意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章力とはなんなのか

http://togetter.com/li/686586

私はラノベは読まないが、普通の小説を読んでいて、ここに出てくる鉤括弧の畳用というのは見たことがある。ところで畳用、とは「たたみよう」と読むのか、「たたよう」だろうか? 私の日本語力はこの程度である。
ただし私が読んだ小説では、何人かが同時に同じ語を言ったのではなく、登場人物がセリフを言っている中で、それはお話でその中の登場人物がセリフを言うので、カッコの中にカッコが登場するのである。そのセリフが、あまりに長いので、私は途中でセリフであると言うことを忘れ、そして最後に続けて閉じカッコが2つ続けて出てきたのでびっくりし、これは誤植ではないかと疑ったが、読み直してみると対応する始まりカッコは同じ数だけあった。
何が言いたいのかと言うと、何度も読ませる小説というのは、こういう小説である。私たちが小説を頭から読み直すのは、決して面白いからではなく、わからないからである。もちろん面白ければ尚良いが、面白くてわかりやすかったら、もうその小説には戻れないのないのである。ただし、そういう小説の方が売れるだろう。

だから、このURLに登場するラノベ作家の主張には、プロとしてやっていく、とか食っていくための文章力、とあるので、それは売れることだから鉤括弧の畳用は難しくて読み手が混乱するからやめるべきだ、と言っているのだ。たしかに鉤括弧をいくつも並べるのは掟破りで陳腐だ。しかし陳腐な話を書く、というのであれば、それは間違った選択ではないのだろうか。

ところで、文章力とはなんだろう。近い意味の言葉として、演技力、というものがある。よく棒読みの演技というものがある。文章力がないというのは、演技でいえば棒読みのセリフということだろうか。棒読みされている台本のセリフとは、決して棒書きされてはいないのだろうから、逆に考えると、棒読みでない演技を描写すると棒書きとなり、文章力がないということだ。
つまり、文章力が高い小説を書くには、下手な演技を描写する、自然に見たままを書こうとすれば失敗するという教訓である。

ところで、宮﨑駿の風立ちぬについて、主人公の声をやった人は素人なので、セリフも棒読みでひどい、という話を度々耳にしたが、私はそうは感じなかった。ひどいと思った人は、素人ということにこだわりすぎてはいないだろうか? と今一度自問してみてほしい。
少し前に山下清の日記を読んだが、あれこそ素晴らしい文章だと思った。山下清はプロの小説家ではない。プロとは、文章力とか、そういうのを捨てていく人のことだ。