意味をあたえる

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兎と亀(3)

兎と亀(1) - 意味をあたえる

兎と亀(2) - 意味をあたえる

亀は、自分は稲子の体が目当てではない、稲子の中身が欲しいんだと主張した。それは周りの者に、亀が稲子に本気で惚れているという印象を与え、一部の者は亀を応援するようになった。いや、一部というよりサークルのほとんどの者なのかもしれない。確かに、ここで稲子と寝てしまえば、稲子にとっての自分の存在はその他多数に埋没する。その理屈は兎にも理解ができた。だが、兎には亀のその行動が妙に芝居がかっているように思え、どうにも気に食わなかった。童貞なのは亀が不細工で女に見向きもされないからなのに、それをうまくごまかし、まるで聖人君子のように振舞う。そんな見え透いた演出に、稲子が騙されるとは思えない。
「部長さんにも話してみましたけど、おもしろそうだ、て言ってましたよ」
かさかさした口元を緩めながら亀が言った。テーブルの上には水のペットボトルが置かれ、中身が半分ほど減っている。不意に亀がそれを持ち上げ口へ持って行った。ペットボトルの表面が亀の手の中でへこみ、光の反射が歪になる。兎は曖昧に返事をした。まだ決闘を受けるとは言っていない。業を煮やした亀は周りから崩していくことにしたのだ。部長にまで知れたのなら、もはややらざるを得ない。この場ではっきりとやらないと宣言すれば、やめることも可能であったが、今更どうでもよくなっていた。どうせ結果は見えている。
「決闘と言っても勝ったら何があるんだよ」
椅子に座り直しながら、兎は聞いてみた。もちろん、勝った方が告白できるんですよ。亀は自分の手の爪を眺めながら当たり前のことのように言った。兎は間髪入れずに身を乗り出し、なんで俺が稲子に告白するんだよ?と問いただした。亀は自分が稲子に対する恋心を高らかに宣言しているが、兎はそうではない。それなのに、勝手に告白をお膳立てされても迷惑以外のなにものではない。一瞬、ぶっちぎりでゴールしてその場で愛を伝える自分の姿を兎は想像したが、それは最悪のシチュエーションだった。稲子の方だって迷惑である。亀は一瞬兎を見たがすぐに目を逸らし「あ、兎さんが勝った場合はちょっと違います」と言った。
「兎さんが勝った場合は、告白するのは稲子さんの方です。稲子さんは兎さんのことが好きですから」
亀は淀みなく言ったが、兎は言葉の意味を認識するのに、何秒かかかった。その間に亀は再びペットボトルを手に取り、キャップを開けて口に運んだ。ボトルは水平まで持ち上がり、亀のしわくちゃの喉仏が、ぴくりと動いた。全てが緩慢な動きだった。あるいはそう感じただけかもしれない。


その2日後に、兎は稲子と居酒屋で酒を飲んだ。学校帰り、電車の中で突然稲子が「シフト入ってないよね」と誘ってきたのである。2人で飲むのはこれで3回目だった。兎は反射的に駅前の2件の居酒屋を思い浮かべ、今日はどっちにするかと聞いた。聞いてからどうでもいい質問をしたと後悔した。稲子はえんじ色のワンピースを着ていた。足元には白い花柄とフリルが施され、ヒールのついたサンダルを履いていた。女だからスカートを履くのは珍しくなかったが、バイトの時のジーンズ姿に見慣れていたため、新鮮な感じがした。地元が同じなのだから、一緒に帰るのは一度や二度ではない。なのに、今まで稲子のスカート姿を見たことがあるか、兎には思い出せなかった。

駅に着き、飲む場所はフローズンのカクテルがあるからという理由で、歯医者の2階にある方の店に決めたが、開店の時間まではまだ間があった。とりあえず改札の目の前にある本屋へ行き、そこで立ち読みに飽きると、東口のすぐそばにある薬局へ行った。薬局はエアコンの効きが悪く、立っているだけで汗をかいた。稲子は化粧水を熱心に選んでいる。店の中から往来を眺めると、高校生が多く目についた。暑さのせいか、半袖のワイシャツをさらにまくりあげている女子もいた。どの子のスカートも短く、自然と足にばかり目が行った。太いのも細いのもあった。ふとレジに並ぶ稲子の後ろ姿に目をやったが、稲子のスカートはふくらはぎのところまであった。兎は稲子が高校時代どんなだったかを想像した。やはりそれほど目立たない生徒であったに違いない。短いスカートを履いて、友人と馬鹿騒ぎしていたのだろうか。その頃から、いろんな男と寝ていたのだろうか。

ようやく開店する時間となり、兎と稲子はまっすぐに店へ向かった。まだ開店準備も終わり切らない雰囲気の中、いちばん奥の席へ案内された。通路の途中で厨房の前を通ると、誰かを叱責する声が聞こえた。兎はなんとなく気後れしたが、先を歩く稲子は全く意に返さない様子だった。平日のせいか、兎たち以外には他に客もいない。

稲子から誘ってきたので、何か話があるのかと思ったが、ビールを何杯か飲み、他の客で席が埋まってきても、稲子はそんな素振りすら見せなかった。兎はひたすらビールを飲み、稲子はモスコミュールを飲んで、テーブルの上にライムの皮を並べた。兎は自分からはあまり話題を振らずに、稲子が喋りたいようにさせていたが、出てくるのはバイトの話と大学の話ばかりだった。少し前からコンビニのゴミ捨て場に廃棄となった弁当を狙って浮浪者がくるようになり、バイトの女の子が怖がっているという話だった。何度かオーナーが注意したが効果はなく、結局ゴミ捨て場の扉に鍵を取り付けることになった。兎も稲子も実際に遭遇はしなかったが、遭遇した高校生の女の子は、びっくりしましたー、と笑顔で語った。
「でもどうせ捨てちゃうお弁当なんだから、少しくらいあげたっていいと思うけどね」
注文したサラダを自分の皿に取り分けながら、稲子が言った。その際プチトマトがトングにぶつかって稲子の皿に転がっていった。稲子はそれを拾い上げると、何も言わずに兎の皿に放り込んだ。稲子はトマトが嫌いなのだ。
「それはダメだよ。お金払って買ってる人が納得しない」
兎が答えると、稲子は「それはそうだけどさー」と口をとがらせ、下を向いてライムの皮をいじくり出した。やがてそれを兎の皿に投げ込んだ。兎が悲鳴を上げると、稲子は大げさに笑った。
「そういえばね、亀君がうちの店でバイトしたいって言ってたよ」
笑いがおさまった頃、突然稲子が切り出した。兎は稲子の顔を直視しながら「なんで?」聞き返した。稲子は興奮を冷ますためなのか、飲み干したグラスの中の氷を何個か口に含み、冷たい、とはしゃいだ。兎の問いに答えようとしたが、きちんと発音できず、それがまたおかしいらしく、口を押さえて必死に笑いをこらえた。兎は辛抱強く待つことにした。待ちながら亀が住んでいる場所を思い出した。亀本人の話によれば、大学から都心寄りに住んでいて、稲子たちの住まいからは逆方向になる。電車で行こうとすれば1時間以上かかるし、そこからさらに距離もある。考えるまでもなく、稲子とバイトをするのは非現実的である。だが、亀のことだから、引っ越すと言い出しかねない。大体甲羅を背負っているのだから、どこでも生活しようと思えばできるのである。鈍臭いくせに、抜け目が無いのが亀なのである。甲羅の中には入ったことはないが、どうせジメジメして不快に決まっている。生まれ変わっても絶対に亀なんかにはなりたくはない。
ようやく口の中の氷が小さくなったのか、稲子が片言で話しだした。やはり兎が思った通り、稲子が距離的に難しい事を口にすると亀は引っ越すと言い出した。
「笑って言ってたけど、なんか変に乗っちゃうと本気でこっち来ちゃいそうな気がしてさ。だから言ったんだ。今はバイトはいっぱいだから、亀君が本気でバイトしたいなら、私辞めるから代わりに入りなよって」
軽く亀をあしらってしまう稲子が、兎は頼もしく感じた。やはり亀には稲子という女はもったいないと思った。そうなると、間違っても勝負に負けるわけにはいかない。

次第に稲子も兎も口数が少なくなった。稲子はうつろな目でメニューを眺めている。もう少ししたら、何かデザートを頼み、それを食べ終わったらお開きとなる。稲子は別にいい、と毎回断ろうとするが、兎は稲子を家まで送り届ける。

稲子が頼んだのはシンプルなバニラアイスだった。ドーム型のバニラをスプーンで少しずつ削りとり、口へと運んでいく。唇の間から出てきたスプーンは、当然のことながらバニラの痕跡がまるでなく、表面から鈍い光を放っていた。ここで何かそれらしい話を向ければ、稲子とセックスが出来る。橘に稲子がサセコだと聞いて以来、兎は稲子と寝ることばかり考えていた。初めて稲子に飲みに誘われた時は、すなわちホテルに誘われたのだと解釈し、コンドームを薬局まで買いに行った。何事も無く、ただ酔っ払って家路についた時は、がっかりすると同時に心のどこかで安堵していた。それは亀と同じように、その他大勢の一人になる不安からだったし、稲子の中でランク付けされてしまうんじゃないかという恐怖だった。

だが、一方で、数日前の亀の言葉があった。兎が勝負に勝った場合は、稲子が兎に告白する権利を獲る。それが本当なら、何もこんなところで悶々とする必要はない。今すぐ目の前の溶けかかったバニラを奪い、稲子を好きなようにしてしまいたい。それができないのは、やはり亀の言葉が完全に信用出来ないからであった。今日も終始稲子の態度を見ていたが、その気があるかどうかは全く判断ができなかった。稲子はただ、バニラを舐めることに集中しているだけだった。

兎と亀(2)

兎と亀(1) - 意味をあたえる

授業が終わると、兎は食堂で昼食を済ませ、そのまま図書館へ向かった。今ラウンジへ行けば、確実に稲子に会えるし、仲のいい人間も何人かいるはずだ。だが、兎は昼休みにはサークルに顔を出さないようにしている。人が多すぎる上に、各自の食器でごちゃごちゃしてるからだ。以前何度か顔を出した時は座れないこともあった。うまく座れても、関係ない学生が後ろを通ったりして、その度に椅子の位置をずらしたりしなければならなかった。

盗難防止のゲートをくぐって、すぐ右側の階段から2階へ上がる。何列か続く本棚を抜ければ、閲覧コーナーがある。10人ほど座れる大きなテーブルがいくつかあったが、男のグループがそのうちひとつを占拠し、騒がしかった。仕方がないので、その奥にある、一区画ずつ仕切られた、個人勉強用の席に腰を下ろした。30程ある席は10ほど埋まっていたが、手ぶらなのは兎だけだった。いずれの机にも、教科書やノートが広げられていて、紙面の至る所が赤や黄色の蛍光ペンで強調され、華やかだった。兎は鞄から「夜間飛行」の文庫本を取り出して読み始めた。

兎は経済学部だったが、経済に対する興味は大学に入って3ヶ月で失った。限界費用曲線を書くときに、自分の書いた曲線が歪で気になって仕方なくなってるうちに、講義の内容がまるでわからなくなった。周りを見回してみると、どの生徒のノートも、同じようなグラフが並んでいた。寸分違わず黒板の内容が書き写されていた。誰も授業の内容を理解していないのは明らかだった。

兎はひとりで読書をするのが好きだった。そんな自分がどうして文学部へ進まなかったのかわからなかった。子どもの頃から本を読むことが好きだったし、修学旅行などのイベントがあった時は、誰に見せるわけでもないのに、旅行記を書いたりした。自分がその時に感じた気持ちをどうにか残しておきたかったのである。だが、そう思うくせに、書いたものを読み返すことはしなかった。そのうち、もっと年を取った時に、懐かしさにかられてノートを開くのかもしれないが、その時は書いたことすら忘れてしまっている気がした。
結局兎が文学部へ進まなかったのは、兎の学力に見合った学校が見つからなかったからである。大して受験勉強もしなかったし、真面目に志望校も探さなかった。とりあえず、夏休み明けに3校に絞り、その学校の過去問題集を買って来たが、いちばんよく目を通したのが、最初の「傾向と対策」だった。過去五年分の受験者数と、競争率の表を眺めていると、なぜか合格したような気になって、それ以上勉強しようという気にはなれなかった。そんな調子で試験を突破できるはずもなく、家に送られてくるのは合格者番号の一覧が載った、薄っぺらい電報だけだった。

親からは進学の条件として、浪人だけはするなと言われていた。幼い頃から「金がない」と言われ続けた兎は、言い返す理由を見つけられなかった。兎の父親は高卒で、地元の自動車の部品工場で働いている。とっとと働いて、家に金を入れてくれ、と言い続けていた。そんな親を説得するのは不可能と考えた兎は、すでに春休みに入った高校に赴き、進路指導室で二次募集の願書をもらってきた。聞いたこともない名前の大学だった。電車も、途中で乗り換えなければならず、駅からも20分歩かなければならなかった。

そのため、なんとか合格したものの周りに同郷のものはおらず、ただでさえ内向的な性格の兎はなかなか大学生活に馴染めなかった。入学と同時にゼミに所属したが、周りは地方から出てきた者ばかりで、話の輪に入れなかった。頭の上の長い耳は他人の会話を聞くためだけにピクピクと動いた。たまたまグループで課題をやることになり、3人の男と話をするようになったが、この3人は時間があれば煙草をふかし、吸い殻をところ構わず投げ捨てた。兎はこの光景を見て、ようやく構内いたるところに清掃員がいる理由がわかった。吸い殻をちり取りにかき込む水色の作業服を見かける度に、兎はすぐに大学なんて今すぐ辞めて、清掃員になろうかと思った。


3時間目の授業が終わったあとで、兎はラウンジへ行った。長テーブルは半分ほど埋まり、一番に奥には、やはり部長が座っていた。部長はもしかしたら授業も出ずにずっとそこにいるのかもしれない。サークルの代表はこういう人間でないと務まらないのかもな、と兎は思った。部長の隣には亀がいた。亀は部長の方に体を向け、しきりに何かを話かけている。稲子の姿はなかった。兎はテーブルのいちばん手前に座った。昼休みの時のように、びっしり席が埋まってはいないので、その気になれば人々の間に割り込んで座ることもできたが、兎にはその勇気がなかった。すぐ隣には一学年上の女の先輩が座っていた。この時間帯は、上の学年の者がいることが多い。おそらく昼まで寝ていたのだろう。この後、4時間目の授業を終えた下級生もやってきて、ラウンジの一角は一日のうちでいちばん盛り上がる。兎は、端の席で周りの会話に耳を傾け、たまに誰かが冗談を言うと、声を出して笑った。兎がここで発声したのは、席につく時にした挨拶を除けば、笑い声だけだった。話しているのは、主に一学年上の先輩で、内容は斜め向かいに座っている坪内という男にようやく彼女ができたという話だった。坪内は眼鏡をかけた痩せ型の男で、カーキ色の無地のTシャツに、ジーンズを履いていた。兎からしてみたら、どうしてこのような男に恋人ができるのかがわからなかった。まあ優しいとかそういうことなんだろう。かえってぱっとしない外見の方が、女からしたら浮気の心配がなくて安心なのかもしれない。

坪内は周りに圧力をかけられ、初デート、初キス、初セックスの状況を吐露していた。おまけによく利用するラブホテルも言わされ、そのホテルのポイントカードを財布から出していた。ポイントは3分の1くらいたまっていた。私もそこ行ったことあるけど、あそこ盗撮してるらしいよ、と奥に座っている女が言った。別の誰かが「やばいじゃん、そしたら駅前のビデオ屋に売ってるかもな」と言って、じゃあこれから探しに行くか、と盛り上がった。

坪内と親しくもない兎にしてみれば、全く興味の湧かない話だった。坪内の照れくさそうにしている顔を眺めながら、坪内の彼女は今ここで自分の彼氏が、コンドームの銘柄や好きな体位を暴露しているなんて夢にも思わないだろうと思った。そう考えると気の毒な気がすると共に、安易な笑いに走る、坪内の周りの者たちが残酷な人間に思えた。さらにそう思いながらも、その場に合わせて笑っている自分は卑劣に思えた。兎はふと、鞄から夜間飛行を取り出して続きを読もうかと思った。だが、そんなことをしたらただでさえ孤立気味の自分が、完全に輪から切り離されてしまう。サークル内に小説を読む人間はいない。だいたい日本語も読めるかも怪しい連中なのだ。そうなると二度と話しかけられなくなるだろう。もう少し待てば、下級生たちも来て、場の雰囲気も変わる。それまではもう少し辛抱しなければならない。兎は尿意はなかったが、とりあえずトイレ立つことにした。荷物を置きっぱなしにしておけば、帰ったと思われないし、席も取られないだろう。

兎が階下のトイレで用を足し、ラウンジに戻ると、兎がいた席に亀が座っていた。亀は兎の姿を確認すると「やあ兎さん、こんにちは」とにやにやしながら言ってきた。硬い甲羅を背もたれにぴったり付け、短い足は椅子から浮いていた。兎は仕方なく亀の向かいに座り、亀の前に置いてある自分の荷物を手前に引き寄せた。坪内たちは違う話題に移っていた。

兎と亀は同じ学年で、しかも一年の時は同じゼミだった。ほとんど会話もしたことはなかったが、目立つ外見の為、お互いに存在は知っていた。プレゼンテーションの授業では、資料の配布に手間取り、話のテンポも悪かった。グループディスカッションでは途中までは一切言葉を発せず、最後に全体の流れを整理し、まとめるような意見を言った。それが兎には、他人の意見に便乗して、周りの印象を良くしようとわざとやっているように感じた。

2年の春に兎がサークルに入ると、亀の方から話しかけてくるようになった。兎が履修科目を選んでいると、亀は取りやすい科目をアドバイスしてくれた。亀は一年の時には登録した50単位全てを取っていた。兎はその半分がやっとだった。サークルの他の連中も留年すれすれが殆どで、そんな中で亀は一目置かれていた。テーブルを囲んで話をしていてもあまり冗談を言わない。聞き手回ることが多かった。

そんな亀が唯一饒舌になる話題があった。それが稲子についてだった。亀は稲子に対する恋愛感情を、本人以外には隠さなかった。1年の4月に初めて出会った時から好きになり、その後の進捗状況は逐一周りに報告された。大抵の者は、男女問わず亀のひたむきさに心を打たれ、亀を応援するようになった。やがて、上級生の何人かが稲子と寝て、稲子が誰とでもセックスをする女だとわかると、そのうちの一人が、稲子とやれるように話をつけてやるよ、と提案をした。だが、亀はそれを断り、同時に自分が童貞であることを告白した。

兎と亀(1)

昔に書いたものを読んでいたら思いのほか面白かったので掲載します 全7回

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兎は焦っていた。亀の要求の意図が理解できなかったからである。亀は薄ら笑いを浮かべながら「決闘」という言葉を口にした。

理解できないのは内容だった。足の早さを競おうというのである。陸上部がロードワークに使用している全長10キロのコースを、どちらが早く走れるのか競争する。高校を卒業して以来、まともに運動をしていない兎にとってみれば、結構な距離だ。走れない距離ではないが、かなりの体力を消費し翌日は筋肉痛になるだろう。だが、相手は亀だ。あんな愚鈍でまぬけで、醜い生物に負けるなんてありえない。おまけに甲羅まで背負っている。何かのハンデキャップなのだろうか。それに引き換え、兎の方は幼い頃から野山を駆け巡っている。地面を蹴り上げる後ろ足は、生まれつき太く、たくましい。昔ほど走らなくなった今でも、足の早さには自信がある。

だからこそ、亀の狙いが読めなかった。言わば、亀は100%負ける勝負を仕掛けてきたのである。兎が油断すれば勝てるとか、そういうレベルではない。スタートして、1分もすれば、200メートルは差がつくだろう。途中でスタバに寄ってお茶をするとか、明らかな手抜きをすれば、亀にも勝機はある。だが、そのような勝利に一体何の意味があるのだろう。確かに、勝負の結果としては勝ちだが、圧倒的な実力差は変わらない。手を抜いた兎は責められるだろうが、だからといって亀がすごい、という風にはならないはずだ。

となると、考えられるのは、無謀なことに挑む姿を周りに見せつけたいということだ。確かに負けるとわかっていながらも、ひたむきに練習に励む姿は、一部の人間の心を打つだろう。ざらざらしてひび割れた亀の顔が、汗と苦痛で歪むと、感動で泣いてしまう女子もいるかもしれない。こういう女は、亀にタオルを渡したり、ハチミツだか梅干しだかを入れた特製ドリンクを飲ませたりするのだ。元陸上部の男子は走る時のフォームを見てあげたり、タイムを測ってあげるのかもしれない。そうなると、兎は亀のこの茶番の演出のひとつということになる。だが、そんなことで稲子の気を引くことなんてできるのだろうか。

大学には3つ食堂があり、一番東側の食堂の上の階のラウンジがサークルの面々が集まる場所だった。階段を登ってすぐそばの長テーブルには、いつの時間も誰かしらいた。座り方にはルールがなかったが、大抵奥の方は古株が座っていた。その日も兎が二時間目の授業の前に顔を出すと、一番奥には部長がいて、携帯電話を耳に当て誰かと話をしていた。部長は大柄な男で、茶髪で肌も黒く焼いていた。そこからひとつ席を開け、女子が4人座り、その中に稲子がいた。稲子は兎と同じ二年生で、稲子以外は一年生だった。兎が声をかけると一年生は「おはようございます」と頭を下げ、さらにその中の一人が「今日は早いですね。授業あるんですか」と声をかけてきた。兎は適当に返事をして、部長の後ろを通り過ぎ、ラウンジの隅の自動販売機でコーヒーを買った。兎は敬語で話しかけられるのに慣れていなかった。確かに学年はひとつ上だったが、兎がサークルに入ったのはこの春からだった。そのため他の一年生と入ったのと同時期で、兎の中では同期という意識があった。それなのに、敬語で話されてしまっては、なんとなく距離を感じてしまう。まだ同学年のものとも親しくなってはいなかったので、サークル内でも孤立しがちであった。
「そういえば兎君、亀君と勝負するんだってね」
そう聞いてきたのは稲子だった。兎はまだすると決まったわけじゃないよ、と答えながら稲子の斜め前に腰かけた。コーヒーの入った紙コップを口に近づけると、音を立ててすすった。コーヒーが熱いからである。
「だけどさ、何考えてるんだろうね、亀のやつ。俺と競争したって仕方ないじゃん」
稲子はなんでだろうね、とおどけた。細い眉毛が上を向き、おでこに皺が寄る。黒い髪は後ろでまとめられ、少し痛んでいる。化粧は薄く、アイシャドウも塗られていないため、子どもっぽく見える。

それ以上話はふくらまず、やがて稲子は隣の女の子と話し始めた。女の子は今日中にレポートを提出しなければならないらしく、テーブルに突っ伏して、眠いーと声を上げた。稲子はもう少しじゃん、がんばんなよ、と励ましていた。来週から前期の試験が始まる。女の子の前にはいずれもノートや教科書が広げられていた。兎はコーヒーを飲み干すと、それじゃね、と立ち上がった。2時間目まではまだ時間があったが、授業が行なわれる6号館までは距離がある。ゆっくり歩けば丁度いい時間に着くはずだった。隣に座っていた女の子がいってらっしゃい、と声をかけた。稲子を見ると、兎が立ち上がった事に気付いていない様子だったが、歩き出そうとすると兎の方を見た。目が合うと、小さく手を振った。兎は横目で稲子を見ながら微笑んだ。

兎をサークルに誘ったのは稲子だった。兎と稲子は同じバイト先であるセブンイレブンで知り合った。セブンイレブンは大学から電車で20分くらい行った駅の東口にあった。一年生の春休みに、店頭に貼られたアルバイト募集のチラシを見た兎は、夕方の時間帯の希望で面接に臨んだ。オーナーからは、男は深夜をやってもらいたいんだよね、と言われた。とは言うものの、深夜のアルバイトの人数は足りているため、とりあえず夕方の時間に入ってもらって仕事を覚える、ということで取ってもらえた。

とりあえず来週の月曜の夕方5時に来てくれ、と言われ行ってみると、オーナーの奥さんがレジを打っており、その隣に女のアルバイトがひとりいた。奥さんは最初の30分で兎にレジの打ち方を教えると、その後はどこかに行ってしまった。仕方がないのでもうひとりのアルバイトにくっついて仕事を覚えなければならなかった。それが稲子だった。稲子は最初にお弁当の陳列を兎にやらせ、そのあとに商品の補充やフェイスアップを教えながら、全体的な流れを説明した。お客がくると2人でレジをしたが、あまり店内が混むことはなかった。兎が一万円札のおつりの札を数えるのに苦労していると、客がいなくなった後に稲子は大笑いした。もうちょっと早く数えられないと、お客さん並んじゃうよ、とレジから千円札の束を取り出すと、指の間に挟んで数えて見せた。細い指が機械的に動く。装飾品は何もなく、丸い爪にも何も塗られていなかった。稲子の手は全体的に小さく、子どものもののようだった。兎は前足が短かったので、札を数えられるようになるまでにだいぶ苦戦した。一枚めくろうとしても、どうしても次の一枚がくっついてくる。束を持っている手をスライドさせてうまくずらせばうまくいく、とアドバイスされたが、そうすると今度は束が乱れ、それを直すのにかえって時間がかかった。ある程度練習したところで、稲子は「まああとはやりながら覚えていくしかないね」と苦笑いした。それからレジで客が1万円札を出すたびに、稲子はおかしそうに兎を見守った。

それから兎はなるべく稲子と一緒に仕事をするようにした。稲子は毎週月曜と金曜にシフトに入っていたので、兎もそれに合わせてシフト希望を出すようにした。たまに、他のアルバイトと重なって一緒になれない時もあったが、大抵は同じ時間に仕事ができた。徐々に話をして打ち解けていくうちに、稲子が同い年で、しかも同じ大学に通っている事がわかった。学区の関係で、小、中学校は一緒ではなかったが、住んでいる場所もそれ程遠くはなかった。稲子の家は、兎の家の裏の国道を挟んだ向こう側の地区にあった。一本奥の道の駄菓子屋には、兎も小学校の頃よく行った。稲子にそのことを話すと、今は潰れちゃってもうないんだよ、と教えてくれた。店主の男がアル中で肝臓を悪くして死んだとのことだった。

兎が大学で何のクラブやサークルに所属していない事を知ると、稲子は自分のサークルに勧誘してきた。何のサークルなのかを聞くと、一応旅行のサークルだけど、ただ飲んでるだけ集まりなんだよね、と答えた。稲子に「お酒は嫌い?飲めない?」と聞かれると、兎は別に普通に飲めるよ、と答えた。酒は、高校時代の友人とたまに会ったとき飲むくらいだった。メニューを見ても何を頼んでいいのかわからず、兎は生ビールばかり飲んでいた。3,4杯飲むと頭が痛くなる。酔って気分が良くなるのは最初の一時間くらいだった。

兎は集団行動が苦手だったが、稲子がしつこく勧誘してくるので、ついにはサークルに入ることを承諾した。稲子は、これで兎君と飲めるね、とはしゃいだ。兎は、そんなに俺と飲みたいの?と聞くと、うん、と答えた。だって兎君おもしろいから、と稲子は言った。

それから2週間後の土曜日に、サークルの飲み会があり、そこで兎はメンバーに紹介された。乾杯の前に部長から加入用紙を渡され、そこに連絡先と名前を書いた。書いた内容を確認した後、部長は「友達とかいたらもっと紹介してね」と言った。

稲子は兎の隣に座り、モスコミュールを立て続けに3杯飲んだ。細長いグラスの先にはライムがついていて、稲子は律儀にそれを絞って飲んだ。稲子はいつもよりゆっくりとした口調で、兎君て彼女とかいるの?と聞いてきた。兔はいないと答えた。稲子はふうん、と興味なさそうに応えた。兎は、稲子さんはいるの?と聞き返そうと思ったが、その勇気が出なかった。周りを見回すと、男は10人くらいいて、どれもみんなお洒落な格好をしていた。兎は自分だけが垢抜けていない気がした。

そのうち奥の方から男の声で「稲子、ちょっとこい」と聞こえてきた。稲子ははいはいはい、と言いながら兎の隣を離れた。兎は話し相手がいなくなり、仕方なくビールをちびちび飲んだ。正面の席の男女は何かをこそこそ話していた。稲子がいた席の反対側の男はすでに酔いつぶれていた。全体的に話し声が大きくなり、いろんな声が混じって聞こえた。兎は時計を見て、いつ会が終わるのかを考えた。あと30分もすれば帰れるのだろうか。

気がつくと稲子が座っていた席に男が座っていた。男は煙草を吸いながら膝を立ててで座り、兎が見ると、ども、と挨拶をした。橘と名乗り、学年は兎と一緒だった。橘は目は細く、髪にはパーマを当てている。しばらく雑談をした後で、橘は兎に「で、兎さんは稲子とはもうやったの?」と聞いてきた。

兎が意味がわからず、橘の顔を見ていると、橘は、あれ?知らないの?と兎の顔を覗き込んだ。右手に挟んだ煙草の先から、煙が無防備に立ち上っている。
「稲子はサセコなんだよ。死ぬほどセックスが好きで、誰とでもするの」

〈続く〉

トイレットペーパーホルダー

家のトイレに入ったら妙にトイレットペーパーホルダーが黄ばんでいて気になった 二階である 日光で日焼けしたのかと思ってまじまじ見たが焼きムラがあるわけではなくおそらく最初から黄色っぽいのだ 今日の今日までそんな色をしているとは気づかなかった 私たちの認知とはなんなのだろう 外にでたらタンスの段数だって正確には言えないだろう 上半分が私で下が妻である 私の引き出しの奥には娘がサンタさんに出した手紙が隠してあってそういやホームランバーをもらった年があったが今年の夏に初めてそれが溶けていることに気づいた もう何回も溶けたり固まったりを繰り返したはずである 夏は暑いしましてや二階だから溶けるのは必然なのにこの前までそのことに思い至らなかった 一体私は何をかんじながら生きているのか この前上司に「君は自分にしか興味がないからなあ」と言われた 会社の前を毎日同じ時間に通る中年の女がいて言われるまで私がそのことに気づかなかったからである 確かに毎日通るなら気づきそうなものである しかし私だってたまに朝に通る幼い女の子の三人姉妹を知っている幼稚園の制服を着て父親に連れられているのである 父親もグレーのスーツを着ている 確かに私は内面が好きだから外からの刺激は少なくて済むのかもしれない 妻は逆だから日が暮れてからイオンに出かけた

ドラえもん

私が子供の頃はまだ漫画って子供のものという意識があって例えば大人がジャンプを電車で読んでいると年輩の人がそれを見て嘆くみたいな文章があった インターネットもなくて個人同士が断絶され大人と子供も断絶されていたのだ だから漫画を読んでいるときに「いつか読めなくなるんだな」と漠然と思っていた 大人は日経新聞か小説かポルノ小説あたりを読むのだと思っていた そんな私を変えたのは課長島耕作だった、、、

ハイヒール

ハイヒールを履いた女性が前を歩いていて右足だけがかぽかぽしている 足があがるたびにかかとが露出し着地すると靴内におさまる そしてヒールのぶぶんが外側に向けて傾くのである 左足はそうはならないから不思議だ 足の仕様なのか歩き方のせいなのか それを見て私は時代遅れだと思った ローファーを履いた高校生の方がよほど○○である ○○に入る言葉が思い浮かばなかった

アップルウォッチを買ってもSuicaは入れない

上司がアップルウォッチを左手首にはめているが改札を通るときにいちいち左手をたすき掛けみたいに斜めにしてかつひねりを加えるポーズがダサいのでアップルウォッチにSuicaを入れるのはやめようと思った 私はアップルウォッチを買おうと思っているわけではないが 改札を通るならせめて右手にはめた方がいいのではないか あの体勢で改札を通り続けたらやがては左右の腕の長さが違ってしまうのではないかと心配になった