意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

知人

大学生のころ、東武東上線という電車に乗っていたら、座っていたのだが、向かいに中年の女が座った。女は黒い髪が短く、メガネをかけていて、なんとなく私の母親に似ていた。電車はいくらか混んでおり、座るところはいっぱいで、立っている人もいて、その立っている人越しに、私は女を見ていた。
母親に似ているから、女に親近感を覚えたのかもしれないが、ところで、私の母親は私が子供のころは確かにメガネをかけていたが、最近では全くかけていない。眼鏡をかけた母親というのは、同じ境遇の人ならばわかるだろうが、眼鏡をかけていないときには、果たしてこの人は自分の母親であったかと、混乱をする。眼鏡をかけていないときというのは、すなわち寝ているときであり、たまに母が昼寝をしていて、私だけが起きているというシチュエーションであり、そんなとき私は落ち着かない気持ちになった。一方私の視力は衰え知らずだ。寝ている母親の枕元には、読みかけの本と眼鏡が置いてあり、私は母が寝ている横で、こっそり母の眼鏡をかけてみた。普段起きているときに、眼鏡をかけようとすると必ず「目が悪くするよ!」と怒られたものだが、今思うと、それほど強く言われなかった気がする。私が眼鏡に興味を持ちながら、かけたりしなかったのは、単に私が聞き分けの良い子供だったからである。私は母が寝ている横で、意を決して眼鏡をかけてみたが、眼鏡をかけている自分の顔というのは、自分では見ることができないので、イマイチ盛り上がらなかった。しかし、眼鏡をかけていようがいまいが、結局自分の顔を見ることなんて、できないのである。

話を戻すが、東武東上線の中年の女の話であるが、徐々に私は実際にこの女と会ったことがあると、確信するようになった。しかし、どこで会ったのか思い出せないが、そのうちに学校の食堂のご飯をよそったりする人だと思い当たった。1度思い当たればなんてことはないが、それまでは、かなり親しい間柄なのに思い出せず、また向こうから話しかけてくる気配もないし、もしかしたら気づいていないだけかもしれないので、こちらも顔を伏せておいたほうがいいかもしれないとかあれこれ考えた。実際には食堂で顔を合わせるだけで言葉など交わしたことはないので、なにも気まずいことはなかった。いや気まずいのかもしれない。
なんでこんな話をしたのかと言えば、今日は娘の幼稚園の夏祭りがあり、娘はすでに小学生であるが、このイベントは卒園生も気軽に参加できるものらしい(実際には地元の中学生とかもいる)私たちは車で行き、雑草の生い茂った臨時駐車場に車を停めた。そして焼きそばの屋台のテントの下に、どうも知っている顔があるものの、それは年老いた男で、年老いたと言っても背筋はぴんとしたがっちりとした男で、でもどこで会ったのか思い出せない。やがて思い出したら、幼稚園のバスの運転手であった。私は去年1年間バスに乗る娘をほぼ毎朝見送っていたので、このバスの運転手もほぼ毎日見ていた。しかしただ運転するだけが彼の仕事なので、言葉をかわしたことはない。この辺りも前述の食堂の女と同じであり、こういうことは残りの人生で何度かあるのかもしれないと、今書きながら思った。