意味をあたえる

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昨日の夢に自分が出てくる

私はさっき仕事をしていたら、昨日見た夢について思い出し、それは私自身が出てくる夢であった。夢に自分が出てくるなんてとうぜん、例えば自分が虎となる夢というのは聞いたことがあるが、それだってやはり、虎であっても自分は自分である、とお思いかもしれないが、私の昨日の夢の場合、れっきとした他人として、私が登場したのである。

あるいは、登場させようとした。普段起きているとき、ひとは自分というものが見れないが、鏡なんかを使えば別かもしれないが、やはりそこは主観が入ってしまう。鏡は基本的に自分と目があった状態でしか見れないから、他人とは言えない。それなら動画や写真ならどうかという話になるが、それもリアルタイムな私ではないし、それなら電気屋さん、今でもあるかは知らないがビデオカメラのコーナーにいくと画面があって、そこに無防備な自分がうつっている。どこかにカメラはあるはずだが、画面を見ている限りは特定できないし、画面から目をそらし過ぎても、なにせカメラコーナーなのだからカメラは沢山あってなかなかアタリに辿り着かない。そこまできたら、もう他人から見た自分と言ってもいいかもしれない。しかし映像の自分とリアルの自分は違うのだ。

私は昔ドラムをやっていて、習ってもいて、そのときの先生が
「ドラマーは自分の生音を聞くことができない」
と言っていたことがある。ドラムとは叩いている位置と客席では全然聞こえ方が違う楽器なのである。だから、自分の楽器の音は、誰かに叩いてもらえば聞くことはできるが、自分が叩いた音は一生聞くことができないのである。私はその話を聞いた時、そこは川越市というところの地下にある音楽スタジオだったが、ドラムの椅子の上から向こう側へ、一瞬で移動する自分というものを想像した。音速を超える速さで向こう側へ行けば、聞くことは可能である。しかし、その間に自分の音と自分が交差する瞬間があり、そのとき自分の体によって空気が乱れ、音は消滅するのかもしれない。あるいはその空気の振動は交差した瞬間に耳に入って、聞こえてしまうのかもしれない。そうすると「向こう側の音」とはならないから、やはりドラマーは不幸なのかもしれない。

つまり自分の顔を見るというのは、そういうのに近いのかもしれない。それをふまえて、私は昨日の夢では過去の映像や写真の記憶を利用して、自分をなんとか他人のように見ようと試みたのである。試みたのだから、そのときの私は覚醒していたのかもしれず、そうすると夢ではなかったのかもしれないが、私は夢の中であれこれ考えていることが多いのである。