意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

すべてはお客様の満足のために

今から1ヶ月前はたしかiPhoneが壊れていて、日曜日になると朝9時頃に大宮に行きそごうのアップルのクイックガレージというところにいくと、思いのほかそのブースは小さく、しかし私は以前そこを訪れたことがあるので、もうそれほどは驚きはしなかった。

10時にはそこについたので、確か前にもこれは書いたがそのとき久しぶりにエレベーターに乗ったら気持ち悪くなった。書いた書いた。私はきほんこのブログで書いたことを見返さないので、すぐ忘れてしまうのだ。とにかくあのときは暑かったのだ。暑いときに、冬のことを考えると、例えば毛布2枚と掛け布団じゃ寒いんだよね、とか思ったことを思い出すと、あの頃の私は気でも狂ってたんじゃないかと思う。そして、冬は冬で夏を思い出し、半袖一枚で生活をするなんて、頭がおかしいとか思っている。しかしそう思う今は夏だ。いやもう秋だ。寒がりの私は寒いくらなので、長袖を着て寝る。

ところで私はいつも車を運転していて、みたいな書き出しが多いから、たまには運転されていて、という書き方をしてみる。その頃私は小学校5年生くらいで、担任は女だった。私の小学校ではとくにアクシデントでとない限りは5年と6年は同じ担任が受け持つことになっていたので、もしこの記憶が6年だとしても、やはり担任は女だった。夏休みになり海に行こうというので、海には毎年行っていたものの、何故か私は私の家族には海が似合わない気がして、似合わない、というのとは少し違うのだが、そもそも遠出するという行為がなんだか不自然で、私はなんだか、「遠出する自分」を演じてしまう。それは父親が仕事ばかりで家にいないせいもあり、父は同じ市内の大きな犬の絵がシリアスに書かれた看板のある交差点を左に曲がって、しばらく行ったところの障害者支援施設で働いていた。犬とは警察犬の訓練所の看板だった。

そして毎朝犬の看板を眺めている男の白い車に乗り、私たちは海へ出かけたのだが、途中で混んでいる道になり、車はあまり進まなくなった。車に乗っているのも飽きてきて、私は助手席だったのだが、そこの窓枠に側頭部を固定して外を眺めていると前方からくる車の、対向車のタイヤがぐるぐる回る様子がよく見え、その向こうはガソリンスタンドがあったのだが、そのうちに私は今私たちは目的地へ向かっているが、実は目的地の方が向かってきているような感覚にとらわれた。つまり私は常に固定されて動くことはなく、周りが活動写真のように風景を変えているだけではないか、と思った。そうすると地球が丸いことにも説明がつく。先ほどわたしは活動写真、と書いたがこれは実は走馬灯のようなもので、結局はどこかがつながっていないと、どこまでも遠いところが来てしまうからである。

しかし、この考えは遠く離れた人が同時に同じ目的地へ目指すと、目的地は一体どちらの方へ行くのか決められないから破綻する。