意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

切羽詰まった

切羽詰まった顔をした女が子供の貧困について書かれた本を読んでいる 私は電車に乗っていた 私は時間があったからいつもの最寄りの駅ではない別の駅まで行って車を停め電車に乗った そうしたら猛烈にオシッコがしたくなってそういえばこの駅はホームの端にトイレがあると思い至ったのでそこまで進むことにした 私がホームの端にトイレがあることを知っているのは、その駅は学生時代に乗り降りした駅だからだった すると私はきゅうにそこにトイレがあるのか不安になった 私が学生だったのはもう20年も前の話だった 20年もあればそれまでなかった出入り口ができたり新しい駅もできた 公立高校が甲子園に出場してご褒美としてその高校のそばに駅ができたということもあった そこは妻の母校であった 甲子園と駅が引き金になって人気が出て偏差値もぐんぐん伸び、代わりに私の母校は定員割れするようになった 駅も廃止になるかもしれない


女が顔を上げると元から切羽詰まった顔立ちであることがわかった 眉毛にそういう細工をほどこしている 私は朝インターネットで島耕作コラ画像を眺めていたらなんとなく元気が出た 元気がなかったのである 昨夜妻が冷やし中華と鱒の寿司を買ってきたが鱒は一個食べてあげてしまった 食べ出すともっと食べたくなるが近頃お米がお腹に溜まるかんじがしんどいようになった 暑さのせいかしら 代わりに野菜をとるようになった 妻が何を勘違いしたか食卓にかならずサラダを出すようになった 私が「サラダが食べたい」と言ったのを半永久的な宣言と勘違いしたのである 私は農家の倅で野菜はあまり好きではなかった 農家うんぬんは関係ないかもしれないが 漁師の子供が魚嫌いというのを石井竜也が言っていて私もそうかもなと思った 


女の顔はホームベース型で......

冗談を言いながら

要るものと要らないものを仕分けしながら倉庫の片付けをした 汗をかきながら同僚と冗談を言い合った 県外からきている人だがここのところ心を開いてきたように思う 毎日2時間車を運転しながらくるのだ 毎日2時間も運転したらもう遊びでも遠出するのがイヤになるのではないか 大人になって電車通勤するともう進んで電車に乗りたくはなくなる 子供のころは祖父母の家に行くときくらいしか電車に乗らなかったからもうそれは楽しみの象徴だった 関越自動車道もそうである 私の家の近くのインターから登り方面に乗るとまずゴルフの球除けのトンネルがあってしばらく行くとまたトンネルがありその二つ目のトンネルを抜けるともうすぐなのだ そういうわくわくを、最後にかんじたのは何歳だったのだろう 友達だけでもっと遠くの地まで出かけるようになったとき私はもう子供時代には二度と帰れなくなって楽しさの片隅にはいつも寂しさがあった よく首都高に乗ってお台場に出かけた


私は直接倉庫の関わりではないから「捨てちゃえ捨てちゃえ」と勝手なことを言い続けた たまに使えそうなものがあると自分で用意した箱に放り込んだ すると相手はだんだん私の箱についてゴミでもなんでも入れるようになった 「ちょっと待って」と私が投げ返しなかなか楽しい午後のひとときであった 楽しいことはいつまでも続くのだろう

この前のミスデビルは良かった

仕事系のドラマを見ているとこの人たちは一体何の仕事をしているんだというかどう見ても仕事をしているようには見えない 人事部長とプリンを食ったりとかそんなのばっかりである とういか人事部長扮する木村佳乃(逆だった)がふらふらしてばかりでどうやらこの人事部にはとっくにクーデターが起きて佳乃は仕事を干されているようだ その現実を受け入れることができず佳乃は菜々緒を動向を探ることでなんとかアイデンティティを保っているのである そう考えると現実の佳乃は事故にあって植物人間でありドラマはその佳乃が見た夢であるというほうが余程リアルである


私はこのドラマはバカバカしくて好きなのだがこの土曜の回は特に私の好みだった 袴田吉彦はなんとかというチームのリーダーだがチームのメンバーはみんな疲れ切った顔をしておりどこかで隠れて残業をしているのではないかと皆が疑う 主人公は「残業アジトを探れ」と命じられるが残業するためのアジトなんて斬新である 普通は仕事をサボるためのアジトである そしてアジトを突き止めた主人公であるが建物の入り口には監視カメラが設置してあって入れない 監視カメラの稟議がよく通ったものだ 私の会社は一万以上は稟議でよくみんな文句を言っている 本当は五万までいいんだよと言う人もいるがどこかにそれが書いているわけではないから怪しい 袴田チームは監視カメラだけでなく6000万のサーバーを購入している 主人公はサーバーのふりをして木箱に隠れてアジトに乗り込むのだがチームの面々はサーバーにはまるで無頓着で妙である たとえすぐに必要でなくとも6000万の資産が来たら一目拝みたいと思うのが人情ではないか


私が気に入ったのはとにかく善対悪に強引に持って行くところであり木村佳乃菜々緒が捕まって縛り上げられ最後はチャンバラになる 会社の業績があがる前に拉致監禁・暴行未遂でクビであるが袴田チームは一向に構わない風である 結局裏で社長が糸を引いていた風であるが別に裏でなくとも勝手に残業させればいいのではないか 裁量労働とか もっとも袴田は年収200万とかなのかもしれない

書かされている

ブコメ比較 ぶつかってくる人

私というものが一貫性を持って内部に存在したとしても外からの出来事にいくらでも影響を受け形を変えてしまうということをかんじたよ 上記で言えば元々の記事を書いた人の感情というか勢いに引っ張られてしまって同じ風にはコメントできない 人はそれをダブルスタンダードとか言うけれどむしろシングルスタンダードのほうが状態としては例外でありそれは一貫性があるというより思慮が浅いが故にそういう状態を保つことができるのだ とは言うもののそれでは人とのコミュニケーションが立ちゆかないから分野によってはシングルであることを暗黙の了解としてたとえ暫定的であってもいったん自分がそれを表明したらある種の責任を持たなければならない


私は暫定的、と書いたがそれを許容できない人が大勢いるようだ


ネットを閲覧していて自分が死ぬ日をただ待つだけの人が一定数いて戸惑う 例えばその理由が難病であるとか障害だとしたら辻褄が合うが果たして「自分が同じ障害を持っていたら死を待ち遠しく思う」と思っていいのか、むしろそう思うことで彼らの思いを根底で拒絶しているのではないかと思ってしまう あるいは保坂和志が「猫が死ぬのは人間が死ぬよりも悲しい」と言ったこと それらは今の私には理解のできない考えだがいつしか理解し許容できる日がくるのかもしれない


私は自分にしがみつく人は幼稚だと思う 人生とはどこまで許容できるかのプロセスではないかと最近思うようになった

映像

最近映像を撮るようになった そう書くといかにもだが昨日1分くらいベランダで風に揺れる洗濯物を撮影した 近くで住宅を重機で解体するバキバキという音が終始鳴っていてその音も入れたかったがあまり入らなかった 少し前にもじゃばじゃば流れる川を撮影したりした とにかくなんでもない・音楽とかもないプレーンな動きを撮りたかった イメージとしては北野武の映画の間みたいな あるいは小津安二郎とか・と言っても私は小津安二郎は大学のときに東京物語を見たきりだ 見よう見ようと思っても私には映画のハードルはかなり高い 映像は受け身にならなければならないのが気にくわない 同じ理由で音楽もしんどくなってきた 大音量の西野カナとか何の苦行だよと思ってしまう 「明日電話しようかな?」とか好きにしろとしか言いようがない 年をとったのだ 昨日の記事にも書いたが楽しいこと・夢中になることが減ってじゃああとはどうやって生きていけばいいかと思うがそういえばあの後思い直したが好きというのはひたすら私はこれが本当に好きなのかと検証しつづける行為なのだ なぜなら好きとは感覚だから理屈ではなく「腑に落ちる」ということがないから今日好きだったものが明日そうでなくなることもじゅうぶんにあり得るのだ 


ここのところ小島信夫保坂和志もすっかりご無沙汰だがそういえば「寓話」を読んでいたら「モンテクリスト伯」が引用されていている箇所があってそこでいったん中断してモンテクリストを読み始めた モンテクリストを読んだら長い話が続けて読みたくなって三国志を読んだ それっきり寓話に帰ってこれなくなっているが逆に私はその間も寓話を読み続けていることに気づいた

好きだと一生懸命にならないといけないのがツラい

アメトークHUNTER×HUNTER芸人がやるというので楽しみにしていた 録画したものを翌朝見た 期待通りのぶぶんもあったが全体的に盛り上げようという雰囲気についていけなかった セリフの真似は寒かった トーンを貼っている・貼っていないはどうでも良かった 伏線がとうこうも割とどうでも良かった というかひな壇に複数の芸能人が並ぶと「この人はまだあまり喋ってないが平気だろうか」とか心配になって番組に集中できなくなる


しかしここまでケチをつけるとじゃあ自分はHUNTER×HUNTERのどこが好きなのかわからなくなってしまった 私は番組に出ていた人ほどのテンションはない 少し前に幽遊白書の最後のほうが読みたくなって完全版の単行本の最終巻を買って読んだがそんなに面白くなかった 私の感性が変わってしまったのか すると幽遊白書が面白くては読み始めたHUNTER×HUNTERも今は惰性で読んでいるにすぎないのかもしれない


どちらにせよ私には好きだからコンプリートするとか好きだから一生懸命人にすすめるとかいうのがない だからいつも本場の人に触れるとそこまでじゃないのかもしれないと思ってしまう 好きだと寝食も忘れるというが私にはそういうのがなく日が暮れれば腹は減った 結局私には熱量が足りないのかもしれない そういうことにプレッシャーをかんじたりもしたがさすがに今は「こんなもんだろう」と思うようになった 

文章力とコミュニケーション

企業が採用で最重視するコミュ能力 若者の理解とはズレ:朝日新聞デジタル

私の上司の上司は私よりも年下で私の弟と同い年である 仕事で直接関わることはあまりないが大変見やすいメールを書く人である 私は今の仕事でメールをよく書くような業務になったとき仕事のメールというのは馬鹿に言い含めるように書かなければいけないということを思い知った 多少主語や述語が飛び散ってもいいからとにかく○と伝えるべきぶぶんが△にならないよう注意を払わなければならない 私はふだんは大変わかりづらい文章を書いており読んだ人が私の意図を曲解してもむしろ曲解したほうが私の隠された意図なのだみたいな解釈を好む


だから仕事のメールというのはとてもマジメに書こうという気にはならないのだが前述の人は見出しなども大変見やすくつけており、いつだったかの年度末にかなりのボリュームのメールを寄越したときにはよくこれだけの情報量を詰め込んだもんだと舌を巻いた 確かにふざけたメールの人もいて新しい販管システムでこんなに安くなりました! みたいなメールの添付が全然安くなかったり、稟議のコメントをわざと読みづらく文字を並べてむちゃくちゃなロジックを誤魔化したりというのを見かけた それがまかり通るのだから政治のうまい人が出世するというのは一理あるかもしれない


話を戻すと前述の人について私は仕事のできる人と評価しているが多くの人は年齢で見て30そこそこであそこまで出世するのは学歴が良いのと政治がうまいからだと評している 距離が遠いと見えなくなってしまうのが実力というものなのである だから引用の記事について私としてはなるほどと思うぶぶんがあったがコメントにはコミュニケーションとは政治みたいなのがあってそれは距離が離れているせいでそう思うだけでは? と思った