意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ボールをよく見ろ

さっきブログを書いていて、それは昨日からなのか朝からなのか、もっと前から考えていたことなのかは忘れてしまったが、朝デイリーヤマザキに寄ってアリナミン7を買って飲みながら、
「今考えたことを、急いで文章にしなければ、忘れてしまうな」
と思い、それから始業までにいくらか時間があれば、記事のひとつも書けるかもしれないと、非現実的なことを考えていたら今日もなぜだがお腹が痛くなってしまい、結局はなにも書けなかった。それからお昼になって、今日は休みがひとりいたから事務所でみんなでご飯を食べ、その数時間前に会社の資料室に備品を取りに行ったら資料室には鍵がかかっていて、事務の女性に声をかけたら開けてくれた。
「いつから鍵をしめるようになったんですか?」
と尋ねると、
「前からです」
と言われた。それよりも、私はいつも鍵がかかっているドアに遭遇すると不安なことがあって、実はこのドアには本当は鍵などかかっていないのではないか? ということである。読んでいる方の中でもおられるかもしれないが、ちょっとした引っかかりや、引いて開けるドアを押すドアと勘違いすることによって、実は鍵がかかっていないドアでも、鍵がかかっていると思い込んでしまうことはよくあることなのである。

だから、そのときは忙しかったこともあって簡単に、これは鍵がかかっているな、と判断したわけだが、事務所に3人いる事務員の誰となく声をかける段になったら、もっと強引にがちゃがちゃやれば、ひょっとしたらドアは開いたのかもしれないと、後悔をし始めていた。もしあいていたら、私はぼうっとしていたとか思われるのだろう。ちなみに資料室のドアにはノブを挟んで上下に2つ鍵穴があった。

同じような経験は今から遡ること28年前にもあり、そのとき私は小学校1年生で、梅雨時期の曇りの日の体育の時間、体育館倉庫から用具を取り出す際に、担任は倉庫の鍵を持ってくるのを忘れてしまい、私に職員室へ行って取ってくるよう頼んだ。私はその用件がちゃんと果たせるのか、今までにないくらいの不安に苛まれながら、前日の雨でぬかるんだ校庭を横切って職員室へ向かった。しかしその時は鍵があいていないと判断したのは担任だから、もし最初から鍵があいていたとしても、それは私のせいにはならない。職員室へ行ったのは私だが、まさか小学1年生が自分の判断で鍵を借りにくるわけないと、周りは思うだろうから、その時の私は、今日の私よりは気楽だったはずだ。

それから私は職員室前の廊下を行ったり来たりしながら、頭の中で鍵を借りる旨の文章を組み立てて小声で復唱し、突発自体で下駄箱を経由しないでここまできたから靴下だったので、私の足はつるつると滑った。私はそれが職員室前の廊下だからだと思っていた。意を決して中に入ると知らない教師ばかりだったがみんな親切で、鍵は無事にゲットすることができた。そしてその翌週の月曜日の朝礼では校長先生が、そのときの出来事を全校生徒に話し、
「1年生でもきちんと用件を言えるのだから、上級生もがんばるように」
とはっぱをかけた。私は即座に私の話が取り上げられたと喜んだが、私の名前は出なかったので、誰も私の出来事だとは気づかなかった。