意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

新しい本屋にきた

私の住む市内に新しい本屋ができたので、やってきて、買うつもりはなかったがやはり3000円くらい使い、今はコーヒーを飲んでいる。
先に家族が行っていて、私はどのくらいの規模かと聞いてみたが、妻は本など読まないのでわからない、と答えた。娘は迷路みたいだと言っていた。
私の住んでいるところは、一応ショッピングモールもあるのだが、他のモールよりも規模が小さい。だから本屋も期待はできないのだが、入ってみると思ったよりも広かった。私は妻に昨晩借りたDVDを返すように頼まれたのだが、返却口がなかなか見つからない。妻が本を読まないのと同じように、私は映画をほとんど見ないのだ。
一回りしてみると、結論としてそこまで本の量は充実していないことがわかった。今は百田尚樹と、嫌韓ブームだからそれらの本はたくさんあるが(どこも同じだけど)新書や専門書のコーナーはそうでもない。私の好きな作家をいくつかチェックするが、せいぜい1冊あるくらいである。私の要求が強いのかもしれないが、他のモールに併設された同系列の本屋では、4、5冊あった。
娘が迷路みたい、と言ったのは本棚の置き方が少し変わっていて、袋小路みたいになっているところもある。これは、より本がたくさんあるように見せる工夫なのではないかと思った。

とまあ本屋のレビューのようなことをやってしまったが、この本屋の名前を出さずに、「同系列のーー」なんて回りくどい書き方をしてしまったのはなぜだろう? ここで書いた書店とは、蔦屋書店である。私の住んでいるところが特定されるのを恐れての行為か? それとも蔦屋の抗議? 
このブログはご丁寧にアプリを立ち上げるとトップ画面で、本日の閲覧数が表示してくれるが、それは大抵0か2である。それではときには2人の人が見てくれている、と取れるかもしれないが、それはGooglebotであるとか、ただのプログラムがアドレスを踏んでいるだけの可能性が高い。それともそういうのははじく仕様なのか? 私にはわからない。しかし、ほとんど0の読者の心象を気にしながら書くのは、滑稽だ。

平日にも関わらずレジは混んでいて、いや、これは相対的に店員の数が少なくて、決して混んでいるわけではなく、結局のところ、いつ店に行こうが、私たちは同じだけの時間を消費させられる。私の1番そばのレジでは、中年の女が会計の端数の小銭を財布から出し、まるでそれが店に対する気遣いであるかのように恩着せがましく、1円玉を皿の上に出し、その気持ちを汲んだ店員が「ありがとうございます」なんて言っている。私は昔コンビニでバイトをしていたが、小銭をたくさん出す客など鬱陶しいだけである。だが、それが鬱陶しいと知るより前に、消費税は導入されていて、それと同じ光景を私は子供のころから何度も見ていた。
私の大叔母、祖母の妹は、財布から小銭を出す際、いつも「○円あげる」と言っていた。私は子供心に商品の対価として代金を払うのに、あげる、はないだろうと思ったが私はしたたかな子供だったので黙ってその光景を眺めていた。その大叔母は数ヶ月前に施設に入れられた。歩いていてよくつまづくようになり、このままでは骨折してしまうから、という理由らしい。私は母からその話を聞き、母は結婚したときに大叔母の家を出て、さらに今では私も母と離れて暮らしているから、この施設に入れられた理由、は正確性を欠く。施設というところは、買い物の自由はあるのだろうか、おそらくないだろう、と思ってようやく私の順番がきた。