意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

カレンダー

家に帰ると強い風がふいていて窓辺のカーテンが食卓のテーブルまでふくらんで混ぜご飯の桶にかぶせてあったラップを吹き飛ばした 混ぜご飯はご飯に混ぜるだけのやつだが妻は大ざっぱな性分なのでご飯の白いぶぶんと具の茶色がいつもまだらになっていて私はそれを抱えて白がもっと散らばるようしゃもじをぐりぐりする

台所の壁を見やるとそこにかけられたカレンダーもふわっとなっていて私はふと昔バカドリルで読んだ「カレンダーの間に頭を挟まれないよう注意!」というイラストを思い出した ちょうどこんなふくらみに頭がはまり込んで血を流す男性のイラストであった 他には馬の尻尾にカレンダーを結びつけて引っ張ってめくったり薙刀で古い月を切り落とす絵などがあった 全体でカレンダーのめくり方を取り上げているページであった 同じ本の真ん中には「文鳥の握り方」を延々と書いているページもあった


台風がジグザグな雨を降らし帰る直前にざーっときたらすぐにやみ車に乗ったら降ったりやんだりした 家についたらどっちだろうと思ったら「天国・地獄・針の山」みたいだと思った 私の名は6文字だからひたすら針に突き刺されるのであった

パンがなければケーキ

子供が怖い話のテレビを見ていてマリーアントワネットの霊が出るという 私はつい悪い癖が出て知識をひけらかしてやろうと思いマリーアントワネットと言えば「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」のくだりを話そうと思った 昨今のインターネットではマリーアントワネットは悪意を持ってそう言ったのではないみたいな風潮であるが私が初めて聞いたのはもう20年以上前の高校時代でそのときは貴族であるマリーと庶民の感覚のズレと言われていてつまりどちらにせよマリーアントワネットに悪意はなかった


とにかく「パンがなければケーキ」「なんのこっちゃいな」というやり取りをしたかったがふとそもそもなんでパンはなかったのかという疑問が頭に浮かんだ 民衆にパンが行き渡らなかったのは税金なのか小麦の不作なのか私はまったく知らなかったことに気づいた フランス革命ロベスピエールと風呂で殺された人がいるくらいは知っているがフランス人のパン不足についてはノーマークだった そのため子供に背景を説明するときに「パンがなくて」という極めて大ざっぱな言い方になって子供の反応はむしろ「マリーの言い分ももっともだ」というかんじになってしまった


テニスコートの誓い!

サッカー見ようか迷う

3時からだとしたら先に寝て起きるというほうが私としては得意だが暑いのにくわえて眠いのはとてもイライラしそうだ 友人が「有休もとって準備万端です」とラインをしてきたがこの人は確かにサッカーが好きだけど守備範囲は浦和のクラブチームで日本代表は見ないと言っていた気がする ワールドカップは人の主義主張を曲げてしまうのか 私はサッカーのワールドカップは見るけれどオリンピックはほぼ見ないがこの前会社で「東京オリンピックで祝日が移動するのは納得いかない」と言ったらすごく意外そうにされた 私はオリンピックのよく知らない競技でも知ってる風を装わなければならないかんじが嫌なのだ 知っていようがいまいが自国が成績を残せば正解みたいな単純すぎる仕組みもいただけない その点今回のサッカーは始まる前から政治的な働きかけがあったりまたピッチ上の振る舞いについても賛否があがってサッカーじゃないみたいである


ところでいつの間にか変わったのか今回のワールドカップではキックオフのときにセンターサークルにいる選手がひとりになって昔はかならず2人がごにょごにょやっているうちに試合が始まったが今回は違う今までのルールはたぶんボールが相手陣地に入ったら試合開始だったのがサークルからボールが出たら(あるいは選手が触ったら)試合開始でありとにかくどの方向にボールが行ってもOKだからみんな喜んで後ろにパスをするのだ ビデオ判定よりそっちに驚いた

お金の奴隷

録っていたクレイジージャーニーの陶芸の回を見ていたら曜変天目茶碗を再現している人が出ていていかにも気難しい風の人が土をこねくり回していてろくろを回す場面まではスタッフの質問にもむしろ愛想良く答えていたが窯で焼くところまでくるとカメラも取材もNGとなって「せめて小さいカメラだけでも」と食い下がるスタッフに対し「私は研究のためにやっているのであってあなた方を喜ばすためにやってるんじゃないよ」と突き放す その場面を見て私は普段の自分がいかにお金の奴隷なのかというのを思い知った


インターネットを見ていたときに大家族の人のブログでドキュメンタリーを撮りたいと言ってきたテレビ局の人がああしろこうしろと細かく指示を出してきて終いには特定の子供に対しやってもいない悪事をやったことにしろと言われさすがに頭に来て文句を言って企画がおじゃんになったというのを読んだ 曜変天目茶碗を見ながら私はそのブログを思い出したが「テレビ局ひどい」と思う時点でお金というか権力の奴隷になっているとかんじた 私たちのアイデンティティとかプライドとかそういうのがいとも簡単にねじ曲げられてしまうのは何でだろうと思った テレビ局のスタッフは権力の看板を背負ってやってくるから周りが合わせるのが当然だと思っていて当たり前に抗うのにはかなりのエネルギーを要する 私は平然と突き放す曜変天目茶碗をすごいと思うより「この人金持ちなんだろうな」とぼんやり思った


普段仕事をしながらイライラしてイライラした分だけ周りは誉めてくれるがそれでいい気になる私が恥ずかしいなと心のどこかで思っている いったい何をしているときは私は私であることを忘れられるのか

大きな会社・古い会社

昨晩は以前の職場の人と飲んだが最近は飲みに行くこともほとんどないし電車も止まっていると言うからあまり気が進まなかった しかし止まっているのは下り方向で上りは順調だったから何ら問題なく目的地まで行けた 駅までは今の職場の人が送ってくれた(なんだかリレーでもしてるみたいだ)その人の車は3年前からエアコンが壊れていると言い冷房はダメでも普通暖房ならエンジンの熱を流すだけだから使えるのかと思ったらファンが回らなくてどちらも使えないという 窓全開で車は駅へと向かったが風があってそこまで暑くもなかったので「結構涼しいですね」と私は言った 街路樹が結構揺れていて晴れた日の強い風はなんらかの瑕疵のようにかんじてしまう


自分の宣言した時間通りに店につきもう辞めてしばらく経つから知らない話も多いかと思ったがほとんどが知っていた 今の会社に比べたらかなりのんびりしたところだった 新しいシステムを入れたが画面が出るまで1分かかるという話を聞いてどうなんだと思ったが「上が悪いから」という結論だった 上がキックバックを受けて粗悪なシステムを売りつけられたという話になっている やたらと陰謀めいた話の多い職場であった 横のつながりばかりが強く上下には極端な断絶がある 偉くなると急によそよそしくなるのが通例だった 立場が人をつくるというのは結局責任転嫁ではないか 自分がその立場を定義しなければならないのが今の時代ではないか 集合写真で真ん中に写る上司は愚鈍な人が多い という法則を思いついた

ノズル

最近自分のチンコのことを「ノズル」と呼ぶ機会が増えた もちろん個人的に心の中で呼ぶのである 小用を足すときに 洗濯機のホースのように扱っている ところでノズルという言葉が私のイメージするところで妥当なのか調べてみたがきちんと説明されてしまうとかえってわかりづらくなってしまうのである バルブもそうだ バルブはしかし調べたら蛇口のことかと合点した 私は言葉の意味がわからなくなってしまうことがよくある というかそもそも知らなかったのかもしれない バルブなんて私の中ではイエモンの「ワインディングロード」というシングルのB面のタイトルである しかし私はそのシングルを持っていないからどんな曲なのかは知らない ディスコグラフィーでタイトルだけ知った ある種の曲はタイトルだけでじゅうぶんなのだ 例えばあるバンドが好きになってそれまでアルバムでしか聞いたことがなかったときにシングルにしか収録されていない曲があるからシングルを買いあさりそういうときの草刈りしてるかんじが半端ない A面の曲はすでにどこかのアルバムに入っているからそのシングルで得られる効用はほんとうにわずかなはずである だから私は飽きてしまうのである

なぜ駅の券売機は暑くて不快なのだろう

今日は出張だが慣れない土地で切符を買うときふと20代の始めに渋谷駅で切符を買ったときのことを思い出した そのときも今も暑いうえに空気が淀んでいて不快だった そのときはライブをしにきていたので各自が担当楽器を背負っていて今はノートPCを背負っている 奈良時代だったら年貢米を背負っているだろう 火の鳥鳳凰編」でやせ細って餓死寸前の農民が「お恵みを」と来て我王が「こいつはインチキですぜ」と背中に背負った荷物を切ると中から米がじゃーと出てくる しかしそれはお上に納める年貢米で我王は同行していた坊主(名前忘れた)にとがめられる 農民は背中の米がじゃーとなったショックで死んでしまう 我王は自らの行いを恥じせめてお経を上げてくれと坊主に頼むが「こんなところであげても金にならん」と断られる


だから私も背中のノートPCを叩き割られたらショックで死ぬかもしれない 生き死には極めてシンプルだが組織はシンプルさを恥じる傾向がある 私は20代初めのころは今より自由だったのかもしれないが渋谷の券売機にいたのは夕暮れでありライブというのは普通夜にやることが多いが私たちのような弱小バンドは昼にしかライブをやらせてもらえなかった ライブハウスのスタッフは大抵どこでも糞ったれで偉そうだった 今はそこまで偉そうにする人は周りにいないがそれは単に私が年をとっただけなのかもしれない だとしたら年をとることも糞ったれなのである


年をとって徐々に体も固くなって私も朝起きるときに腰が痛くて横向きにしか起きあがれなくなりつつあるがそれは謙虚さを維持する好機なのかもしれない 多くの人はそんなふうな解釈をしないが