意味をあたえる

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書くことがない

小学3年のときに、学校で日記をつけるように言われ、ノートは全員同じものが支給され、表面に「日記」と書かれたシールが貼られていた。私がそこに書いたことは2つしかなくて、ひとつは後で触れるが、もうひとつは「書くことがない」だった。しかしそれは書いていた時分のことをおぼえていたわけではなく、後から、中学3年になったときに、押入れの段ボールを開けたら日記が出てきて、そこに「書くことがない」とあって笑えた。中学のときは、生活記録ノートというものがあり、そこには明日の予定などを書き込む欄と、ひとくち日記というのがあった。ひとくち日記は、中学1年と中学2年のときは黙殺していたが、3年になると毎日書いて提出しろと言われたので、嫌々書いて提出した。まったく苦痛でしかなかった、と言いたいところだが思い出すと何故か楽しかったことの方が先に出てくる。そこにも「今日は書くことがないので寝ます」とか「今日は何もしなかったので、なかったことにして、今日という日を未来のために貯金します」とか書いた。そんな感じのときに小学3年の日記が出てきた。

おぼえているもう一つのことは、ある日友達がおばあちゃん家に行こうと言ってきて、そのおばあちゃん家とは電車で一駅行ったところにあり、駅までは私たちの家は遠かったので、バスで向かった。しかし、バスはまだしも、電車を子供だけで乗るのは初めてだったので、切符を買って改札を抜け、そうすると階段の下にはもう電車が来ていて、早くしないと乗り遅れると慌てて飛び込んだら、それは上り電車であった。おばあちゃん家は下り方向だ。しかも運悪くその電車は特急で、方向が間違ったことにすぐ気づいたが、なかなか降りることはできずに3駅ほど飛ばして電車はとまった。
私たちはパニックになるのを堪えながら再び改札を出て再び切符を買い、駅員はもう一度切符を買え、というだけの不親切な男で、私は下り方面の駅名を必死でおぼえて、電車が来たときに、先頭車両の表示を読み取って、先ほどおぼえた駅名の中にそれがあるかを照合しながら、それでも実際に元の駅に着くまで、不安な気持ちは全く消えなかった。
ようやく見慣れた風景が窓に写り始め、私たちは駅に着いてドアが開くともう夕暮れ時であり、そんなことはどうでもいいからとにかく早く電車から降りたくて、私は力関係でいくと1番下なので、最後方で降りるのを待っていたら、2番目の少年が電車とホームの隙間に落ちた。しかし上半身が引っかかり、周りにいた大人たちがみんなで引き上げてくれたので、大した騒ぎにはならなかった。私は落ちる瞬間の彼の泣き声を、今でもおぼえている。やっとのことで、帰ってこれて安心したところで落ちたのだから、気の毒だと思う。よく考えてみると、私は落ちた彼の表情も見ていたから、私は先に降りていて、順番は2番だったのだ。いつからかその力関係は変わり、4年になると私はその落ちた少年からイジメを受けるようになった。

そしてその帰り道に私たちは「今日のこと絶対に日記に書こうぜ」と言いあってわかれた。当時の私たちは、日記に書くネタに飢えていたのである。
しかし実際に書いたのは私だけだったのかもしれない。翌日私以外の2人は、担任に席まで呼び出され、私の日記を開いてここに書かれたことが事実なのかきかれていた。もしかしたら説教だったのかもしれない。私だけは呼び出されずに、少し離れた位置から2人と担任の様子を眺めていた。どうしてそうなのかは、全くおぼえていない。