意味をあたえる

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南半球の死

百年の孤独という小説を読んでいて、小説はなんでもそうだがよく人が死ぬ。しかし最近はあまりそうじゃない小説もよく読み、それでもやはり何人かは死んだと思う。しかしあまり意味合いが違うと思う。

私たちは先進国に住んでいて、あるいは私だけなのかもしれないが、私の周りで近しい人が死んで、その人数は10人に満たない。ちゃんと数えたらもっといそうな気がするが、忘れてしまったのなら同じことだ。同い年とか同年代に限れば今2人しか思い浮かばない。関係ないが義理の妹は友達を交通事故で亡くした。その友達はちょっと買い物に行くつもりでスクーターの鍵を回し、家を出てすぐ国道なのでそこでトラックにはねられて死んだ。夏だったので自室には冷房がつけられていて、家族がその電源を切ったのは1週間後だった。これは途中からフィクションである。正確にいつ冷房を切ったのかなんて、私が知りようがない。1ヶ月、と最初に書こうとして、これはつまり私の自意識というか心の贅肉みたいなもので、慌てて1週間に切り詰めた。それだってまだまだシェイプアップが必要だ。つまり私にとって死とは、このようにしか捉えることができない。

百年の孤独南アメリカの作家が書いた小説である。私は保坂和志という小説家の本の中で「北半球の小説ばかり読んでないで、南半球の小説も読むべきだ」とあって、たしかにそうだと思った。関係ないが漫画カイジの中で兵藤和尊が、帝愛グループの総会かなにかでリスクヘッジの話をしていて、やはり北半球に資産を集中させるのはまずいと思い、オーストラリアドルにも手を出した、と語るくだりがあった。

ところで私はこの兵藤和尊という名前がすきである。読みは「ひょうどうかずたか」である。「ひょうどう」はともかく「かずたか」がいかにも小学生のようで、外見とバランスが悪くて良い。しかも最初に出てきたときに、カイジ
「兵藤かずたか」
とフルネームで名乗るのである。これが不自然で仕方なく、私たちは大人になるとなかなかフルネームで名乗る機会がないことに気づかされるのである。これも私の記憶からのエピソードであるが、子供の頃、子供と言っても小学高学年か中学生くらいのときの話だか、親が不在のときに小包が届いたことがあった。受け取りの判子を押さなければならなかったが、私は勝手がわからず、戸棚のそれっぽいところを探しても小銭ばかりが出てくるだけで判子が見つからない。仕方がないのでその旨を配達人に伝えると、
「じゃあサインで」
と言われた。だから判子っぽく苗字だけを書いたらフルネームでないと駄目だと言われた。私は名前の方は小さい字で書いた。それから10年か20年が経ち、多分そのとき以来で判子がなくてサインをすることになって、私はフルネームのエピソードは鮮明に覚えていたので最初から書いたら、
「フルネームで書く人は初めてだ」
と言われ、随分丁寧な人だみたいにいわれた。当然私の方は混乱し、「昔フルネームでかけって言われたんですよ」と言おうとしたが、私はこういう時は早口になってしまうので、相手にはうまく伝わらず、相手はやがて帰った。