意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

バリカのソファー

一企業の駐車場と公道の境界に引かれる鎖およびそれをつなぐ鉄柱をバリカという。私の勤め先では最後に出る人が鎖を張ることになっているのだがそれは車通勤の人に限られるのだが今日は私が最後になったから閉めた。外は雨だったので傘をさして閉めたが大粒の雨だったので濡れてしまった。その前にすでに建物から車に行くまでに濡れたのでもう関係なかったがそれでも私は傘をさした。傘はもう10年くらい使っているものでどういういきさつで手に入れたものか全くおぼえていない。先日妻にカビが生えていると言われた。新しい華やかなものがほしいが傘を使う機会がもうほとんどない。私が一生でもっとも傘を使ったのは小学生の時でカッパを着用したのは中学生の時だ。中学は家から5キロくらい離れていたから自転車通学で雨が降ったらカッパを着用することになっていた。朝から雨が降ると玄関でカッパを着て学校に到着すると自転車にカッパをかけて校舎に入った。上着の肩のぶぶんをハンドルにかけて全体をよく伸ばしズボンは後輪の上の荷台にかけた。盗まれるかもしれなかったがもうカッパを脱ぐだけでひと仕事でもうどうでもいいと思っていた。たまに鍵をかけ忘れることもあった。そういう自転車を見つけ鍵を差したままロックして影から見守るというドッキリを仕掛けたことがあった。焦る人をひとしきり見た後で「てってれー」と登場するのである。大体は「焦ったー」とか「なんだよー」みたいな反応だがたまに怒り出す人もいた。確かにイタズラしたのはこちらだが見方によっては私たちがぬすまれないよう見張っていたのだから感謝こそされ怒られる筋合いはないと思った。下駄箱が二階にあって外階段の影から私たちは自転車の持ち主を息を殺して待っていた。外階段は合唱祭の季節になると朝昼夕の休み時間に歌の練習が行われた。後列の人が一段上に上がりそうすると舞台のようになったからである。やたらと合唱の盛んな学校で教師たちは自分のクラスが良い成績をおさめるよう熱心に応援しその熱心さでひとつの義務を果たしているような気持ちになった。私の担任は三年時は音楽の先生だったので割と冷ややかであった。当時まだ20代の女だったが可愛くはなく私たちはよく究極の選択と称してこの女教師と理科のA教師(男)の性器を舐めるならどっちかと考え大いに悩んだが少し背の高い猫背の名倉くんが女教師のほうでしょ? と何事もないように即答したので私は名倉くんは大人だと思った。


※タイトルの「バリカのソファー」は吉本ばなな「マリカのソファー」のもじりです。

すべてが思い出に変わるように

この前織田信長の家臣団の本を読んだが昨夜ふと自分の中で桶狭間の戦いがリアルにかんじた。桶狭間の戦いは諸説あるみたいだが私が最初に読んだのは進研ゼミの小5の付録で日本史のざっくりとした漫画があってその中の桶狭間のシーンが雨だったので私のイメージは雨だ。その雨が昨夜私の中でリアルになって馬の手綱を握った親指の付け根のくぼみに雨水がたまる様子白くけぶる森の様子が過去にその瞬間があったと確信するリアルさだった。過去が確実にあるというのはとても奇妙で時代のせいなのか過去は虚構だというほうがしっくりくる。妻と子供たちが鋼の錬金術師を見ていてそこで鎧の弟が敵に
「お前は確実に存在するのか。過去は兄貴が作ったんじゃないか」
と惑わし弟はその後病院の廊下でうなだれるのであった。やがて何か兄貴にそれっぽいことを言われて立ち直るのだが私はそのシーンは見なかったので知らない。あと中佐が公衆電話の前で撃たれるシーンがあって私は洗い物をしながら横目で見ていただけだからちゃんと見なかったら後から中佐が死んだか気になって調べた。私は最近はアニメに限らずストーリーそのものがしんどくなっている傾向だがアニメのこの人はこういうキャラだからこういう言動なのですよみたいなのが鬱陶しい。なんかもっとブレブレでも良いのではないか。ブレブレといえば私の中では「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」だが少し前に読んだのにストーリーが奇妙なほど思い出せない。世界が裏返るのだが完全な裏返り方じゃなかった気がする。最後まで読まなかったのかもしれない。


「確実に存在する過去」というのはしかし実に奇妙だ。一方ここ数日はシュメール人の本を読んでいるがわずか4000年ほど前は粘土板にへっこみをつけめ誰それが王になったとか記していたのだ。粘土板は今で言うところの紙で一塁ベースみたいなのが山積みになって露店に売っていたのだろうか。その裏で一日中粘土をこねて平らにしてチーズスフレみたいに書きやすくした人がいるということだ。その瞬間が確実にあったというのだから奇妙だ。私が子供の頃は炭を紙にこすりつけその濃淡の組み合わせで文字としたが今思うと極めて原始的な行いであった。炭坑は今日本にあるのか知らないが鉛筆でものを書くなんて炭坑で穴を掘るのと大差ない行為だ。炭の周りには木が巻かれていて私たちはあるいは木こりにでもなったつもりだった。

サーティワンアイスで思うこと

あまり行ったことのない遠いホームセンターへ行き規模の大きいところだったので二階にはフードコートがあって目に付くところにサーティワンアイスがあった。食べようということになった。そのころには一階の店をぐるぐる回って疲れていた。私はネジを買おうと思っていた。妻と長女は修学旅行が近いのでそういう買い物をしていた。とちゅうでゴキブリを凍らすスプレーがあったのでひとつ買ったらどうかと提案した。最近よく見るのである。以前にも買ったことがあるが凍らせて死ぬというより仮死状態にさせて潰す要領である。完全に殺すには結構な量を使う必要がありこれはコストパフォーマンスが悪いなと思った。しかし凍えさせて殺すというのはイメージが良い。昔風邪を引いて喉を痛めたときに直接喉にスプレーする薬が出たときにも
「これは効きそう」
と思った。CMでは「歌手の小金沢くんが使用しているのはコレ」みたいな文句があってみんなその薬を「歌手の小金沢くん」と呼んだ。少しして音大に通う友達が「あれは喉に悪いよ」と教えてくれ確かにあれは治すより治った気にさせる薬ではないかと思った。しかし悪いところに直接塗ったりするとすぐに治りそうな気がする。いわゆる風邪薬が頭痛いのに飲み薬なのはどこか騙されているような気がしてしまう。


サーティワンアイスに行っていつも思うのは透明の容器の中に各種フレーバーが寸胴に入って並べられていて私はいつもほとんど量の減ってないフレーバーを選んでいるのではないかということだ。私はアイスに関してはストロベリー系の味を選ぶことが多くしかし寸胴を覗き込むとあまり減ってないから不味いのかしらと不安になってしまう。ストロベリー系でもいくつか味があるから頼む前に変更しようかと悩む。そういえばいつもあらかじめ味を決めてから寸胴を覗くので今日は覗いてから決めようと思った。モカ系にした。まるで私が足繁くサーティワンアイスに通っているような書き方をしてしまったが最後に食べたのは一年以上前だ。とても喉がかわいた。

短歌の自由20170726号


 

7月題詠 5首

 

1. 透

黒夢のバックで叩いたドラマーはそうる透だ字違ったかも


2. ホイップ

スーパーのホイップ売り場が見つからず手作りケーキがはんぺんになる


3. 果

おっ母に逃げられ倅(果物屋の)銭湯越えたら明治通り


4. ペンギン

子供のころラッコとコアラを間違えた。ペンギンは特に間違えなかった

 

5.短夜

カーテンが死人のような顔してる短夜蝉が鳴くよミンミン

 

 

テーマ詠

今月のテーマ「あつい」

・桑原が「ああ、ついでに」とぼたんに言い、海藤優に魂とられ

・海藤は文系科目が得意だが学年一は南野秀一

・トイレにて蔵馬の思惑読む海藤 小便じょぼじょぼ出るとジャングル

・蒸し暑いテレビを見たらういろうに鮪が見えた俎すごい

・良純はずいぶん年をとったなあ テレビに出とる 暑さのせいか



幽遊白書でいちばん好きなシーンは死々若丸が玄海に技をくり出した後に玄海が死んだと早とちりして
「せっかく残りの999の技を見せてやろうと思ったのに」
と言ったコマ外に作者が手書きで「ムチャいうな」と突っ込みを入れるシーンだが年月が経つとだんだんと海藤優が蔵馬との知恵比べで蔵馬の思惑を探るシーンでそのとき海藤はトイレに入って小便をするのだがそれが「じょぼじょぼ」とすごい音を立てこの音がものを考えている人の様子をとてもリアルに表現していて好きになった。

私だけは特別

昨日の記事の続きにもなるが本を処分しろと妻に言われて私は初めて自分が本を収集していることに気づいた。それまで私は例えば幼いころからビックリマンシールを集めるとかそういうことに興味を示さず履かないスニーカーを集める友人をナンセンスだと思っていた。一方で私はガンダムのガチャポンとかBB戦士はたくさん持っていたが書き始めるまでそんなことはてんで忘れていてものを書くというか筋を辿るというのは本当に乱暴な行為で自分に都合の悪いことにはとことん蓋をするようにできている。ものを書くというのは恥知らずな人しかできない。それでも私は購入したBB戦士で架空の戦いなどを仕組み勢い余って片方の腕をへし折ったりしたから私は使役のために買ったのであり収集するために買ったのではないと思っている。本も読むために買った。しかし妻からしたら質量を持つものを所有したらぜんぶ同じなのである。とにかく妻の考えも偏っているが私は私でいかに自己愛が強いかに気づかされた。

「夫が約束を破ってまた女物の下着を身につけていた。なぜ約束を破ったのか理解できない、信じられない」 - 斗比主閲子の姑日記

こちらの記事で女性の下着を身につける夫について書かれているが私からすると別にいいんじゃないのという感覚である。置き換えると妻が男物の下着をつけるということか。もっと男男したものじゃないと釣り合いがとれない気もするが私としては

・下着なので上にものを着れば見えない
・個人で楽しむ範囲なら害はない

の二点から社会的ダメージはほとんどないと判断できるからOKなのである。リスクがあるが同じ女性下着仲間とつるむとかも許容できる。私は極めて合理的な人間だ。しかしだからといってこの妻が極めて狭量な考えの持ち主と批判するのもフェアではない。私は私の中には必ず許容できないラインがあるはずでそれがはっきりしないのはたまたま私がそういう場面に遭遇しなかったからである。そしてそのように思うことも自己愛なのである。

所持することについて

私は子供のころからあまり物を所持することに興味を抱かず例えば私の年代ならスニーカーを多数所持する友達がいて私は正直「履かないものをそんなに集めてどうするんだ」と思っていてそれはつまり私自身は意味のないものは手元に置かない主義だと思っていた。ところが結婚をしてから妻に何度か「本を処分してくれ」と言われて何度目かに私もようやく「本を所持している」ことに気づいた。私からすると所持するとは少し違うんだよなあと思うところもあるが読み終わった本は履かないスニーカーと同じである。処分しろと言われる度に「じゃあそっちが持っているラルクのCDやDVDも処分してくれ」と返していたが「本に比べたらDVDのほうが軽い」と返された。先日は義妹もいてこの人も輪をかけた収集しない人のようで「メルカリで売るといい」なんて提案してきた。メルカリ好きなのである。昔好きだった音楽のCDもみんなメルカリで売ったらしい。もちろん私も過去に何度かはブックオフに売りに行ったこともあるがやはりずっと手元に置きたい本もある。読むことと所持することは少し違う。昔にドラムの先生が「借りたCDと買ったCDは音が違う」旨のことを言っていて確かにそうだと思い義妹にその話をしたらそれは宗教ですかみたいな目で見られた。確かに物を所持するなんてどこか信仰に近いものがある。私は山下澄人の「ぎっちょん」を文學界という雑誌で初めて読みそれは図書館のだったのでその後にすぐに購入しそれから単行本も買ったが雑誌はまだ捨てずにとってある。「ぎっちょん」は雑誌のほうが面白い。私が衝撃を受けた「カニの目線」は確かページの右下のほうにあって単行本だと右下というポジションはない。私はニュアンスに生きている。


ずっと昔にTwitterで「金閣寺を読んでます」と金閣寺の見開きを写真にうつしてアップしている人がいてその金閣寺が本のとちゅうで短編集みたいなおさめられかたをしていたから金閣寺はそれなりに長い話だからこれはどういうことかと思い訊いてみたら「この金閣寺は全集に入ったものです」と教えてくれた。私は「金閣寺もとちゅうから始まるときもあるんだ」と感心をした。中身が重要で中身さえ理解すれば良いと思っている人は私が感心して清々しい気持ちになったことは想像もつかないだろう。

やきとり屋

父がやきとり屋を下見したいと言うので付き合った。下見と言っても実際に飲み食いするのである。5時前についたが一般住宅をを改装した店の前には行列ができている。私はこの時点で店に入りたくなくなったが父がいるのでこらえた。飲み屋に並ぶのは初めてである。確かに開店前だが昔よく行った飲み屋は5時前についたら裏口から声をかけて無理やり開けさせたりした。私の地元ではなかったが職場の先輩の行きつけだった。チェーン店だったが店主は愛想がなく雰囲気があった。あとトイレがとてもきれいだった。


5時きっかりにドアが開いて暖簾がかけられ暖簾を持って出てきた男は白衣をきていて骨接ぎにでもやってきた気になった。白衣は料理人も着るがどうして整体士に見えたのか。私と父はいちばん後ろに並んでいて奥が開いていたからそこに座ろうとしたらそこは誰が座るのか決まっているらしく断られて隅のカウンターになった。狭いので二の腕が壁にくっつき壁は冷たかった。少し上にハイボールのポスターが貼られている。とにかく一見には冷たい店で私と父はアウェーの洗礼を受ける形となったがそれでも主に焼き鳥を焼いていた年寄りのほうは「焼くの遅くてすんませんね」と私たちを気遣った。私と父が始終苦笑いしているのが目に入ったのだろう。アウェーであっても一応地元なのである。カウンターは奥に行くほど馴染みが座るルールがあるようで末席の私たちは飲み物も焼き鳥も最後にやってきた。そういう現状に年寄りの店主のほうはいくらか危機感を持っているのかもしれないが息子のほうはそういう気配はない。この店は親子二代でやっていてあと息子の嫁がお新香を盛りつけたりしている。店主の妻は遅れてやってきて洗濯物でも畳んでいたのだろうかと私は思った。親子二代というのは私の勝手な想像でしかし父も息子も同じ用な禿げ方をしているから親子で間違いないだろう。息子のほうが特に私たちに冷たく父は予約が可能かどうか訊ねると面倒くさそうに応対した。先に帰った客の皿やコップを下げているところだったから鬱陶しかったのだ。私は客商売とは難しいなと思った。この息子がもっと若いのならまだ救いがあった。


私たちも親子であるが気の弱いサラリーマン親子でありお互いがどんな風に仕事をしているのかも知らない。父はここのところ耳が遠くなってきていてそれが若い社員の苦労につながっていなければ良いと思う。父はもう65だから私も60過ぎの人と仕事をしているがこの人がいてプラスだと思うことはまずない。父は父で私の義父の仕事のことばかり気にかけ私は義父のことなど普段ぜんぜん考えないが義父はもう70だ。それが炎天下で警備員をしている。愛想がよく年下の社長にいいように使われているのだ。それでも何もせずに家にいるよりかは幸せそうである。幸せかどうかは知らない。しかし2人とも私より元気そうである。