意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

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少し前に(^^;)みたいなのがおっさん臭いというのが話題になった そうしたらこの前メールでそういう顔文字を食らった 会社でである ザ・オジサンという人であり静岡に住んでいて嫌みっぽい文の末に顔が添えられている 私の同僚は「板前みたい」と言っていた 確かに角刈りの丸鼻で黒縁メガネをかけ職人のようである 私はムカついたが実際はムカつかなかった そこまでの悪意はなくからかう気持ちもあったと思われる とりあえずスルーはした


友達でそういう顔文字をよく使う人がいてその人は実際でもよく嫌みっぽいことを言って語尾で「アハハ」と「ウフフ」の中間みたいな笑い方をする かつては自作パソコンをやったことがあるとその辺の自称マニアを蹴散らしていた パソコンとサッカーに詳しい人には近づかないのが吉である これらに限った話ではないがやはり何かに深くのめり込むと人格が出てしまうようだ 例え詳しくても「よく知らない」と言うのが吉である しかし自己顕示を抑えられないのも人情である 昨日同僚と転職苦労自慢みたいな話になって相手の言う苦労が私の5分の1くらいだったから「俺なんかその5倍だ」と身を乗り出しかけたがなんとか持ちこたえて「そりゃ大変でしたね」と言うに留めることができ私は自分が人格者になった気がした しかし話を振られたら言ってしまったと思うので単に運が良かっただけだった 確率的人格者である

誰にも言わないで

最近「誰にも言わないで」的な話を立て続けに耳にして注意が必要である 誰を立てるかによって言わないでのゾーンが広くなったり狭くなったりする もう若くはないのでさすがに「孤立しても」とは思えない 10代のころはしょっちゅうそういう覚悟をしていた 実際に孤立することが多かった クラスでイジメを受けてから気を抜くと孤立すると思っていたのである そう思うことがいけなかったのかもしれない 孤立してもそれは自分の感じ方の問題だと理屈で押さえ込もうとした しかしそんなのは無理なのである ここ何年かはしんどくなれば人にも頼れるようにもなってきた 図々しいのは格好悪いがそうしないと死んでしまうかもしれない 年をとったら図々しさか死を選ばなければならなくなる 図々しさは無神経さと言い換えても良い 繊細な人は袋小路にはまる あるいは繊細な人ほど自分のことしか考えないのである そうであれば間抜けな方がずっといい

気持ちも天気のようなもの

私が朝からぴりついていたので周りが少し気をつかっているようだった
「また台風がきているみたいですよ」
なんて言ってきていつでも天気の話は無難なのである 私も「そうなんですか?」と返す 私がそれでもムスッとしたら相当重症だと判断するだろう そう思うと私も台風に気づかってしまう 


夕方くらいに何人かと電話で話したら少し機嫌がなおった いくぶん気持ちも楽になった 同僚と子供の将来の話をした 私は昔アスレチックの展望台のハシゴを子供と上がったら子供が降りれないと言い出し怖い思いをしながらおんぶして下ったことを思い出した 絶対に離すまいと私にしがみつく子供を妻が心配そうに見上げていた 私もハシゴにしがみつきながら足を踏み換えた 片手で子供のお尻を支えなければならないから不安定で仕方がなかった ギブアップしたらクレーンでも登場するのかなとか考えた 風景はどこまでも続いていた もう下の子は生まれていたのか いろんな場所から子供を見下ろしてきた気がする 通じない話をたくさんした 子供は成長し私は老いに向かっている

今日は曇り一時雨じゃなかったのか

洗濯物を中に干してしまった しかし暑いから中も外も同じ気がする 帰ってから取り込んでひと息で畳んでしまった 週明けだからまだ洗濯物は少なかった 朝早くに子どもに起こされたら調子が狂ってしまい弁当を作り忘れた 


保坂和志が川端賞をとったという動画を見てまた小説を書くとは子供のころに植え付けられたら筋道をつけるというのを乗り越えるということと話していて保坂和志の書く行為はそれが確固たるテーマなんだと再確認した 「小説よりも猫が大事」というのも「好きなものに一生懸命」への反骨なのだろう 一生懸命は思考停止であり行為の中身が知らぬ間にすげ替わってしまう装置である 「夢中で」とかも同じだろう だとしたら視界の真正面でとらえるのではなく隅っこでなんとなくとらえる方が行為としては正当なのだ


一方の山下澄人は死でありついに自分も病院で手術するという 少しTwitterを遡ると「死は平等で「ほとんどの人が死ぬ」ということはない」と言っていてなるほどと思った

行きは見つかるが帰りは見つからない道

休みの日はよく買い物ついでにだらだらとドライブをするがひとりで車に乗っていれば冷房も暖房もじぶんの好きにできるから楽だ ドライブといっても自分の家の近所をぐるぐる回るだけだが気まぐれで知らない道に入ったりする 私は元来方向音痴というか熱心に出かけるタイプではなかったので近所でも知らない道がたくさんある 若いころ友達の車に乗っていたら知らない道に入って友達はわくわくしている風だった やがてどこか見覚えのある地点に出たのか
「ここに出るのかー」
と満足そうであった RPGであればレベルがあがった瞬間というかんじである 私も稀に知らない道が不意に知っている道につながることもあるが「へえ」というかんじで何の感動もない というか行き止まりにならなくて安堵する 知らない道に入ると道がなくなることがよくある 妻を隣に乗せているときはよく
「どうしてそんな細い道に入るんだ」
と呆れられた 確かに大通りのほうが表示などもあってわからなくても見当がつけられるから私も細い道は避けたいのだがそれでも自分の意志通りにならない 今日も普通の交差点だと思って曲がったらすぐにセンターラインが消え少し田んぼの中を走ったら集落に入って気を抜くと人の敷地に入りそうでひやひやした 適当なところで諦めてナビを起動したらすぐに止まれがあってセンターラインの道に復帰できた


そもそも私は来た道を反対向きに戻ろうとしていて来たときは堤防の上を越え越えたところに二階建てのビルがあって私はひょっとしたらその建物に来たとことがあるのではないかと疑っていた 来たのは小学校のころで悪友に誘われて鉄条網をくぐって忍び込んだのである びびりだった私は柵の外に出たくて仕方がなかったが悪友は悪だったので許してくれなかった 私は私有地に入るのも怖かったが悪友も怖かったのである なぜそこに入ったのかというと中に池があってそこで魚が釣れたからである 当然人がいないときに忍び込むので一体何のための施設と池なのかそのときも今も知らなかった 悪友は知っていたのかもしれない 池も相当深かったらしいし私はそもそも釣りなんてそんな好きじゃなかったので言われない限りは池にも近づかなかった 悪友が釣りに興じ出すと私はそこをそっと離れ建物の周りをぐるぐる回ったりした 周りは田んぼで何もなかった 裏側には枯れた雑草が生えていて私は「鹿でもいそうな景色だな」と思った


いつからかそこへ行くこともなくなって建物の行き方も完全に忘れてしまった 悪友も小学校を卒業するころには口もきかなくなった 大人になってふとそこに行って一体何の施設だったのか確かめたかったがアタリをつけた場所はことごとく空振りだった ひょっとしたらあれは夢だったのかもしれないと考えるくらいに私は今でも夢見がちだった


ところで昨日家に帰ると妻がいなくて焦った 子供たちは私の実家にいて仕事帰りにそっちに行ったら妻は家に一度帰ったから迎えに行くように指示を受け帰ったら妻の車だけ乗り捨てるように停めてあって家の中は空だった 妻の携帯に電話すると子供が出て「トイレにでもこもってるんじゃないか」と笑われたがトイレにもいなかった 私はひょっとしてどこかの部屋で死んでるんじゃないかと気が気でなくなりつつ全部の部屋を探したがいない 物陰に強盗でも隠れてるんじゃないかとヒヤヒヤした 結局いないのでこれはこれで不気味だと思ったところで義母の電話で妻がかけてきて所在を伝えてきた


今日通った道にここがそうでは? という建物があったが何故かパトカーが停まっていたので近くまで行くのは諦めた もう一度逆方向に通ろうとしたら道に迷った

だから私にお笑いをすすめないでほしい

実家に行ったら妹に「秋山の面白い動画がある」とわざわざURLを送付され私は「やばい」と思ったが案の定ちっとも笑えなかった 妹の中でどうやら私は大の秋山好きとなっているが私は特別好きということはない 確かに少し前に秋山がひとりで七役やるドラマについて妹に興奮気味に伝えてしまったが実際見てみたら抱腹絶倒には程遠く私はついインターネットの熱狂に踊らされてしまったとその後反省した


そもそも私は他人に「面白いよ」とすすめられると身構えてしまうのか笑えなくなってしまう   本当は面白くても「笑うもんか」とこらえてしまうときもある 学生時代に友達が教えてくれた「笑い」は服従のサインというのを真に受けているせいかもしれない

東京ミシュラン24時

集団行動というバンドに「東京ミシュラン24時」という歌があるがよくこの歌詞の内容で1曲になったもんだと聞く度に感心する 内容というのはお店でご飯食べたら美味しかったからまたくるねというものである サビでお店の人と食べた人が出てきて「またくるね」とか「またおいで」とか言ってる ただそれだけである しかしそれこそが私の求めているものの究極的な形の気がする 私は定型とかお約束とかお決まりのパターンとかを嫌悪しておりもちろん頭が疲れたり酔いやすい電車の中で読書するときなどは負担の少ない定型のものを読んだりするがそんな自分も嫌悪する そして歌の歌詞とはだいたい愛か人生が出てきて辟易する あとは聞きかじった哲学めいたものとか 「馬鹿だからよくわかんないけど」みたいな言い訳されると頭を抱えたくなる そうなると残るはシュールさだがこれも「外せばいいんでしょ?」みたいな安易さが見え隠れして苛立つ


ちなみに私は上記「東京ミシュラン24時」をいい歌だとは全く思わないが私が楽しめる音楽とはもうこのような「メッセージ性ゼロ」「冗長性のみ」の歌に限られるのではないかという気がしてくる 一方で楽器の音そのものについてはまだまだなのでインストならばこの先も聞き続けられるが言葉についてはもうダメである この前なんとなく中島敦名人伝」を読んだが私も言葉を忘れる境地までいかなければならないのである その最初のステップとして捨てるべきは「メッセージ」であると「東京ミシュラン24時」を聞きながら悟った


ちなみに「東京ミシュラン24時」よりもさらにスッカスカの歌があってそれはB'zの「ナショナルホリデー」という曲でこれも「国民の休日だから出かけようぜ」みたいな内容で最初聞いたときは「カップリングだからってここまで手を抜くのか」と腰が抜けそうになった ちなみにこの曲はブザービートというドラマの主題歌「イチブトゼンブ」というCDのカップリングで「ナショナルホリデー」を聞いた後に「イチブトゼンブ」を聞くとこっちも雰囲気ほど内容がない気がしてきてB'zは恐ろしいバンドだと思った


ちなみにブザービートというドラマには山ぴーと北川景子が出ていて私はあまり見ていなかったが山Pの敵役として元RIZEのドラムの人が出ていた 最終回が近づいたある日の朝のニュース番組で司会の小倉さんが「このドラマは山Pと北川がキスしまくってる」と興奮気味で語っていてキモかった