意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

昨日は休みで午前中には歯医者に行き、歯医者では予約していたにも関わらず、けっこう待たされた。歯茎がまだ腫れている。ネモちゃんと外で昼をとった後は駐車場から車を出すときに、通りを走る車を運転するのが老人ばかりだったので、ネモちゃんはその中から若い人を探し出そうとした。平日だからだ。自転車に乗っている若い人をやがて見つけたようだが、それはきっと学生だろう。村上春樹がエッセイで、千葉に住んで昼間出歩くと、必ず学生に間違われるという話を思い出す。

銀行に寄ってから家に帰り、私はその前にネモちゃんに
「銀行と図書館どっちがいい?」
と訊くと
「銀行」
というので銀行に寄ったのだった。

それから冬休みの最終日だったので宿題の残りをやり、宿題の中にはエコライフカードというのがあって、それの項目の中に
「車をつかわずに、歩きや自転車や電車やバスで出かけた」
というのがあって、それは300ポイントで、子供はそういうののパーフェクトを目指さなければ気が済まないから、子供チャレンジの赤ペン先生を歩いて出しに行くことにした。どうして歩きはOKで車はNGなのかを説明するのは比較的簡単だが、電車、バスがOKな理由を説明するのは難しい。とりあえず
「座席が多いから」
とだけ言った。

外に出るとネモちゃんは「やっぱ自転車で行く」と言いだし、久しぶりに自転車に乗るから、ネモちゃんの自転車の上にはたくさんの履かれなくなった靴が積まれていた。それを隣の義母の自転車のカゴに突っ込み、一方私は歩くことにしたが、ネモちゃんはちゃんと自転車にも乗れなかったから、ちょうど良かった。寒かったから、私はマフラーと手袋をした。

坂をのぼりきるとネモちゃんは勘を取り戻し、ぐんぐんと私から離れていった。ふらふらと離れていく様が、凧のようだった。そう考えると、道路の白いラインが凧糸のようにも見える。ラインとは、車道と歩道を分けるラインで所々消えかかっている。右に緩やかに曲がる様が、たるんだ凧糸を連想させる。郵便局の手前は、売地となっていて、その隣は竹藪だった。竹が風に揺れている。あるいは揺れてなかったかもしれない。そこまでくるのに何人かの人と擦れ違い、こちらから挨拶をしたが、誰一人返してこなかった。

帰ってから縄跳びをした。縄跳びも宿題だったからだ。

がんばった人が報われる社会なんて嫌だ

私の父親は精神障害者の自立支援施設へ長いこと勤めていて、私がタイトルのような考えに至ったのは、おそらくそういうのの影響もあるだろう。

努力した人が報われるのはとうぜん、と考える人は傲慢である。または無知か、世間知らずか、想像力欠如である。この言葉はひっくり返せば努力しなかった人は報われないのが当たり前、という意味である。努力しない人はバチが当たっても仕方ない、と考える人もいるかもしれない。そこまでは思わないけれど、相応の結果がかえってくるのが、あるべきカタチだ、と思うのかもしれない。

それでは努力というものがそもそもできない人は、どうなのだろうか。例えば冒頭の精神障害者である。文字通り話にならないし、重度であれば殴りかかってくる。私の父はよく夜中に家を出た。利用者が、よく施設を逃げ出すからである。山下清のもっと汚いバージョンを想像してもらいたい。外見は一応大人だし、お金も持っているから、電車へ乗って遠くまで行ってしまうのである。そういうのを捜して、連れ戻すのが父の仕事だった。彼らは施設が嫌いなのか、仕事が嫌いなのか、それとも発作的なものなのか、私にはよくわからないが、ぱっと見て、まともな外見でないことは、すぐわかる。たまに電車に乗っているとそういうのがいて、奇声を上げていて、怖いと思う。関わりたくないと思う。そういう人たちは報われなくても仕方がないのか。

そういう人たちは例外だ、努力できるのに怠けている人たちと混同すべきではない、と考えるのかもしれない。しかし、ある人々を例外にする、というのは差別と同じことだ。論点がずれているだろうか。それでは、例外とはどこまでの範囲なのだろうか。うつ病の人は例外か、何らかの精神的疾患で病院にかかっている人は、怠けてるとは言えない、となるのか。昔はうつ病なんていう言葉もなく、心の病なんて、単に心が弱いとか、気合いが足りないとか、性格が暗いせいだとか、私は昔の人ではないからわからないが、そういう精神論で片づけられていた。そう考えると、これから先、単に会社でサボっているようにしか見えない人が、実はある種の病気だった、あるいは先天的な障害だった、ということはいくらでもありえるのである。というか、現在進行形で起きている。

今の子は大切に育てられて、軟弱だから、あるいはそういう精神疾患の知識が広まることによって、勝手にそうだと思いこむ人が増えた、などと考える人がいるかもしれないが、そうではなくて、今までそういう人たちは単に見捨てられていただけだ。比較的軽度な人はいじめられたりしながらなんとか組織に食らいつき、重い人は社会的に抹殺された。田舎ならば村八分とか、そんな感じてある。都会はどうなんだろうか。そういう人たちにも、ようやく光が当たり始めたのが現代である。まだまだ光なんて、ちっとも当たらない、という人もいるだろう。今までは、本当に見えなかった。だから、急に軟弱な子が増えたと勘違いするのである。

長くなってきたが、私はこれを分けて書くつもりはないから、あとはかけ足で書くが、私は別に、世の中は五体満足な人たちだけで構成し、そうじゃない人はなるべく隔離するか、先天的なリスクがある場合にはそもそも出産させない、という社会にすべき、という考えがあってもいいと思う。だけれども、私はその、「五体満足」の基準をどこにもうけるのかは永遠に決められないと思うし、無理に設定すれば最終的に人類は滅びると思う。つまり、私は今後も人類が滅びないためには、努力しようがしまいが、世界中のあらゆる人が報われる世の中を目指すべきだと考える。人類が達成できたら、全生物で、そのあとは全物質だ。人間が食べなければいけない肉や魚を報うなんて矛盾しているし、物質なんて、ナンセンスも甚だしい。しかし、どこかの未来の人なら、それを達成するだろうし、それはタイムマシンよりも簡単なことかもしれない。

それなのに、たった一握りの「努力できた人」だけが報われるなんて、いかにも了見が小さい。努力なんてただの自己満足だ。努力を偏重する人は、自分を基準にする。自分よりもがんばっている人を敬い、そうでない人を見下す。そして、自分ができた努力は、たいていの人もできると勘違いする。努力する人が傲慢だと思うのは、そういう部分だ。だから、努力できた人は本来は謙虚になって、達成前の自分よりも、ずっと厳しく自分を律しなければならない。

奇しくも少し前に2ちゃんねるのまとめを読んでいたら「努力の才能」という言葉がでてきて、嫌悪したが、ここまで書いたら、努力は才能というか、ある種の条件が揃っている人しかできないものだから、言葉としては正しいことがわかった。

それから私はたまには世界平和をどうやって実現するかついて考えるが、そのヒントとなる考えが見つかって、すがすがしい。