意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

車のような顔

昨日(たしか昨日の記事でも一昨日のことを書いた気がする。私はいつも、普段考えていることを書かずに、できるだけすぐ前の出来事を書きたいと思っている。それは、このブログを始めてから気づいたが、考えていることを書くというのは至難の技、ほぼ不可能ではないかと思うようになったからである。その理由について、私は次のように考えた。つまり、思考とは文字であるが、文章ではないのではないか、という考えである。

私は例を出そうと思って今、昨日のことを思い出そうとしているが、そう言えばそもそもこの記事は、最初は昨日のことを書こうとしている。要約するとこういうことである。つまり「顔のような車というのは存在するが、車のような顔というのは存在しない。それはつまり天皇と国民の関係のようなもので、天皇は国民の象徴であるが、国民は天皇の象徴ではないのである。ちなみに天皇と国民のくだりは、村上春樹の小説からの引用というかそういう話のシーンがあったのであり、決して私のオリジナルではないことを、付記しておく」というものであった。なぜこんな話が出たかと言えば、昨日の朝通勤をしていたら、前をフォルクスワーゲンの古いビートルが走っていて、それが顔に見えたからである。そして、その時に考えたこととは、さっきの鉤括弧の中で書いたこととはまるで違うのである。思考とは文字である。まあ文字に付随する映像とか音はあるのかもしれない。でも文章ではない。だから、こうして文章にすると、どうしてもずれが生じる。なぜなら文章を組み立てるのには、文章用の思考が必要であり、思考は絵の具みたいにすぐ混ぜあって違う色になってしまう。


それならば、そのズレを限りなく小さくして、頭の中の思考や記憶を正確に再現するのが、文章力、文章の上手い下手ではないか、という意見が聞こえてきそうだ。しかし、それは私にはラッパでピアノの音を出そうとしているような気がしてならない。


私は先ほど絵の具を比喩に出したが、この考えは、絵にも応用できるだろうか? 写真はどうか? 写真の方が文章にずっと近い気がするが。写真については機会があったら書きます。)