意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

電波

今年の1月に携帯会社をかえたが、以来電波が悪いと思うことが増えた。しかしよくつながることが必ずしも良いこととも思えないから、それはそれで良かった。昼がつながらない。同じ携帯会社の後輩に訪ねたが、
「もうずっとこの会社だからいいとも悪いとも思えない」
と言われた。彼ははっきりものを言わない性格だった。客観性が何よりも大事で、そういうところが私に似ている。しかし決定的に違うのは私はそういう人の前に来ると、主観が大事な人間になってしまうのである。私はたまに、なんでこちら側の肩を持っているのか、とふと疑問に思うときがある。先日もなぜが私は道中食べたパサパサの不味い饅頭を一生懸命フォローしていた。例えば自分の保身のために、みんなに食べさせた饅頭が不味かったのを必死に認めないとかそういうのではなく、私は最初から
「あそこの饅頭はパサパサしていて不味いよ」
とお勧めしていた。私があまりにけなすから、いざ店に行くと、みんなはちゃんとした箱に入っているのに驚いた。もっとラップにくるまれただけみたいな、みすぼらしいのを創造していたのだ。話していた私も自分の話にのめり込んで、なかなか見つけられなかった。買ってみるとちゃんとパサパサしていた。そのあとどういうわけか私がその饅頭をうまいと思っているみたいな雰囲気になって、帰り道に本家みたいなお店に連れて行かれ、
「これが饅頭本来の味だよ」
みたいなことを言われ、私は百もそんなことは承知なのに、
「人生において、美味いものを食うより、不味いものを食うほうがよほど貴重なんだよ」
と減らず口を叩いてしまう。だけれども個人名は避けるとして音楽の話で、ミリオンヒットしている歌手について、
「いい音楽だろ?」
とおすすめされてシラケるように、美味しいものを、
「美味いだろ?」
なんて言われても勝手にしてくれ、と思う。だからやはり私は自分の気に入ったものを他人に安易にすすめたりしない。