意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

犠牲

家の周りをランニングしたら、そのときは考え事をしながら走っていたが、そのとき突然「○○は家族を餓死させながら自分の作品を作り続けた」というのが閃いた。○○には明治から昭和初期の文学者が入る。それが誰なのかが、何の本に出ていたのかははっきり記憶していたので、急いで走って帰った。しかしタイムは普段と変わらなかった。(むしろ遅いくらい)
私の本棚は大変小さいが、しかし件の本はいくら探しても見つからない。私は風呂に入って汗を流したかったが、子供が入っていたので入れず、とりあえず本棚の前に立って本棚はベッドのすぐ脇にあったので、脛がベッドにぶつかって、マットが汗で汚れないように注意しながら、注意深く探した。その本はカバーがかけられている。その本はAmazonで購入したので、しかしながらカバーは付属してこなかったので、もとの本のカバーを裏返しにしてつけた。しかしそれでは真っ白な背表紙がかえって目立つので、別の本にかかっていたジュンク堂のカバーに付け替えた。本棚を購入した際に。
しかしジュンク堂のカバーを開くと、全く別の本であった。どこかで記憶違いを起こしている。捨てたのかもしれない。しかし、そう簡単に忘れるものなのか。

○○にはいる作家は、検索したら程なく判明した。その頃には子供が風呂から出て私の元へきて、私が「どうして先に風呂はいっちゃったの?待っててって言ったのに」と言うと、怒って下へ行ってしまった。
「詩人 家族 餓死」
で検索をしたら最初に石川啄木がヒットした。しかし知恵袋では、「石川啄木は餓死ではなく結核です」と出ていて、その次に石川啄木島崎藤村太宰治と誰が一番クズか、と出ていて、島崎藤村が娘を次々に餓死させたのだった。
そして、私はもうひとつくらい例が欲しいな、と思い、何かを犠牲にしながら作品を残した芸術家はいないかと検索をするが、ゴッホなんかは耳をそぎ落としているしどうかと思うが、調べるとゴッホは犠牲というよりも単に頭がおかしいし、じゃあピカソは? 愛人どうしが鉢合わせしてケンカさせてそれを絵に書くとか。でもなんか悲壮感が足りなくて、テイストが違う。
つまり私が言いたいのは、
島崎藤村や○○は何かを犠牲にして、名前や作品をのこせたけれど、あなたは何かを犠牲にしたってなにも残せやしない。
だいたい犠牲だなんて、天才と自分を同列に並べるのと同じで、勘違いも甚だしい。
天才には代替はきかないが、あなたのかわりはいくらでもいる。
ということだ。