意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

十字路(15)

卒業シーズンだからというわけでもないだろうが、高校時代からの仲間の1人が就職することとなった。それじゃあお祝いでもしてやろうということになり、仲間5人で集まって飲み会を開くことになった。場所は笠奈とも何度か行ったことのある居酒屋だった。そういえば、最近は笠奈とばかり飲みに行っていて、それ以外の友人とは会ってもいない。5人のうち2人は卒業と同時にきちんと就職して働き出した。やっぱりそのお祝いということで、3月に集まって飲み、それから夏前に一度集まった。その時には、就職組と非就職組には何かしらのオーラの違いが滲み出ていて、真っ黒い髪が、カブトムシの背中の殻を連想させて重厚感満載だった。そのせいなのか、飲み会での話題は、就職組が主導権を握る時間帯が多く「とにかく忙しい」「学生時代とはまるで違う」「お前らはのんきでいいよな」等の月並みで退屈な言葉を浴びせられた。見下している様子がありありと伝わってくる。。別に真面目に働いている奴が偉い訳じゃないだろう。そう言い返したかったが、そんなのは詭弁もいいところなので、トイレに言った時に酒臭いため息と同時に吐き出すに留めた。
結局境遇の違いによって、私達の友情はもろくも崩れ去った。というわけでもないだろうが、なんとなく疎遠になってずるずるとここまで来てしまった。たまにメールはするから、実際に溝ができたというわけでもないが。
だが、久しぶりに会ってみると、それぞれの状態は微妙に変化していた。生きているから当たり前なんだろう。前回非就職組だった3人のうち、1人が就職を決めたことは今回の飲み会の目的であるから知っていたが、さらにもう1人もひと月前からハローワークに通うようになり、先週1社面接を受けてきたとのことだった。
逆に就職組の1人は、圧倒的な拘束時間及び上司・同僚の苛酷なプレッシャーのお陰で心を害し、今は仕事をやめて家で療養している。今でも3日に1度は朝目が覚めると、部屋の中がぐるぐると回って吐き気をもよおし、起き上がることもままならないと言う。確かに以前より頬がこけ、顔色が悪い。誰かのギャグに突っ込みを入れる時に見えた、手の甲に浮いた青い血管が痛々しい。
1年程前は就職・非就職という二極構造であった我々のステータスも、今は就職予備軍、元就職組と多様化し、一筋縄でいかない世相を象徴していた。そんな中で、私だけが何の変化もなくのほほんとしている。変化がないのは死んでるのと同じ事だろうか。厳格に言えば、同じ会社で働き続ける事も、変化がないと言えるかもしれない。が、私のとは完全に質が違う。彼の場合は比較的波風の少ない沖に船を浮かべ、どちらを向いても水平線しか見えないと言った具合の変化なしだ。船は日々進み、どこかしらへは向かっている。私は陸地でくすぶっているだけだ。塾で9歳も年下の女の子と接するのが楽しいとか、人生の彩りはそれしかない。「どう最近?」と聞かれても「相変わらず」としか答えようがない。本当は私だって事件や心境の変化くらいあって、思わず笑っちゃうエピソードだってひとつくらいあるが、そんなのはあまりにスケールが小さくて、とても話そうという気にはなれない。
自然と私は口数が少なくなり、手持ち無沙汰になったので、ジョッキについている水滴を眺めるふりをしながら笠奈の事を考えた。笠奈は今、日本にいない。笠奈と私の物理的な距離を認識すると、記憶の中の顔やシルエットがぼやけてくる。笠奈の目が一重なのか二重なのか、本当は一重なのに化粧テクニックで二重っぽく見せてるのか、とか履いているスニーカーはアディダスなのかコンバースなのかそれとも膝下まで隠れるブーツなのか、いやそもそもそんな事に注目してたっけ?みたいな。
私はなんとかそれらを思い出して、笠奈を頭の中で100%の再現を試みて、もしそれがうまくいかなければ、笠奈と付き合う資格なんてない、と自らを追い詰める。笠奈は私と話をする時、どんな声を出すか?定番のセリフは?
何もかも、満足な解答を出す事ができない。惨めすぎる。ぬるくなったビールを喉に流し込み、橙色の照明をぼんやり眺める。かつて笠奈とここへ来た時は、もっと入口側の席で、今見ている照明の3つ先のブロックだ。
笠奈に会いたい。笠奈に会って、顔とか目とか足とか指先とか声とか性格とか、そういうのを脳の未使用領域とか全部フル回転させて、前頭葉の芯の部分に刻みつけてしまいたい。なんなら二の腕に笠奈の似顔絵を掘っちゃってもいいくらいだ。だから、今すぐこの場に現れてくれ。生き霊でも構わないから。
私は自分にしか聞こえない声で「会いたい」とつぶやいた。間の抜けた情けない声だった。目の前では4人の男たちが、大盛り上がりしている。誰かのカクテルに、別の誰かが鶏の唐揚げを放り入れ、大騒ぎしている。そんな喧騒に紛れる事もなく、私の声はしっかりと耳に届く。当たり前の事なのに、世紀の大発見のような新鮮さを感じてしまう。
飲み会はそれから2時間程続き、私もそれなりに盛り上がってはいたが、頭の中では完全に別の事を考えていた。

笠奈が日本に帰ってくるまでに、私は一度ハローワークへ行ってみた。何しろ混んでいる場所だった。ほとんどは私よりも年上で、私の親くらいの年代の男女も少なくなく、それだけで場違いな気がした。乳児を抱いた女もいて、案の定その赤ん坊は、自分の存在意義を示すみたいに泣いていた。形容するなら、病院の待合室のような風景だった。様子見と決めて行ったので、私は何枚かの求人票を見ただけで、結局登録もせずに帰った。玄関の灰皿の前には、顔中シミだらけの男がタバコをくわえながら、手ぶらで駐車場へ向かう私の事を眺めていた。

私が聞かされているのは、3月いっぱいは笠奈の代わりにミキちゃんを見て欲しい、というところまでだったので、実際笠奈が何日に帰ってくるのかは知らなかった。なので、3月最後の土曜日に笠奈から電話がかかってきて、今夜飲もうといきなり呼び出された時には、状況が飲み込めなかった。一瞬本当に生霊を呼び出したのかと思い、着信拒否しそうになった。笠奈は既に水曜日には日本へ帰っていた。
「だったらその時にひと声かけてくれれば良かったのに。いきなり呼び出すなよ」
「だって色々やることあったんだもん。もし暇だったら、て感じだから、用があるならまた今度でいいよ」
もちろん私の中では”行く”という選択肢しかない。
笠奈は若干肌が荒れてる事を除けば、特に変化はなかった。ホームステイとは何をするのか私には想像がつかないが、笠奈はすっきりした顔をしていた。一ヶ月前の受験のストレスから完全に解放され、リフレッシュしてきたように見える。
向こうでのエピソードをいくつか話してくれたが、私がそっち方面に興味のないせいか、話の要領すらつかめなかった。まあ、でも楽しかったらしい。
乾杯をした後に、笠奈はバッグから小さな包みを出して「お土産」と言ってくれた。開けてみると、見た事もないキャラクターのボールペンだった。白熊をモチーフにしてるようだが、目がランランとして、手足が異様に細い。笠奈のセンスを疑いたくなるくらいの安っぽいデザインだ。私が何も言えないでいると笠奈は「あんまし荷物増やせなかったからさ」と言い訳した。
最初は戸惑ったが、笠奈とのやり取りは徐々にいつもの調子を取り戻していった。笠奈と飲むのは三ヶ月振りだったので、安心した。だが完全にリラックスしているわけではなかった。帰り道に、笠奈に自分の想いを伝えようと決めていたからだ。そのため、心臓の一部の筋肉が冷えて固まったような感じがして、鼓動が乱れ、どれだけ酒を飲んでも酔えない。そもそも酒の味がしない。
もちろん笠奈にそれが伝わる事もなく、笠奈は上機嫌に「久しぶりだね。髪伸びたんじゃない?」と私の髪を引っ張ってきた。生きているんだから髪くらい伸びる。ミキちゃんの話しも少ししたが、茶髪の件は伏せておいた。
少し別の話をしていたが、再び旅の話に戻り、そうそう、と言った感じに笠奈はバッグから写真を取り出した。
空とか草とか家とかアメリカ人とか、ただの旅行風景の写真だった。特に面白みがないが、日本との違いに驚いて見せ、笠奈を喜ばせてあげた。笠奈の写っている写真も何枚かあり、笠奈ははっきりとわかるくらいよそゆきの笑顔を見せ、それだけはおかしくて仕方がなかった。怒るだろうから、声に出して笑ったりはしない。こんな女でも、ちゃんとTPOをわきまえるのだ。もっと色んなシチュエーションの笠奈が見たくたる。
写真の中には、一緒にホームステイしたと思われる日本人が何人か登場したが、1人頻繁に出てくる女の子がいた。彼女だけのパターンもあったし、笠奈とのツーショットや、外人と写ってるのもある。誰かと聞くと「ルームメイト」と教えてくれた。真ん中で分けられた黒くてストレートの髪は、両サイドの肩にかかり、笠奈よりも雰囲気が大人っぽくて品がある。肌は浅黒く、開かれたおでこには、いくつかニキビができている。それに対応するようい、笑顔の隙間から覗く歯が白い。鼻も高い。
私が一通り写真に目を通して返すと、笠奈はその内の1枚を選んで、テーブルの真ん中に置いた。正確に言うと、サラダの大皿と私の小皿の間だ。笠奈とルームメイトの2ショットだ。
「その子、瀬田さんて言うんだけど。今ね、彼氏いないんだって。そんで、君の話したらぜひ会いたいって。なんか独特で面白そうって言ってて結構盛り上がったんだよ。良かったら今度、会ってみない?」
私はゆっくりとビールを飲みながら笠奈を見て、それから再び写真の中の瀬田さんを見てみた。かわいくないことはない。その隣に写っている笠奈の顔も見てみるが、ちょうど照明が反射し、光に塗りつぶされてしまっている。どうしてこうなった。意味がわからない。瞬間的に”瀬田さんと付き合う私”を想定してみるが、なかなか悪くない。正直私にはもったいないくらいだ。こんな可愛い子を、大した苦労もせずに付き合うチャンスを得られるなんて、超ラッキーだ。そうじゃない。瀬田さんは確かに可愛いが、私が求めているのは別のことだ。
「この人に?会うわけないじゃん」
「なんで?」
私の言い方に、笠奈は明らかに不快そうにした。瀬田さんの容姿を非難してると受け取ったのだろう。トレードマークのファジーネーブルを持つ手に力が入っている。
「なんで?俺が好きなのは笠奈だから」
何当たり前のこと聞いてんの?というトーンで言ってみた。笠奈の目を見て、ゆっくりと落ち着いて伝えたつもりだが、笠奈にどう見えたかはわからない。視界がどんどん狭くなって、それに合わせて笠奈の顔も縮んでいく。小さくなった笠奈の顔の中で、目が大きく見開かれている。
「ていうか。今、なんて言ったの?」
「好きだと言った。愛の告白」
笠奈が目をそらす。それが、結末を暗示しているみたいで、心臓が押しつぶされそうになる。笠奈は口が半開きになっていて、何度か瞬きをした。そして肘をついて、両手で顔を覆ってしまった。指の間から、茶色い髪の毛がはみ出ている。
「どうして」
かすれた声で笠奈がつぶやく。どうしてって、好きになるのに理由なんかない。私は律儀に答えそうになるが、口をつぐむ。これは独り言で、何にせよ今はこちらから言葉を発するべきではなくて、ひたすら笠奈の返事を待たなければならない。私は草むらの影で獲物を狙う肉食獣のように、息を潜め、髪が絡まった笠奈の指先を見つめている。爪には何も塗られていない。アメリカに言ったらマニキュアを塗るのが面倒になったのだろうか。徐々に気持ちに余裕が生まれてくる。考えてみれば、もうこちらは言うべき事はなく、あとは待つだけなのだ。笠奈の方が、頭をフル回転させて、発するべき言葉を組み立てなければならない。
「彼氏いるって、言ったよね?」
「うん。でも、そういうのって関係ないんじゃない?」
「そうだけど」
笠奈はため息をついた。動かしているのは口だけだ。気のせいか、さっきより鼻が赤くなっている。ひょっとして泣いているのかと思い、慎重に首を動かして、目尻を覗きこむが、泣いてはいない。
ともかく、私の言葉を受けて、笠奈はハッピーにはならなかったようだ。だんだんと、笠奈を苦しめているような気がしてくる。苦しんでいるのは何故か。おそらく、私とのこの関係が終わるからだ。気軽に声を掛け合える飲み友達。夏になったら、また悪乗りしてお台場にドライブする。しかしそれは、友達だからできたことだったのだ。私は、笠奈のことを好きになってはいけなかったのだ。
ごめん、と言おうとしたタイミングより一瞬早く、笠奈の次の言葉が発せられる。
「私の彼氏って、誰だか知ってる?」
「知らないよ」
「君も、知ってる人だよ」
そう言われて、塾の男講師の顔が次々と頭に浮かぶ。私と笠奈の共通の知人なんて、塾の中にしかいない。可能性が高いのを3人に絞り込んだ。試しに「葉山?」と聞いてみる。

兼山さんだよ。笠奈は手を下ろし、真っ赤にした目をこちらに向けながらそう言った。

十字路(14)

3月から笠奈のアメリカへのホームステイが決まり、その間、ミキちゃんの授業を見ることになった。笠奈も受験生を受け持っていたが、その生徒は2月の末には第一志望に合格した。笠奈は、誰からも無責任な女と後ろ指をさされる事なく旅立って行った。もしその子が受験に失敗し、二次募集の学校を探さなくてはならない状況になったとしたら、笠奈はどうしたのだろう?でもそんなことは、初めから起こる可能性ゼロ、と言った雰囲気だった。世界は笠奈を中心に回り、そして笠奈は胸を張って自分の夢をひとつ叶えた。
私は、笠奈のホームステイの話を本人ではなく、兼山の口から聞いた。来月ひと月笠奈いないから、ミキちゃんの講師を頼む、という業務指示の中で。私が事情を聞こうとする前に、大学の授業でホームステイするらしいよ、ボストンだっけかな?とご丁寧かつ簡潔に教えてくれた。当然私としては、そんなことを兼山の臭そうな口から聞かされるのは、愉快なはずもなく、同時に私が全く知らない笠奈情報を、兼山が保持していることに無性に腹が立った。確かに、重要度で言えば兼山の方が上だが、つい3日前にミキちゃんの授業後に笠奈とは顔を合わせている。何故その時に教えてくれないのか。
答えとしては、それは2月の寒さのせいではないだろうか?流石にこの寒さでは、夏の時ようにいつまでも外でだべってはいられない。それでも私は例え5分でもいいからみたいな素振りを見せるが、受験のストレスもあるのだろう、笠奈はほとんど喋りもせずに建物へ入ってしまう。口を開いたら、そこから体の熱が逃げるからとでも言いたげに、唇を内側に巻き込んで口を結んでいる。私は笠奈に素っ気なくされて傷つくのが嫌なので、もう最近では笠奈を押しのけるようにして、先にドアを開けるようになった。なので笠奈としても、ホームステイの件を切り出すタイミングを完全に逸していたのかもしれない。
て、冷静に分析してどうする。
とにかく笠奈は私に何も言わずに、国外へ消えた。残された私は、ミキちゃんの授業のコマ数が増え、だがつい先日1人生徒が片付いたところだったので、かかってくる物理的負担はなにも変わらない。それなのに、何故か違和感のような、心に引っかかるものを感じていた。
最初はそれを、笠奈に何も告げられなかったショックの余波で、なんでも特別に見えちゃうせいだと思った。しかし、何日経ってもその感覚を拭うことができない。そして3回目の授業でようやく気付いた。ミキちゃんは髪を染めていた。
後ろ髪を2つに分けて縛り、ハタキの先のようになっているミキちゃんの髪が、ほんの少しだけ茶色くなっている。よくよく見なければ気付かない。指摘しても「蛍光灯の加減」とか反論されれば、納得してしまう程度の色合いだ。だが、一度そうとわかってしまえば、受ける印象はまるで変わる。
他にもまだ発見していない変化があるのではと、漢字テストを解かせている隙に間違い探しでもするみたいに、注意深く観察するが、他に変化はないようだ。耳にも穴は開いていない。
態度も以前と変わらない。私が文系科目を担当することを伝えると「さて、笠奈先生よりうまく教えられるかな?」とからかってきた。「言っとくけど文系はスパルタでいくからね」と脅すと、わざとらしい悲鳴をあげた。そういう受け答えの中に、ミキちゃんの私に対する好意を感じる。もはや私の中では、友達と話をする時となんら変わりがない。ミキちゃんとの授業の時、私は意味もなく早目に来て、テキスト等を机の上に並べる。それから今日はどんな話をしようかとあれこれ妄想を巡らす。無駄な時間を減らして、この中学生との時間を可能な限り有効活用しようという魂胆だ。
では、ミキちゃんが髪を染めた原因はなんだったのか。彼氏?家庭?色々ありすぎて、見当がつかない。今まで聞いたミキちゃん情報は、全て事の真相を隠すためのカモフラージュに思えてくる。そもそもいつから染めていたのかもよくわからない。おそらく今月に入ってからだろう。笠奈が見たら、すぐに気付くはずだ。その事を笠奈が私に報告するかは不明だが、ミキちゃんの立場で考えると、笠奈には見られたくないんじゃないだろうか。なんとなく。
まあその仮説が合ってるかはともかく、今更それを指摘するのはいくらなんでも間抜けすぎる。ミキちゃん本人からも、言う気配はないので、触れないほうが無難かもしれない。
そもそも今時の中学生は、髪ぐらい普通に染めるのかもしれない。軽く色を抜くのはおしゃれの定番で、事なかれ主義の腰抜け教師どもも、金とか赤にならなきゃあえて注意もしないのだろう。ミキちゃんだって彼氏がいるのだから、少しでも自分を魅力的に見せようとした結果の行動なのかもしれない。そう考えると微笑ましく感じる。サッカー部の単純で鈍感な彼氏はなかなか気付いてくれなくて、ミキちゃんはイライラしつつも、気持ちのどこかでかわいらしいとか思ってしまう。もちろん彼が実際に単純で鈍感なのかは知らないが、男は大体そういうものだ。
私はふと、ミキちゃんと彼氏はセックスをしているのか、という疑問を抱いた。全く見当もつかない。だが、そういうのとは無関係に、服を脱がされるミキちゃんが頭の中に展開される。ベッドの上で、薄い黄色のトレーナーを脱いで、下着があらわになる。が、それがどんな柄でサイズなのか、うまく想像できない。そもそもミキちゃんはブラジャーをつけるのか。胸の大きい子はしているだろうが、ミキちゃんは小柄で、だぼっとしたトレーナーをかぶってしまうと、胸の膨らみなんてほとんど確認できない。ミキちゃんの体型は笠奈とほとんど変わらない。小柄で、手足と首が細くて子供っぽい。だが笠奈は間違いなくブラジャーくらいするだろう。そうすると、ミキちゃんだって、付けててもおかしくない。でもフリルがついたりワイヤーの入った本格的なものではないだろう。ならば、スポーツブラのようなものなのか。だが、スポーツブラに茶髪なんて、ちょっとミスマッチだ。セックスでミスマッチはいい刺激だし、別に何かが悪いわけでもない。しかし私の想像はそこでしぼんで、ミキちゃんの裸とか性器とか、そういうところまで行き着かなかった。
というわけで、私はミキちゃんの茶髪には触れず、また欲情することもなく、健全に日々の授業をこなして行った。

十字路(13)

笠奈はクリスマスは家族と過ごすらしい。結局クリスマスの話題になって「どこでデートするの?」と聞いてみると、その日は母親の仕事が遅くなるために、代わりに夕飯を作らなければならないとのことだった。でもそれは、クリスマスイブのことで、だったらクリスマス当日という代替日というか本命日があるわけだから、じゃあそっちは?としつこく聞くと「まあ仕事なんじゃない?」と他人事みたいに答えた。笠奈の彼氏が社会人だということは既に知っている。ここで私が新たに入手したのは、彼氏Xは仕事に熱心な男であるということだ。笠奈は相変わらずこの話題になると口数が少なくなるが、私は掠め取るように少しずつ情報を集め、外堀は徐々に埋まりつつあった。埋まりきったところで何が起こるわけでもないが。

受験が目前に迫ったということで、私のメインの生徒も多少の緊張を見せていた。普段よりも口数が少なく、そのため授業に入るまでの時間が、やけに気まずいものとなる。だが、授業に入って少し経つと、いつもの感じになり、どうやら彼の体が固くなっていたのは周りの雰囲気にのまれただけだということが、なんとなくわかった。宿題の指示を出すといつものように、机に突っ伏して悲鳴をあげる。少しくらい緊張してほしいが、まあこれでいいような気がする。年末の模試でも、志望校は安全圏の端っこの完全セーフゾーンに星をつけ、こちらからしたら張り合いがないくらいだった。こうなったら風邪の予防策とか、そういう事を大真面目にレクチャーする方が余程有用な気がする。
それでも一応は"油断禁物"をスローガンに何度かやらせた過去問を再び解かせたりしたが、結局は全てが水の泡になった。1月後半の推薦入試で、あっさりと合格を決めてしまったのである。推薦入試には筆記はなく、内申点と面接で合否が決まる。もちろん合格したのだから、嬉しくないはずないが、私の実感としては、この半年強の期間が全て徒労に終わった気がし、ここまでの授業料を払った親も、さぞ無駄金を払ったと苦笑いをしてるのではと、余計な気を回した。もちろんそれは結果としてそうなっただけだし、内申点は普段の成績で決まるのだから、塾で教える行為全てが無駄とは言い切れない。そうやって冷静に分析して、沈み込む気持ちを下支えしても、思ったような効果が得られない。苦労の先になんとか手にする目標が、横からひょいと持っていかれたような感覚があって、私の中で腑に落ちない。もちろん講師生徒の中には、半ばノイローゼになっている者もいて、ノート問題集に覆いかぶさってる後ろ姿を見たら、そんなことは口には出せない。
先に親から報告を受けた兼山は、完全に私達の事を野放しにしていたくせに、自分の子どもが合格したかのように笑顔満面で喜んでいた。それを弾みにして他の生徒の合格も勝ち取ってやろうという意気込みが垣間見え、私は心底うんざりした気持ちになった。ノートパソコンの脇に置かれた二つ折りの携帯電話には、御守りのストラップがついていて、私は意味もなく「兼山さんでも神頼みですか」とつっかかりたくなる。まったくわけがわからない。
というわけで、私は1人の生徒の進路を無事決めてお役御免となったわけだが、1月分の授業を、あと1回しなければならなかった。月途中にやめることはできない、というかただの金の問題だ。そういうことなら適当に理由をつけて休めばいいのに、どういうわけか律儀に時間通りやってきた。こんな時は私の方も中学3年間の総復習とか、または古代エジプト人の0大発見エピソードを披露した方が良かったのかもしれなかったが、馬鹿馬鹿しすぎる。素直に「お前なんで来るんだよ」と言ってやった。生徒も「だって行けって言うからさ」と頭をかきながら笑っていた。その瞬間の少年ぽさを見た時に、ふと今日が終わればもう二度と会うことはないだろうと思い、その寂寥感が心地よかった。入口そばの机には兼山が座っていて、そんな私たちのやり取りを眺めていたが、立ち上がって、おめでとうがんばれよみたいなどうでもいいことを言って生徒の肩を叩いた。おかげで私がそんな事を言わなくて済むような気がして、私の気持ちは軽くなった。
席に着くなり「そういえば、お前って彼女いるんだっけ?」と聞いてみる。もし「いない」という返事だったら「好きな人は?」とたたみかけるつもりだった。生徒は「いるよ」と答えた。2年の終わり頃から付き合っているそうだ。その辺りの説明をする時に、躊躇する様子はまるでない。のろけているという感じもなく、淡々と私の質問に答えていく。写真とかとかないの?と聞くとポケットから携帯電話を取り出し、電池カバーを外して、裏側に貼ってあるプリクラを見せてくれた。ショートカットで少しぽっちゃりしていて、あとはシールが小さくて印象がよくわからなかった。「かわいいじゃん」と言うと「そこそこ」と返ってきた。
「高校は?」と聞くと、別々の学校へ進学するらしい。彼女の方は隣町の女子高を志望している。「一緒の所行かないんだ?」と聞くと、本人もどうしてこんなことになったのか事態が飲み込めないような顔をして「行かないんだよね」と答えた。私も「まあ女子高ならな」とおそらく見当外れなコメントをした。
「だからさ、今度の卒業旅行が最後なんだよね」生徒が言った。
私たちの机の上には、さっきの彼女の写真がカバーの内側に隠されている携帯電話しかない。私も今日は完全に無気力全開で、問題集を端っこに置くような”勉強してます的な演出”すらしなかった。携帯電話はメタリックブルーのカラーだったが、プラスチックの表面は所々が剥がれ、傷だらけだった。その中にある彼女の写真が、外敵から身を守られている感じがする。
卒業旅行はどこへ行くのかと聞くと、お台場とのことだった。ディズニーランドの方が100倍いいと文句を言うので「卒業旅行なんて、どこ行こうが一緒だよ。行き帰りのバスを楽しむんだから」と昔誰かが言っていた事を横流しで言った。そして「俺も夏に行ったよ。そういえば」と付け加えた。
ジョイポリスとか楽しいの?と聞かれたので「夜中だったから、どこもやってなかった」と答えると「なんで夜中にあんな所行くんだよ」大声で笑われた。私は、指を口に持って行き静かにするように注意すると「勢いだよ」と言って笑った。そして「昼間なら楽しいって、誰かが言ってたよ」と付け加えた。
その話で、授業の時間がほとんど終わり、あとは生徒を放置して、先に報告書でも書いてしまおうかと思っているところで「てか先生は?」と聞かれた。私は「いるよ」と答えた。
片想いなんだけどさ、そろそろ告ろうかと思って。そう言うと「じゃあがんばんなよ。俺応援してるから」と生徒は笑顔で言った。左手で机の上の携帯電話を押さえていた。

十字路(12)

ミキちゃんの「協力してあげるよ」はどの程度の効果をもたらすのかは不明だが、それに期待をかけるのは、いくらなんでも軽率だろう。何より、倫理的によろしくない気がする。いや、恋愛に倫理も何もないのだが、要するに情けなさすぎるだろ自分、て感じである。とは言え、ミキちゃんは結局の所笠奈に返り討ちにあって終了な気がする。だって笠奈には、恋人がいるのだから。その辺の下調べもしないで「協力してあげるよ」と胸を張ってしまうミキちゃんは、やはりまだまだ子どもだ。でも、それを指摘して、大人の女性に仕立てる資格は、もちろん私にはない。
話を戻すが、私の中で、徐々に笠奈への興味を失いつつあった。確かに好きであるなら、例え恋人がいた所で、そんな事が身を引く理由にはならないのだが、その壁を乗り越えるだけの恋愛エネルギーがあるのかと、自分の心の中を慎重に棚卸しした結果、やはりそこまでは充填されていない、という結論に至った。よってこれ以上笠奈に関わっても、全てが徒労に終わるというわけである。
以上、お得意の対自分への誘導尋問である。今までこれを何度繰り返したかわからない。お陰で私の人生は大したトラブルに見舞われることなく、わりかしスムースに流れてきた。ここまで。流されてきた、と言ってもいいのかもしれない。要するに私はただの腰抜けなのだ。

年が明けて塾内の受験ムードが高まり、兼山の態度もぴりぴりしてくる。ここで結果を出せるかどうか、彼にとって正念場なのだろう。わかりやすすぎる。女性講師が成績表を机に広げた兼山に恫喝される場面があったが、それすらも何かに対するデモンストレーションに見えた。そんな風に冷めた目で見てしまうのは、私の兼山に対する感情のせいだろうか。
同じように中学三年を受け持つ笠奈も、切羽詰まった雰囲気を醸し出している。少しやつれたように見える。トレードマークの茶髪は、根元は黒く、毛先に向かってほとんど金に脱色されている。冬になって伸びた髪がコートにぶつかるせいなのだろうか。笠奈は真っ白なダッフルコートを着て、紫色のマフラーを巻いている。
笠奈とは年が明けてから飲みに行ってはいない。最後に会ったのは、クリスマスの3日前の土曜日だった。私たちはただの飲み友達なので、クリスマスについて議論する理由は全くない。ただ、たまたま入ったいつもと違う居酒屋は、白熱灯の照明が弱くて薄暗く、変にムードがあってそれが私を参らせた。もちろん私が一方的に参ってるだけである。周りには何組かの男女がいて、今年のクリスマスは平日ど真ん中だから、今日に振り替えて愛を深めているのかもしれない。ここで適度に酔っ払った後は、ホテルに流れてお互いの体を心ゆくまで貪り合うのかもしれない。それならば私もそんな2人を祝福するという意味で、隣の席のワインに下剤を混入させたり、n号線沿いのラブホテルに、片っ端から火をつけて大いに盛り上げたい。くだらない。
そんな私のどす黒い、あるいは幼稚な妄想と同時進行でも、私と笠奈の会話は滞ることがない。もはや、私たちはお互いの立ち位置がよくわかっていた。笠奈はやはりどこかずれたところのある女で、例えば映画はほとんど見ない。本人いわく、何か嘘っぽいところがあって、真面目な映画とか恋愛ものはおかしくて、まず最後まで見られないらしい。見れても、パニック系と戦争ものに限るとか。なので、多くの人間の共通項であるジブリ映画とか、ショーシャンクの空トークができない。映画に限らず、そういう「あ、私そういうのしないんだよね」みたいな反応は仲良くなりかけた頃には、よくあった。だが、そういうのが出尽くした頃には逆に私の方から「あ、笠奈はこういうのしないんだよね」と嫌味っぽく言って、からかえるようになった。
それに対して笠奈も私のことを「変な人」とよく言う。もちろん他の人間にそんな事言われたことないし、大体自分の変わってる部分なんて、自覚できるわけない。なので当然の権利を行使するように「どこが?」と尋ねるわけだが、それに対しての笠奈の回答は常にはっきりしない。私が聞き返してくるのが全くの想定外のように「なんとなく」と言葉を濁し、そして笑う。そうやって質問すること自体奇妙だ、と言わんばかりに。
私は笠奈が笑い出す度に、以前、私が笠奈の催眠術にかかって見た、夢のことを思い出す。笠奈が狂ったような爆音で笑い声を上げ、飲み屋全体が傾いた。それは大袈裟に言えば、私の中である種のトラウマとなり、何かの拍子に笠奈が笑うと反射的に体が硬くなり、その後の変化に敏感になってしまう。もちろん現実にあのようなことが起こるとは考えられないが、現実と夢の境界を見落とすことはよくあるし、あの時は実際にやらかしたのだ。酒も入っていたし。
だからと言って、私が笠奈の笑いに警戒してることを、悟られてはいけない。知られれば当然それをネタにされて馬鹿にされるだろうし、笠奈は私の前で自然な笑顔をつくりにくくなる。
自然を装いながらこそこそ盗み見るように、笠奈の笑顔を観察する。実際の笠奈の笑い方は、夢で見たものとは違って、それ程派手ではない。品があると言ってもいい。笑いのレベルが一定以上に達すると、口元に手をやるからだ。半ば無意識の、癖のようなものなんだろう。大抵は手を開いて抑えるが、笠奈の場合はげんこつを握る。そういうのがいかにも癖っぽい。右のげんこつを内側にひねりながら、小指の付け根あたりに唇をつける。それに伴って顔はうつむき、下がった前髪が目を覆い隠し、それに抗うように真っ黒なまつ毛が際立つ。笠奈は髪に合わせて眉毛の色もいくらか抜いているから、まつ毛だけが何にも染まっていない、笠奈そのものの色だ。なんて考えると、人の手が入っていない、ありのままの自然風景を見ているような気分になる。そしてあまり長くもない癖に、無理に上を向かされている毛並みが幼く見え、そこから改めて笠奈全体を見回すと、ひどく頼りない女のように思えてくる。
笠奈の頬が下がり、口元が元のポジションおさまると同時に、笠奈はこちらに目を向ける。上目遣いの視線が、他でもない私を捉えている。私はここまで笑顔を注視していたわけだから、当たり前のようにまともに目が合う。普段は笠奈に限らず、私は人の目を見てあまり話をしない。そのせいなのか、私はこの不意に訪れるこの視線のやり取りに、どう対応していいのかわからず、半ばお手上げの状態で笠奈の視界にとどまっている。すぐに目線を外したいところだが、その行為が何かしらのメッセージ性を帯びてしまいそうで、うまく外すことができない。できれば笠奈の方から「ちょっと見ないでよ」とか言って、テーブルの端で丸められている紙ナプキンを投げつけてきてほしい。笠奈の目はわずかに潤んでいて、唇にくっつけた右手が徐々に内側にスライドし、口全体を隠そうとしている。まるで、口から出る言葉は全て嘘、私の目で語る言葉を読み取って欲しいとでも言いたいみたいに。なんてロマンチシズムに溺れそうになりながら、私は必死でリアリズムの手すりにしがみつき、自分というもののこの物語でのポジションをキープしようと努める。目は目だ。笠奈は私の泳ぎまくってる目を見て、楽しんでいるだけだ。
ところで、ここまでどの位の時間が経ったのか。という考えに行き着いたところで、ようやく私はこの不毛な視線のやり取りから解放される。体を傾けてポケットから携帯電話を取り出し、電源ボタンを押して画面を表示させる。大きなデジタルの数字が4つ並んでいるが、一体どれだけの時間が流れたのかはわからない。そもそも何時何分から、笠奈と見つめ合ったのかがわからないからだ。私はこの行動が何の意味もなさないことに、ポケットに手をやるまえから気づいている。
そんな風に気まずい思いをするくせに、私はレジの前で財布から千円札を数枚出す頃には、そんなことは忘れている。そして、次に飲みに行った時に、再び同じ過ちを繰り返す。愚かな私は必要以上に笠奈の笑顔を覗きこみ、そしてその後の、真剣な目線に足をすくわれる。笠奈の方だっていい加減「気持ち悪いよ」指摘してきても良さそうなのに、何も言わない。徐々に笠奈の目に慣れてくると、その理由についてじっくり考えそうになるが、私はなんとかその思考を止める。本当はにじみ出るみたいに、ある種の馬鹿げた妄想が膨らむが、それはここでは書かない。

十字路(11)

前述のルール通り、今日は笠奈を迎えに行かなかったので、帰りは自転車で並走した。秋が深まって風が冷たくなり、パーカー1枚では肌寒い。昼間との寒暖差が大きく厄介な季節だ。「酔いも覚める」と2人で文句を言いながら向かい風に自転車を走らせた。暗闇の中で落ち葉が舞っている。n号線に出る交差点で信号に捕まり、特に話す事もないので、気になっていたことを聞いてみた。
「てかさ、こうやって2人で飲んでて、彼氏とか怒らないの?」
笠奈は「うーん」とはっきりしない返事をした。笠奈の恋人の有無について聞くのは初めてだった。なのでいきなり彼氏がいると決めつけて質問をするのは先走った観がある。が、2人で飲んでいても、笠奈の携帯はよく鳴り、時には私の目の前で、手早くメールを返している時もあった。なんでもいい。いなければいないと答えればいいだけの話だ。この質問は、答えがはっきりとした否定でない限り、全て肯定となる。なので、更に踏み込んだ事を聞く。
「もしかして俺と飲んでるのは内緒にしてるの?」
「まあ言ってはいないけど・・・」
笠奈は珍しく、歯切れが悪いが、もうはっきりと恋人の存在は確定する。私は北風に紛らせるように、息をつく。耳が冷たい。もう用件は済んだので、歩行者信号は速やかに青に変わって欲しい。ここに立ち止まっているのは嫌だ。
笠奈にとっては、単に飲み友達が欲しかったというだけの話だ。できれば異性の。普通に考えれば、恋人がいるのに男と2人で飲みに行くということはあまりしない。邪推をすれば、もしかしてちょっとした倦怠期に入り、刺激が欲しいのかもしれない。寂しさを紛らわすと同時に、その、素敵な恋人を心配させたいのかもしれない。何にせよ、私は笠奈の人生をより充実させるために、一つのパーツに過ぎないのだ。
信号がなかなか青に変わらないお陰で、私の思考は深みにハマりつつあった。だが、こうして2人きりで飲み会を重ねているのは逆に言えばチャンスと言えるのかもしれないが、ポジティブな見解を今の私は拒否していた。なんとなく被害者面したかったのである。
「彼氏ってどんな人?」とか「やさしい?」とか陳腐な質問を繰り出したいところだったが、笠奈が言いづらそうにしているので、黙っていることにした。笠奈の自転車の籠には、茶色い鞄が入っていたが、ふと見ると隙間から青緑の光が漏れていた。メールか電話か、何かを受信したのだろう。だが、笠奈はそれに気付かないふりをしている。正面を向き、道の向こうの小さな祠を見ていた。子どもの頃からあるもので、岩の部分は年月によって削られ、全体的に丸みを帯びている。n号線がどれくらい古い道路なのかは知らないが、この場所で何か良くない事が起こり、それを鎮めるために建てられたのだろうか。
そのうちに信号が青に変わり、私たちは同時にペダルを漕ぎ出した。車道の方が少し盛り上がっているためにペダルは重く、最初の何メートルかはふらふらする。

完全傷心モードで、自暴自棄になった私は、その翌々日の授業時、ミキちゃんに「好きな人とかいる?」と聞いてみた。いい加減はっきりさせたかった問題だった。ミキちゃんは「え?何ですかいきなり」と口を緩めた。「この問題が終わったら休憩」と宣言して、ようやく答え合わせが終わった所で、何の前触れもなく聞いたので、ミキちゃんの頭の中には、まださっきの数式が残っているはずだ。だがそんな事には構わない。私には今そんなことに気遣う余裕はないのだ。
ミキちゃんは一度机に置いた黄色いシャーペンを手に取り、右手でペン先を持つと左手を軽く叩いた。ぺちぺちという音がして、何かをカウントしているように聞こえた。そして、いるよ、と私の方を見て言った。
「ていうか、付き合ってるんだ、サッカー部の人」
念のために言っておくが、私はサッカー部ではない。中学の時に、テニス部に入ったが顧問が嫌いで半年でやめた。運動全般が得意ではない。
私の心中は、安堵と落胆の半々で彩られ、ちょっとひと言では説明できないような状況になった。合算すればプラスマイナスゼロであるが、そう簡単に混ぜあわせられる種類のものでないらしく、正反対のインパクトが同時に私を襲った。心臓を無理やり両サイドに強引に引っ張られたような息苦しさを感じる。
とは言え、そんな状態はほんの数秒で、最終的に安堵の気持ちが採用され、私は落ち着いてきた。自分とミキちゃんの年齢差等、マイナス条件が徐々に見えてきたのだ。「いいね。サッカー部なんてかっこいいじゃん」と素直に祝福できた。ミキちゃんは「まだ付き合って一ヶ月くらいなんだけど」と言いながら、左の耳たぶを触った。ピアスも何もついていない、純粋無垢な耳たぶだ。
それから、サッカー部の彼のパーソナル情報(背、クラス、趣味その他)や、二人の馴れ初め(どっちから告った?とか初デートその他)について聞き出し、なんか微笑ましい気持ちとなった。私は、人生の先輩ぶって、男の喜ぶポイントをレクチャーしたが、自分の中学時代を振り返り、果たして自分にレクチャーする資格などあるのかと、心中で失笑した。ともあれ、照れながらも、素直に返事をするミキちゃんはどこかの馬鹿とは違い、心の底から可愛いと思えた。
とりあえず、ミキちゃんを冷やかし飽きたところで授業再開と思ったが、やはり今度はミキちゃんの方から「先生は?彼女とかいないの?」と聞いてきた。何のお作法かは知らないが、この手の話をすると「じゃあそっちは?」と聞き返されるのが常なのだ。
「いないよ。ていうかこの前振られちゃった」
実際に振られたわけではないが、もうそれでいいと思っていた。起きたことをそのまま伝えるのは、時間の無駄でもある。私は今仕事中で、余計な事に割く時間はない。予想通りミキちゃんは、困ったような顔をしたので、まあそうなると思ってたから仕方ないよ、と笑って言った。
「じゃあさ、笠奈先生と付き合っちゃえばいいじゃん。笠奈先生多分好きなんじゃないかなー、て思うんだよね。私もお似合いだと思う」
ミキちゃんは一気にテンションMAXになって「先生がいいなら私も協力してあげるよ」とまで言い出した。その様子から、ミキちゃんが前々から、私と笠奈が付き合うことを望んでいることを悟った。
私は「お願いします」と頭を下げるのも馬鹿らしかったので、ただ笑うだけでいいとも悪いとも言わず、そのまま授業を再開した。

十字路(10)

それからは、笠奈と2人で飲みに行くのが恒例となった。頻度としては月に1、2回程度。初めのうちは、飲んだ後に、もしかしたらホテルに流れるみたいな事もあり得るかと、無駄にコンドームを財布に忍ばせたりしたが、当たり前だがそんなのは杞憂に終わり、私達は木嶋や兼山にまつわるくだらない話や、ミキちゃんに関するちょっと真面目な話をしながら仲良く酔っ払ってバイバイするのが常だった。大抵は私が件の弁当屋の駐車場で、笠奈を拾って行くのだが、笠奈が学校に行ってる時などは、駅で落ち合って店へ入る。笠奈は免許も車、というか親に買ってもらった新車のホンダライフを所持しているが、通学の際は駅まで自転車で行っている。そんな時は私も律儀に、自転車で出かけ、帰りは2人で並走する。特に言われたわけでもないのに、忠実な飼い犬みたいに合わせちゃうのは、いかにも過ぎて自分でも恥ずかしい位だが、笠奈は「なんで車で来ないの?」みたいな意地悪は言わなかった。もしかしたら当然の事と思ってるのかもしれないが。
普段から塾でも顔を突き合わせているのだから、今更わざわざ一緒に飲む必要なんてない気もしたが、兼山から少しでも遠ざかるために、わざわざ塾の外で粘って暑さに耐える必要もなく、何よりも座って話せるのが楽だった。しかも一度店に入ってしまえば、短くても2時間はいられる。相手の反応に、常に緊張感満点で気を配りながら、焦ってどんどん話題を放り込んでいく必要もない。そのせいか、笠奈は普段よりもゆったり喋ってる気がした。甘えたような声になる時もある。酒が回ってくると、両肘をついて、ほとんど金に近い髪に両手の指を絡ませるのが癖だった。目もうつろになってくるので、眠いの?と聞くと「眠くない」と目を見開いて、こっちを見るのがお決まりのパターンだった。私はその瞬間が好きだった。
笠奈は大学では教職を取っていて、将来は英語の教師になるのが夢というか、目標だった。母親が学生時代に、留学したことがあり、その影響で小学校から英会話を習い、英語の成績は抜群に良かったのだ。試しに何か喋ってよ、と言うと「ハロー」と手を振ってきた。確かにそれっぽい発音だったが、私は馬鹿にされたような気がして、笠奈の「ハロー」をふざけて真似したら、頭を叩かれた。
チャンスがあれば、自分もアメリカかオーストラリアにホームステイがしたい、と笠奈は語った。大学内で、そういうカリキュラムがあって、定員に入れれば行けるらしい。とは言っても費用はこっちで持たなければいけないので、一応親からお金を出してもらうよう話をつけてあるが、こちらでも少しは負担しようと思いバイトを始めたのだった。それで見つけたのが今の学習塾であり、教師を目指す笠奈としては、子どもに勉強を教える経験にもなって、一石二鳥となる。
笠奈はそんな話をなんでもない事のように話した。たまに煙草に火をつけて、煙を横に吐き出しながら。煙草の銘柄はキャスターだった。白の刺しゅう入りの入れ物と全く合ってない。もう、禁煙云々の話はしない。
私はそれを一本もらって火をつけてもらい「でもそんな髪の色だと教師って感じしないよね」と冗談になるように気を遣って言った。煙草はひどくまずい。
「だって今だけじゃん。こんな風にできるの」
笠奈は前髪をねじりながら真面目に答えた。おでこにシワが寄る。上目遣いになって広くなった白目は、若干赤い。
飲み会を数回重ねるうちに、何故か後半はちぐはぐになることが多くなった。笠奈を知れば知る程、最初の印象とは違って、先々までちゃんと考えてるしっかりとした女である事がわかった。高校時代は、陸上部で県大会3位に入ったこともあるし、大学ではボランティアサークルに入り、たまに障害児の面倒を見てたりもするらしい。
ちぐはぐの原因は、要するに私が笠奈に引け目を感じているということだった。特に語るべきもない大学生活を送り、そして卒業した今でもまともな職につこうとしない私からしたら、笠奈は人生に一切の無駄のない、極めて効率的でスマートな生き方をする女性だった。話の序盤で働くこと云々について熱弁を振るったが、その全てが笠奈の前では子どもじみてくる。「もうすぐTOEICがあるからね。今日は図書館でずっと勉強してたんだよね」という話を聞くと「あなたはこの先どうしたいの?」と問い詰められているような、圧迫感を覚える。もちろんそれは私の被害妄想に過ぎない。笠奈はファジーネーブルさくらんぼをつまみ上げて、片肘でぼんやりとそれを眺めている。眠くないと言っていたが、疲れてはいるのだろう。昼間訳した英文を、頭の中で再放送しているのかもしれない。今日は私から声をかけたから、もしかしたら笠奈的には、あまり気乗りしないものだったのかもしれない。笠奈は疲れている。それは正当な労働を対価に得る事のできる、他人に誇れる種類の疲れだった。私は疲れてはいない。疲れる権利を有していないのだ。
何故そんな事を考えてしまうのか。私も酔っ払っているからだろう。大丈夫。ちゃんと自覚している。目の前にいる笠奈に、私は自分を投影しているのだ。本来あるべき自分。こうであってほしい自分。笠奈の姿をした私が、もう一度尋ねてくる。
「あなたはこの先どうしたいの?」
「わからない」と私は答える。だが、それは嘘だ。私にはわかっている。そして当然ながら、目の前の笠奈にもそれはわかっている。だってそれは自分なのだから。このまま黙っていたら「本当はわかってるくせに」と馬鹿にされ、見下されるだろう。どうにかそれを防ぎたくて、私は何か目先を逸らす言葉を探す。
「どうしたいか?・・・そうだね、じゃあ君と寝たい」
笠奈が吹き出す。普段は見る事のできない、酔っぱらいのする笑いだ。目を細め口をすぼめ、手でテーブルを叩き出す。その拍子に持っていたさくらんぼが手からこぼれ、笠奈の目の前の小皿に落ちる。それは、さっきまでサラダが盛られていたが今は空で、和風ドレッシングの残りがついているだけだ。その和風ドレッシングの水たまりの真ん中にさくらんぼは着水し、ぴちゃという音とともに外へ何滴かはね、その一つが笠奈のクリーム色のカーディガンについた。笠奈はまだ笑っていて、茶色い染みは徐々に大きくなるが、そのことに気付かない。私も教えてやるつもりはない。
「私としたいなら、してもいいよ。でも、できるかな~?」
身を乗り出し、バラエティ番組みたいなノリで、笠奈が挑発してくる。こちらも前かがみになれば、口づけのできる距離だ。私は僅かな笑みを浮かべ、笠奈の目をまっすぐ見て、可能な限り落ち着き払った口調で答える。
「できるよ」
芝居がかっているが、絶対に動揺を悟られたくない。笠奈は座りなおして背もたれに寄りかかり、煙草を一本取り出して口に加えようとする。が、指先が震えて落としてしまう。そしてそのまま顔を下に向ける。肩が震えている。笑っているのだ。段々と震えは大きくなり、笠奈はついに声を出して笑い出す。あはははははは。一度笑い出すと、歯止めが効かなくなったのか、顔を上に向け、音量がどんどん上がっていく。机が共鳴して揺れ出し、ファジーネーブルの細いグラスが倒れ、テーブル中にイエローがこぼれる。酔っ払いめ。私はすぐに店員に布巾を持ってきてもらおうと声を出すが、笠奈の笑い声が大き過ぎて、全く通らない。うるさすぎる。ついに天井からぶら下がった照明も大きく揺れだし、光の当たらない影の部分が生き物のように蠢きだす。危険を察知した私は、その場を離れようとするが、地震でも起きたかように床全体が波打ち、立ち上がることすらできない。笠奈の方を見るといつの間にか椅子の上に立ち上がり、巨大なスピーカーにでも変身したかのように、ひたすら大声で笑い続ける。テーブルの上の皿類は全部落ち、ファジーネーブルが端っこからぽたぽたと垂れる。店のあちこちから悲鳴や、食器の割れる音が聞こえる。

「寝ちゃった?」
気がつくと笠奈が私の顔を覗き込んでいる。その気になれば、口づけのできる距離だ。事態が飲み込めない。テーブルの上には皿や飲みかけのグラスが、何事もなかったかのように並んでいる。店内には、低い音量でジャズが流れ、平常事態であることをアピールしているようだ。店員も何事もないように行ったり来たりしている。
ファジーネーブルも、細長いグラスがどこまでも頼りなく見えるが、倒れてはいない。さくらんぼは笠奈の手からぶら下がって、左右に揺れている。クリーム色のカーディガンには、染みひとつない。
「本当に寝ちゃうとは(笑)今こうやって、『催眠術~』てやってたんだよ」
そう言って笠奈はさくらんぼを私の鼻先に、押し付けてくる。よほど引っかかったのが嬉しいのか、さくらんぼは実際に私の鼻にぶつかる。
「飲みすぎちゃった?それとも、疲れてるのかな?」
私の記憶では、笠奈の方がぼんやりしていた。なのに今ははしゃぎまくっている。子どものように、と形容したいくらいに。信じられないことだが、私は笠奈の目の前で寝入って、夢まで見ていたのだ。私は、疲れているのだろうか。
笠奈はメニューを取り出し、デザートを物色している。右手には、まださくらんぼがあったが、私はそっと手を近づけるとひったくり、間髪入れずにそれを口に入れた。

十字路(9)

二学期になって、最初の授業の終わりに兼山に声をかけられ、ミキちゃんのことを受け持つことになった。数学と理科。「お前どちらかと言えば、理系だよな?」と、一応は疑問系の体裁で聞くが、完全に決めつけられていて、こちらの意見など全く聞く素振りもない。新たにもう1日バイトが増えてしまった。笠奈が二学期から、新しく入った生徒を担当することになり、手が回らなくなったんだよ、と付け足すように今回の処置の背景を語る。「本当は男の講師が女の子を見るのはあんまりよくないんだよね」とため息まじりに兼山がひとりごちる。私の責任とでも言いたいのだろうか。あえて言うまでもないが、私は兼山が好きではないから、兼山の言葉ひとつひとつに引っかかり「それなら俺じゃなくていいです」とつっかかりたくなる。背が低く、ぽっちゃりしていて童顔。明るい水色のストライプのワイシャツを胸元で開け、中で金のネックレスが光っている。肉厚の手。フライパンで焼くなら、わざわざ油を敷く必要はなさそうだ。指先には指輪。右手の小指、左手は中指と薬指。どれも大げさなデザインで、指がより短く見える。薬指、てことは結婚をしているのか。こんな男でも結婚ができるのは不思議だ。私はフェアな人間、またはフェアであろうと努める人間なので、こんな男にも、私にはわからない良さというか、魅力があるんだろうことは推察できる。金とか。金に釣られて好きでもない男と一緒になる女は、愚かなのだろうか。豆粒程度の収入しかない私には、答えを出す資格はないだろう。それがフェアというものだ。
関係ない金のことは置いといて、そもそも何故私が抜擢されたのか。兼山の職業倫理に叶う、害のない女性講師は他にいくらでもいるはずだ。と、考えるまでもなく、答えはわかっている。
笠奈。
と思った瞬間に、本人が奥から登場する。この女は一体なんなんだろう。私の思考と直結することが多い。考えた瞬間に、目の前に現れて、私にとって特別な女であることをアピールしたいのか。
もちろん笠奈は、私のために出てきたわけではなく、授業の終わった生徒を送るために出てきたのだ。兼山のデスクは、出入り口のそばにあるために、このような現象が起きる。生徒がドアを開けたタイミングで、兼山は「さようなら」と声を張る。兼山は大声を出すと声が裏返る。なんとも間の抜けた声だ。だが、なんとなく同調した私の声だって相当情けないはずだ。笠奈もお姉さんみたいな顔をして「今度は宿題忘れないでね」なんて言ってる。自分なんか、禁煙もまともにできないくせに。全てが茶番に見えてくる。そういえば笠奈を見るのは、あのお台場の夜以来だ。笠奈にあげる予定だった牛乳は捨ててしまったし、予備で買ったお茶も、結局自分で飲んでしまった。だからと言って笠奈が文句を言うことはなかった。長電話の後、笠奈は明らかに疲れた表情をして、帰り道は静かだった。
笠奈は私と兼山の顔を交互に見て「ちょうどミキちゃんの話してたのかな?」と聞いてきた。口ぶりから私に聞いてきたのかと思い、返事をしようとすると、兼山が先にそう、と答えた。
「あとはミキちゃん側に伝えるだけ。本人には、お前から先に言っておいて」
はいはーい、と笠奈が軽い調子で答える。何故こんなにフレンドリーなのか。兼山は、スケベだから、女講師に対しては冗談も言うが、それでも講師の方からタメ口をきく者はいない。もしかしたら、お台場での電話の相手は兼山で、2人は不倫関係にあるのかもな、と私は勘ぐる。勝手に兼山に怒りを覚える。こんなに醜いくせに、金にモノを言わせて次々に女に手を出すんじゃねえよ、バカが。もはやフェアもへったくれもない。
「じゃあ、来週の水曜日から、お願いします」
そう言って、笠奈は深々と頭を下げた。仕事のことだから、ちゃんと礼儀を踏まえたのだろう。もちろんそのような笠奈の態度に、私が傷つかないはずがない。

ミキちゃんとの授業は夏期講習と全く同じ雰囲気で始まり、授業での再会を、ミキちゃんは手を叩いて喜んでくれた。夏休みは黒い髪を下ろしていたが、今は赤いゴムでまとめている。学校仕様ということだろうか。少し幼い感じがする。夏休みの宿題はちゃんとやった?と聞くと、理科と漢字のワークがまだらしい。「笠奈先生にな言わないでね」と小声でお願いしてくる。私に心を開いている証拠と判断していいだろう。もしかしたら、兼山に進言したのは笠奈だが、その前にミキちゃん頼んだのかもしれない。夏期講習が終わった直後のマクドナルドで、笠奈にミキちゃんはあなたのこと好きかもしれない、と言っていたのを思い出す。さらにお台場の道中で「私はミキちゃんの好きな人だって知ってるんだからね」と騒いでいた。つなげると、故に私のことが好き、と公式が成り立ってしまう。と判断するのは、いくらなんでも浅はかだろう。とりあえず保留ということにしておく。
笠奈には変な責任感があるのか、授業が終わり、ミキちゃんを送り出す時には必ずついてくる。笠奈の方が早く授業が終わるため、タイミングとしてはちょうどいいからだ。が、それでも1時間近く待たなければならない。
ミキちゃんを送り出すのなんて一瞬で終わるのだから、その後は必然的に2人で話をすることになる。建物に戻れば兼山がいるので、私はその場を動こうとはしない。まだ、9月の半ばで、今年の夏の総仕上げとでも言うように、そこら中で蝉が鳴いている。汗をかくほどではないが、中と比べれば明らかに不快な状況で、時には30分くらい喋っていることもある。ミキちゃんの話題が多いのだが、夏期講習の時のように監督ぶって進捗具合を報告させるわけではない。担当が別れた時点で、何か口出ししようとは思わなくなったらしい。それどころか逆に、自分の授業時にミキちゃんと喋ったことや、そこから発展して彼女のキャラや、家庭のことを教えてくれた。ミキちゃんは3人兄弟の真ん中で、上には高校生の兄、下は幼稚園に通う妹がいる。妹は自閉症で、滅多に笑わない。そのせいか母親はノイローゼになり、最近抗鬱剤を飲むようになった。というか、それ以前に両親はバツイチ同士の再婚で、兄と父親とは血のつながりがない。妹は再婚してからの子だ。ちょうど思春期だし、父親との距離の取り方に戸惑っているんじゃないか、というのは笠奈の意見だ。
私はその話に、へえそうなんだ的な反応しかできなくて、笠奈は口には出さないが、え?それだけ?みたいな顔をした。私は慌てて「とてもそんな風には見えないけれど、いろいろあるんだね。難しいね。教えてくれてありがとう」と付け加えた。笠奈はううん、と首を振った。
しかし当然ながら、私はありがたがってなんかいない。それを知ったところで、何ができるわけでもない。確かに明るくてよく笑うミキちゃんからは、イメージしづらいエピソードではあるが、別にありえない話でもない。人として生きていれば、誰だって日の当たらない、影の部分が存在するはず、というのは私の意見だ。よって妹がおかしくて、母親もそれに侵食されつつある、と言っても何も私には影響を与えない。
と、偉そうに述べたが、実際はそうもいかなくて、ふと目に付いたワンピースの裾がほつれていたりすると、直してくれる人がいないんじゃないかと思ったり、いつも髪を1つか2つにまとめるが、本当は三つ編みにしたいのを、我慢しているんじゃないかと疑ってしまう。たまたま行った図書間では自閉症ケーススタディみたいな本を取ってしまう、前置きが長すぎてついていけない。休憩中にさりげなく、家族構成を聞くと、笠奈の言った通り兄弟が3人だと教えてくれるが、それ以上の情報が出てこない。まさかこちらから「お兄さんと血の繋がりがなくて、妹は自閉症なんだよね?」と聞くわけにはいかない。いや、実際は問題ないのかもしれない。笠奈は秘密にしてくれとは言わなかった。ちゃんと事前に家族の事を話してもいいか確認を取ったとも考えられる。私にもミキちゃんの相談相手になってもらいたいのかもしれない。
だが、やはり笠奈はそんな風に抜かりなく事を進める女とは思えない。浅はかで軽はずみなのが笠奈なのだ。例えるなら船底に穴が空いていても、無理やり船を出港させるタイプだ。穴は航行しながら塞げばいい。転覆さえしなければオーライだ。笠奈は私がミキちゃんに話す事はまったく想定していないだろう。もし私が話そうものなら圧倒的な感情に任せて私を罵倒するはずだ。
そのように考えた私は、当然ながらミキちゃんのダークサイドに触れるどころか、近づきもしなかった。好きな人トークも、念のためこちらからは切り出さない事にした。もっぱらテレビの話か、私の中学時代のエピソードを聞かせるくらいだった。ミキちゃんは、本当によく笑う。問題は何もない。
しかしある時、ミキちゃんの方から「先生、自閉症って知ってる?」と聞いてきた。左側を向いてまともに見ると、大人っぽい顔をしている。黄色いシャープペンの真ん中を大事そうに両手でつまんでいる。
「知ってる、かも」
「うちの妹、幼稚園行ってんだけど、自閉症なんだ」
え、とかああ、みたな曖昧な返事。
「全然笑わないし、話しかけても全然反応ないし。ちっともかわいくない。幼稚園でもいじめられてるみたい」
口ぶりから判断するに、ミキちゃんは私がその話を初めて聞くと思っている。だが、私はさらにその妹とは、父親が違う事まで知っている。この調子でいけばミキちゃんの口からそれも語られる可能性もあるが、私から水を向けるのは避けねばならない。もし知ってることがバレればミキちゃんは傷つき、笠奈の信用も失墜するだろう。笠奈はどうでもいいが、ミキちゃんが傷つくのは気の毒だ。というわけで、私は自閉症の妹という告白を初めて聞く演技をしなければならない。演技というのは大げさすぎるが。
実際知人の兄弟が自閉症、と聞かされれば驚くのが普通なのだろうか。私は過去に友人その他に、兄弟が自閉症であることを打ち明けられた時のことを思い出した。そんな思い出はない。だとしたら、似たケースを探し出し、その時のリアクションをサンプリングして合成しなければならない。いや、そもそも笠奈に最初に聞かされたのだから、その時の反応を再現すればいいのだ。覚えていない。あの時はひたすら笠奈の話に、心の中で毒づいていた。でも結局は笠奈が悪いということになる。あの時聞かされなければ、今こんな風に自然なリアクションに神経をはらなくて済んだのだ。
「あ、こんな暗い話してごめんなさい。ていうか、もう休憩時間過ぎちゃったよね?」
私が曖昧な態度で接しているせいで、結局ミキちゃんの方から話は切り上げられてしまった。時計を見ると確かに5分が過ぎている。塾内で休憩については、特に明確な決まりはなく、各講師の裁量に任せられている。私は90分の授業の中で、5分の休憩を2回とることにしている。何分たったら、と細かく決めているわけではなく、その時のタイミングで決めている。なので、話が盛り上がれば平気で10分近くお喋りする事もあるし、生徒の方から休憩を終わらせようと言ってくる事はまずない。
つまりミキちゃんは、私に対してある種の失望を抱いたということになる。実際、今の妹の話からは、何のメッセージ性も感じる事ができなかった。というか、話をちゃんと聞いていたのかも怪しい。とりあえずミキちゃんには、簡単だが時間ばかりかかる、少数がらみの方程式を一気に10問解くように指示をし、ミキちゃんの話を思い返す。ミキちゃんには妹がいる。妹は自閉症だ。そのため幼稚園でいじめられている。むっつりとした表情で大して笑わないから無理もないと思う。自分もかわいくないと思っている。以上。
それだけだ。
ここから無理にメッセージを読み取るとしたら、自分の妹をかわいいと思えないことに対する罪の意識、ということだろうか。だとしたら、血のつながりイコール愛情とは必ずしもならないんだよ、ということを噛み砕いて伝えればいいだろう。いや待て。父親が違うのだから、血のつながりの面では半分ということになってしまう。そうするとこのアドバイスは、血がつながってても愛しあえるなんて奇跡なんだから、繋がっていないなら愛し合うのは不可能、ということになり、だいぶニュアンスが変わってしまう。なので、その辺も考慮してアドバイスを練らなければならない。しかし、ミキちゃんの中では私は両親の再婚を知らないことになっているので、初めから理屈をこねるのも何か不自然な気がする。いっそ血のつながりの話をわざとして「私の親は再婚で・・・」と話を引き出すのもありなんじゃないか。私の論理がいかに付け焼刃で、その場しのぎであるかということが、よくわかる。
ややこしすぎる。
そもそも前提にあるミキちゃんが私の言葉を欲している、というのすら定かではないのに、ここでぐちゃぐちゃと考える意味なんてあるのだろうか。
というところでミキちゃんが「終わりました」と顔を上げる。早い。のではなくて、私が低劣な妄想に没頭し過ぎなのである。答え合わせをしながらミキちゃんの顔を盗み見る。自信があるのか口元に笑みが浮かんでいる。手元では先ほどと同じようにシャーペンを両手で持っている。両手で持つのは単なる癖のようだ。

授業が終わって席を立ち、奥の席にいる笠奈に声をかける。別に頼まれたわけではないが、勝手に送ってしまうと怒られそうだからそうする。でも自分だって毎週会ってるんだから、わさわざ話すことなんてなく、外に出て話すことなんて「お疲れ様」くらいだ。白い自転車にまたがったミキちゃんは、すぐに闇へ消えた。
笠奈と2人きりになると、すぐに先ほどの事を報告した。そして念のため「ミキちゃんの両親のこと、俺は知らないことになってるんだよね?」と確認した。
うん、そうだね、と笠奈は当たり前のように答えた。声のトーンから、私ほど緊張感がないのがわかる。私は「ついにきたか」と身を乗り出してくるものと思っていたので、肩透かしをくってしまった。だが、他に続ける言葉も思いつかないので「どうする?」と、作戦会議のような雰囲気で聞いてしまった。
案の定笠奈は「どうするって・・・」と言葉に詰まりながら腕を組み「まあいいんじゃない?」と私からすると、わけのわからない返事をした。笠奈からしても、わけがわからないんだろう。
私としては、ここでミキちゃんの闇にどう対処するかで盛り上がり、このまま2人で飲みにでも行こうと誘うつもりだった。が、笠奈の反応の薄さで、その目論見は見事に崩れてしまったわけだが、私としては最初からミキちゃんをダシにしているみたいで、なんとなく後ろめたい気持ちもあったので、むしろうまくいかなくてほっとしていた。と、考え心の平静を保とうと試みた。
だが、現実は進行しているので言葉がいる。
「このまま、ミキちゃんの相談とかに乗った方がいいのかな」と答えがわかりきっているような質問をし、予想通り「そうだね」という返事を得た。
「ミキちゃんはさ、君のことが好きなんだから、どんどん話聞いてあげた方がいいと思うよ」
またその話だ。でも、好きとひと口に言ったって色々ある。憧れの好きかもしれないし、家族的なものかもしれない。恋愛でも手をつなぐ好きかもしれないし、セックスをしまくりたい好きかもしれない。ミキちゃんとセックスなんてあまりに非現実的すぎるし、私のこの感覚は、決して的外れではないだろう。そう思うことにし、私はシンプルに「うん」と答えた。あまり露骨に否定するのは、かえって子どもじみている。
私の面白みのない回答に、会話は途切れ、笠奈は他の生徒の自転車の荷台に腰をかけ始めた。鉄製のスタンドがコンクリートを擦る音がする。私ももうそんなに笠奈と話をしたいとは思わなくなっていた。早く今日の分の報告書を仕上げて、家に帰りたい。笠奈に戻ろうかと声をかけようとすると、笠奈のほうが先に口を開いた。
「ていうか、今度の土曜って暇?良かったら2人で飲みに行かない?なんとなく」
この女は一体なんなのだろうか。