意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

暑いからクーラーをつけたら寒くなった

上司とネットで面談をしなければならずその間は冷房のスイッ千に近づけないから気づいたらすごい寒かった 


友達がかつて私のサイトに投稿した文章を自分のブログに転載していいかと訊いてきたからいいよと答えた 転載したあとアドレスを教えてもらって見に行ったら2012年の作品とあってそれはもう6年前だから
「6年前かー」
と思った 私はそこで長ったらしい小説を半年くらい連載していた気がする どんな話だったかまったく思い出せない 最初は短めのを投稿していたがそのときは「村上春樹っぽい」と言われ以来私は一人称を「私」に変えた 実生活も「私」と言う機会がずっと増えた 「僕」はまず言わない 普段は俺である 関係ないが関西方面の人と最近話す 大阪の人は「ザ・大阪」というかんじで馴れ馴れしかったがまあそんなもんだろうと思った 和歌山とか京都とか滋賀に電話した 最初は女の人が出て女の人はどこも同じようなしゃべり方をするが男の人になるとぜんぜん違う 私はイントネーションの影響を受けやすく話しながら自分もつられていることに気づいた 馴れ馴れしい人には馴れ馴れしくしゃべった 向こうからしたら気取った風に聞こえるのだろうか

初恋

昨日車の中で妻が音楽を聴いていてなんという歌手かは知らないがいわゆる「感謝系」の歌だったので辟易した 君への愛に気づいて感謝みたいな内容だった この手の歌は東日本大震災以降に増えた気がする 絆とか流行った すぐに絆を歌詞に織り込む歌手が登場してどれだけ節操ないんだと思ったがこれは私の偏見もあるだろう 山下澄人は割と時期に震災が出てくる小説を書いているしそれと前述の歌と何が違うのかと言われたら何も違わないからだ


私は「感謝系」の歌を聞くたびにその歌っている男性歌手がセックスをしているところを想像してしまう 感謝とは主に愛に関する感謝でありそう言っている一方でその音楽で得た現金と名声で容姿の整った女とのセックスを手に入れるのである これもまた偏見であるがテレビで流れる音楽が表現ではなく商売であることは間違いない そうじゃないとしたらあるのは商売との葛藤である 経済活動を否定するつもりはないがそうすると感謝する対象が愛なのが納得できない また音楽を聞くときくらい金のことを考えたくないという気持ちもある 


歌謡界で愛が量産されるのに対し「誰かを好きになる気持ちがわからない」という書き込みを読んでそういうのに寄り添う表現があっても良いと思った 私は小学校一年のときに初恋をし8年くらい想い続けていたがどこでそれを恋と自覚したのか今となってはわからない セックスやその前の自慰行為をおぼえると恋と愛のすべてが射精に置き換わってしまう 子供の恋も射精の予感にすぎない可能性もあるが私はひたすら相手も自分と同じ気持ちであってほしいと願い続けていた 小学校一年のとき「友達リスト」というのを作って女子の筆頭にその子の名前を書いたあの頃が懐かしい あのときの私はすでに恋を知らなかったのか、それとも知った上でさらに秘すべきものと自覚していたのか

竹馬に乗って足をくじく

いてえ 房総半島にある自然公園にきた 武家屋敷があって外は暑いのに建物に入るとひんやりして思わず
「さみい」
とつぶやいたらそこの女主人に
「冬はもっと寒いですよ」
と注意された 商店だから入り口をおおっぴらに開けとかなければならずだから寒いのだ 真夏にクーラーをかけっぱなしにしている商店もあるが戸も閉めずに電気ばかりたれ流すように使ってどうにかならないかと思う 消費者がバカだからいけないのか 目につきやすいものばかりが手に取られ流通するのがいけない エネルギーの無駄遣いが破滅を招くのだとするなら本能というものは破滅のほうを向いていると言わざるをえない


私は武家屋敷で畳のコースターをつくった


その後昔の遊びコーナーで竹馬があったから少し練習した 子供の頃父親に作ってもらったが確かそのときは古くなった物干し竿に竹で足場を作って荒縄で結んだ物だったと記憶する しかしちっともうまくならないからすぐに投げた気がする 補助のかわりにバケツを逆さにして即席の発射台としてそこに足場をかけてまずは安定した状態でスタートさせるという父のアイディアがまずかったと今になって思う なぜなら両足をどれだけ足場に載せられるかを我慢するのが肝であり二点しかない接地面をキープするためには重心の移動にあわせて動く必要がありつまり粘っているうちに動きのコツをつかむはずなのである


その仮説を証明するために家族に揶揄されながらも辛抱強くトライしていたら段々と歩けるようになってきた そう思った瞬間に足場を踏み外し思い切り足をくじいてしまった 元々私は内股気味なので歩いているだけでよく足をくじいたが最近はめっきりなかったので久しぶりだったので悶絶して息も絶え絶えベンチまで歩いてしばらくそこから動くことができなかった 隣で妻が「昔の遊びをしていればスマホなんていらない」とか話してきたが無視した そのうちに子供たちが屋敷の二階に上がって窓から手を振ってきたので私も振り返した 手は無事だったのである


足をくじくと言えば私の中ではハウス食品劇場の「愛の若草物語」で長女のメグが意中の人と舞踏会でダンスするが途中で足をくじいて踊れなくなって残念、みたいなエピソードを思い出し当時の私は「足をくじいたくらいで踊れなくなるか?」と不思議だったがその頃は子供で筋肉も柔らかかったからちょっとひねったくらいではなんともなかったのである

寝る前に小説を読んでいる

最近はこれを読んでいる ふたつの小説がおさめられていて後のやつのほうが好きだからそっちを読んでいる 女が布団でゴロゴロしながらあれこれ考えるだけの話だ 主人公が一人称の小説は主に読者の共感を得ることに力を入れるがそればかりでは疲れてしまう 読んでいる小説でも理不尽にキレる主人公に夫が大人しく聞いていておとなしくするのではなく反論してほしいみたいなことが書いてあってそれなどはまさに共感の極地のようなシーンだがつまり私も夫側と同じ行動をとることがありそんなとき妻が大して言い返さない私に腹を立てていることは察することができる しかしその挑発に乗らないのは私にとってのある種の主張なのである ただ小説のほうの「黙っている夫」には共感できない


共感する・しないは割とどうでもいい話でこの小説の良いところは淡々としているところである 前半の小説も似たテイストだが設定として男女が渋谷のラブホテルでセックスしまくるというエキセントリックなもので、そこの辺りが背伸びをしているような自然でないようなかんじがして疲れる もっともそっちは一度読んだ限りなので「背伸び」の小説かはわからない 読んでいる最中に「背伸び」とは思わなかった


私が小説を読むのは寝る前の5分が10分でいくらも読まないうちに眠くなって寝てしまう 眠くないときにも読めばいいのだがブログだのゲームだのと私は忙しいのであった

夜桜見れるかな

帰り道に桜並木の道があるので通って帰ろうと思ったら忘れた 普段のルートではないのである その道は細い川に沿った道であって道も狭く一部コンクリートが剥がれて雨上がりにはそこに水がたまっている 一時期よく通った道だが今はあまり通らない 春になると桜が咲いてそこは地元の桜スポットなのか提灯が下がるようになり歩いている人もいる 私は車なので慎重に人をさけながらそこを通過する それほど人がいるわけでもなかった 人がたくさんいたら私もわざわざ通過しようとは思わなかった 通過するので桜を見るのは一瞬だったがそれで十分だった


昼間は半袖で仕事をするようになり素肌にひんやりとした感覚が心細くて気持ちいい しかしすぐに馴れた いろんな人が髪を切った パーマっぽかった人がストレートになったので指摘しようかと思ったがキモいから止めた 新入社員が私と同じ名字らしい 私とは違う部署だから私の呼び名が変わる方向で調整されているようだ 彼を紹介されたら私は私を呼ぶのだろうか 私の中の何かが誤作動してアプリが起動したりしないだろうか お店の中で妻と別行動をし人混みの中で妻を見つけようとするときにぼんやりしていても妻の顔を発見できるのはなぜなのか 人間というのは意外と強固なのだ だから私の名で私以外の人が呼ばれても「おっ」と思うくらいで済むのである 仮に間違って返事をしても「間違いですよ」と言われれば間違ったと認識するのである 当たり前を噛み締めるなんて「ソフィーの世界」読みたての哲学者の卵みたいですねと言われそうだが痴呆の始まった人が散歩中に迷子になって思考はふつうなのに帰り道だけが出てこないみたいな話を聞くとやはり強固なだけのものなんだと実感する

悔いのない人生のために他人を傷つけていいのか

タイトルのようなことをぼんやりと考えた またその少し前には「自由とはつまるところどの不自由にするか選択できる自由のことである」という定義を自分の中に立てて吟味した どちらも身を入れて考える気にはならなかった 悔いのないというのはずいぶん浅はかというか用法としては「動物園にきた 全種の動物を見て悔いのないようにする」程度のスケールの言葉だと思う 人生に適用するのはちょっと大げさというか笑ってしまう 悔いのないよう慎重を期すよりもタイミングを逃さないために後先考えず飛び込む場面のほうが私の人生には多かった それが大事というわけでなくそうせざるを得なかったのである 客観的に見ればいくらでもやりようがあるのにどうしてもその道でなければならないときというのが過去に何度かあった そうすることで後悔しないことは決してない ああすれば良かったというのは日に何度でも思う 比較的思わないのはある程度物事が思い通りにすすんで気分がカラッとしているときである


どうしても「悔いのないように」という言葉がズルい言葉に聞こえる どこか免罪符を求める言葉に思えてくる 過去が存在する以上後悔が存在しないことはできないことはわかっているのに何かを要求しているのである

CMまたぎって今でも意味あるの?

今は昔とちがって「驚きの理由はこの後すぐ!」と言いながらしれっとCMにいかれてもその間にインターネットで調べれば済んでしまう それなのにおとなしくじっとまっているなんてできない 現に今も「手紙に白紙を入れる理由はこの後すぐ!」とやられたがとっとと自室に戻ってしまった 調べればわかるがたぶん調べないだろう 無理やり起こされた実態のない好奇心なのである


私は昔からこのCMまたぎが苦手で苦手というか足元を見られているようでいい気がしない 「こっちだってお預けくってまで見たかないや」とテレビを消してしまうこともざらである 子供のころ妹の抗議を無視してチャンネルを替えていていいところで戻そうとしたら見事に答えを言い終わった後になっていてめちゃくちゃ怒られたことがある あとクイズ番組で司会者がいちいち解答者の解答を聞いて回るのがじれったくて仕方がなかった 合っているかわからない答えの根拠を延々と聞かされる意味が分からず苦痛だった もっと淡々と答えを流してくれる番組はないものかと思っていたら「世界まる見え」はそういうかんじだったので感動した 今は知らないが昔は「○○の驚きの理由とは!?」とかやっといて次の場面では「なんと○○でした」とあっさりバラしてくれるので余計なストレスを溜めずにすんだ というかそのとき初めて普段のなるほどザワールドとかでストレスを溜めていることに気づいた