう名前があるから「ゴジマン」という人がいてもおかしくないと思った。もちろんそう思ったのは今の私で子供の私がコールマンなど知りもしなかった。ついでに話の流れで「なんとかマン」を頭の中で探すにあたりジャズミュージシャンてなんとかマン多かったなあとあたりをつけたらオーネットコールマンとジョージコールマンが思い浮かんでどちらもコールマンで詰んだ。こういうのって頭に例えばをつけて例示する場合は最低二つは並べたいと思ってしまう。ひとつだと「例えば」が心もとなくなってしまうからやはり二つはほしいと思う。これを例えばの呪いとでも名付けようか。呪いなんて子供っぽいがちょっと今かっこいい言葉が思い浮かばないから。ついでにいうとサッカー選手でマクマナマンというのがいた。イングランド代表でたしかボランチだった。たぶん15年くらい前の選手で私は登場実況サッカーワールドイレブンというゲームに興じていてそこでは名前がマクマネマンだった。だからマクマネマンと言われた方がしっくりくるしマクマナマンのほうがひょっとするとパロディにかんじる。


パロディといえば数日前に川添さんがララランドのパロディ動画を自ブログで取り上げていてニューヨークバージョンが面白くて何度も見た。

ラ・ラ・ランドのパロディ合戦は楽しかった - Letter from Kyoto

私がニューヨークバージョンを面白いと思った理由は芸の細かいぶぶんと雑なところのバランスで細かいぶぶんとはエンドロールで踊っているところに通行人が道を訊ねてきて踊りが中断されるところで雑なぶぶんは特にアイディアのないシーンにピザでオチをつけるところだ。私は笑いとはどこか雑なところがなくてはいけないと思っていてきれいにまとめすぎるとつまらない。そう考えるとリアル・ララランドのパロディのほうはぜんぜん面白くなくてそれは私が英語を理解しないからではなく日本語でもつまらないだろう。とにかく言葉をつめすぎなのである。

頭のよい人

幼いころから「頭がいいね」と言われて育ったせいか周りに頭のいい人がいない。理屈では私よりも頭のいい人が世の中にいくらでもいることはわかっているが実感として「この人頭がいいなあ」と思うことは皆無だった。そういう友人や集団に恵まれなかったという面もある。大抵は私より頭が悪かったので集団の中の「頭良いポジション」は常に私がとることになった。考えてみたら子供のころはサッカーが流行っていてサッカーがうまかったり運動ができる子がもてはやされ仕方なく私は笑いをとる方面に行くしかなかった。私は頭はよかったが勉強はあまりできなかった。成績にはムラがあった。自分よりも学年順位が上の人に勉強を教えることもあった。教えた人が満点をとることもあった。そのとき私は99点で平仮名を間違えたために一点減点されたのだ。それは本当に悔しかったから覚えている。私のほうが先に名前を呼ばれ99点なら私はクラスでトップだろうと思ったら満点の人がいてしかもテスト直前に私が解き方を教えた人だったから私が教えなければその人は90点とか97点とかで私がトップだったからである。しかし私は平気で平仮名を間違えたりクラスのほとんどが正解した問題を間違えたり詰めの甘いところがあったが私はそういうあまりガツガツしてない自分が好きだったのである。学生時代の私はとにかく暗記科目は初めから捨てていて捨てるというか授業を聞いていれば平均点は確実にとれるからもうそれ以上何を勉強すればいいのかわからなかった。私は自分でほどほどだと思っていた。しかし私は大変頭のいい人間だと思っていた。私の言う頭の良さとは着眼点とアイディアの良さのことであった。


しかし数日前にふと私の頭の良さとは単に周りを認めていないことに由来するのでは? と思った。つまり気づいていなかったのである。世の中に「自分は頭がいい」と自称する人はたくさんいる。また同じくらい「自分は口では負けない」という人もいる。これは単に負けを認めないだけだと話しているうちに気づいた。私が言葉に詰まるとさっさと勝利宣言をして話を終わりにしてしまうのである。その身の引き方には驚いた。私も頭に血が上るとまくし立ててしまうこともあるが普段はとにかく間違いの少ない道で論理を組み立てたいので自然と出足は遅くなるから言い合いでは勝てない。「口では負けない人」というのは下手な鉄砲を撃っている人のようでもある。最後は力業なのだ。私は一撃でしとめることを良しとするから自然と相手の出足をうかがうようになってしまう。


それでとにかく私は私以外にも頭のいい人がいる可能性について考えていてまずこの人は頭がいいだろうという候補の人が会社にいてこの人の良いところは先入観に惑わされずに良いものは良いと評価できるところであった。あと今日若い人がたまたま私の案に対して異議の電話をかけてきて聞いたらまるで数学の問題で別の解法を説くみたいな一見わかりづらいが検算するとバッチリみたいな説明をしてきて鮮やかだったので「やるじゃん」と誉めたら照れくさそうにした。

機械の文章

インベスターZを読んで明治維新に興味がわいたので上記の本を読んだ。そうしたら百姓という言葉が何度も出てくるのだが「百姓(農民とはかぎらない)」といちいち括弧の注釈が最後までしてあってしつこいとかんじた。かなり早い段階で「百姓というのは農業だけをやる人を指すんじゃないんですよ」と説明がなされそのときはなるほどと思いその直後の文章で「百姓(農民とはかぎらない)」とあったのでこれは読む前の認識だとミスリードとなるから強調しているんだなと思ったがそれが最後まで続いたのでどれだけ読者を信用していないんだと思った。


信用云々は置いといてこんなにしつこい文章は初めてだったので内容を追いながらもそのことを考えずにはいられなかった。私が思うにこれは百姓と打てば括弧書きが変換ででるように辞書登録されたのではないか。そうじゃなければ書いているほうが嫌になってしまう。間とか呼吸とかそういうものが現代人に通じるのかはわからないがとにかく私たちは同じことの繰り返しに弱い。ちょっとした変化がないとつらくなってしまう。反対にコンピューターのプログラムは機械に読ますのだから同じ主語を使い続けなければ支障をきたす。プログラムの学習は外国語のそれと近いが肝心のところで区別しないとどちらからしても寸足らずになってしまう。


そう考えると人間向けの文章に効率だとか生産性を求めても逆効果な気がする。私は昨年は効率化の本だとかも読んだがそこに書かれた文体も実は効率的ではなかったのかもしれない。私が読んでいて意味不明なのが章ごとにまとめがある本でまとめられるならまとめだけでいいじゃないですかと言いたくなる。私はそういうものはいつも読み飛ばしてしまうがちゃんと読む人もいるのだろう。私はそういえば自分が書くことにおいては「何が言いたいのかというと」みたいなのは極力なしにしている。言いたいことはないんだと自分に言い聞かせている。


例えばインタビュー記事などで(以外、○○とする)とやたらと長い名前の人とかだと省略させられたりするがあれこそ紙面のスペースの確保で効率化の結果と捉えられるがそれにしてもやはり逆でああしないと読む方が苦痛にかんじるからそうするのではないか。以前読んだ「プルーストイカ」という本に私たちは黙読するときも頭の中で一度音声にしてから認識するみたいなのがあってそれはつまり文字という記号は比較的最近にできたから脳には文字をそのまま認識する機能がないから音声で補うみたいな話があってだからやたら長い名前が連続して目に入ると苦痛なのである。苦痛なのは耳であり口なのである。


ところで上記のプルーストイカのエピソードだが私は実のところ本の中ではなくこの本を紹介していたブログで読んだ記憶の方が強い。ある種の書評は本そのものの面白さを超えてしまうことがありそれがいいことなのか悪いことなのかわからない。しかしもっと言えば脳が文字を認識できないことについて「プルーストイカ」の中にはなかった気がしもしかしたら別の本で読んだことと混同されたのではないか。何にせよ書評でかんじることと本でかんじることは一致しない。

梅沢富雄という名のスパイス

アニーの映画がテレビでやっていた。私はアニーの舞台は見たことがないので新鮮な気持ちでそれを見ることができた。単純なストーリーだが家族で楽しむことができた。キャメロンディアスが老けたなあと思った。録画で見たのである。それが終わったら来週のこの時間はのコーナーが始まって来週のこの時間はアナウンサー大賞を行うんだそう。まったく興味が起きず家族もこの手の番組で言うアナウンサーは女ばかりなので優劣つけてどうするんだと積極的に批判する。私の家族は女ばかりなのである。そうしたら突然梅沢富雄が画面に大写しになって梅沢富雄が大写しになるとなんでもテレビっぽくなるなあと感心した。


梅沢富雄はここ一年くらいでよく見る。番組内では終始ニコニコして共演者にゴマばっかりすっているイメージである。プレバトなどでもすすんで汚れ役を引き受けタレントというよりサラリーマンを見ているようである。芸能界を生き延びていくのはほんとうに大変なんだと胸がつまる。最初はのべーっとした顔立ちで偉そうなことばかり言うから嫌いだったが徐々に好意を持つようになった。好意をもつというはっきりとした感情を抱いたことはなかったが今日アニーのあとに突然この人の大写しを見てこの人こそ私にとってのミスターテレビでありこの人を見ないとテレビ番組を見ている気にならないということに気づいた。