読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

思い出そうとすると忘れる

村上春樹 読書瞬間
芸人は宵越しの金を持たないという言い回しがあるが、私は宵越しでここで書くネタを持ちたくないので、思いついたことはすぐに書いてしまいたいので書く。

しかしいざ書こうとすると忘れてしまうことがよくあります。今などはそうだ。いや、実は書こうと思っていたのは、「書く」というひとことのみだった……。

帰り道の坂の手前で、交差点でこちらが優先道路なのだが、とまれで止まっている車は、私から見て左側のとまれなのだが、車の側面がよく見え、私はそれがサンマに見えた。私はたまにサンマによく似た車を見る。あくまでサンマだけで、マンボウウツボに似た車、というのは見たことがない。そういえば中学時代に「ボリビア」というあだ名の女子がいた。

ボリビア」と名付けたのは男子であり、私はその男子と仲が良かったが、あるときにケンカをしてしまい、それ以来話もしなくなってしまった。いや、正確に言えば一度や2度はあったが、そのうちの一度は「アイダモデル」という模型店の店主が、モデルガンを本物の銃に改造して警察に捕まったという噂を聞いたときであった。私がボリビアの命名主にそのことを話すと、
「知らない」
と言われた。アイダモデルは店先にミニ四駆のコースが設置されていて、さらには店の前の道はとても車通りの多い道だった。ある日自分のミニ四駆を持った男の子が自分のミニ四駆をコースで走らせようとして、車にはねられるという事件が起きたが、これも噂に過ぎなかったのかもしれない。

2

よく村上春樹がエッセイなんかで、
「国語のテストの問題で、文章問題で「作者が言いたいことはなにか」というのがあるが、自分の小説でそんなこと言われたって言いたいことなどないのだから困る」という旨の文章があり、
私は自分の学生時代を振り返るとそんな問題はなかったから、それも噂の範疇であると思っていたら、去年の春、志津が中学生になって中間の国語のテストを見たら、
「この作者の思いが一番強く出ているのはどこか?」
という問題文があって、度肝を抜かれた。教師はこの詩人と(それは詩だった)友達で、実際に「思い」を確かめたのだろうか? ただ、作者が本当に「私が言いたかったのはこうなんだ」と語ったとしても、それを鵜呑みにしてはいけない。それは小説家や詩人が嘘つきとかそういう意味ではない。

3.大人の絶対、子供の絶対

子供の頃私の住んでいる家の前の道は、細い砂利道であり、そういえばさっきも模型店の前の道がどうこうと書いた。建物の記憶とは、すなわち道の記憶なのかもしれない。そこで私より6歳年上の人が近所に住んでいたのでやってきて、あるとき
「俺が本気で石を投げれば頭蓋骨を貫通できる」
と言った。私が幼稚園年長で、彼は6年だ。私はそれを聞いて怖かったが、6年生にもなればそんなこともできるのか、と少しワクワクした。しかし私の肩は大変弱く、それはボールをうまく投げられないのもあるが、6年生になっても、スポーツテストのボール投げでは、私はいつもペケかペケツーだった。それで一時期よく遊んだのだが、ある日の帰りに、
「明日は遊べるか?」
と聞かれて私が、
「遊べるかも」
と答えると
「かも、は遊べない可能性が高いから駄目だ。絶対、と言え」
と訂正させられた。すると不思議なことに次の日も遊べたのである。私は絶対という言葉に頼もしさを感じた。

ところが大人になってみるとそのイメージは真逆になり、それは絶対という人はまず信用できないのである。たとえば
「絶対あってます」
と宣言する人の数字はまず間違っている。「多分」とか「思います」の方が信用できるのである。これは「絶対」の人は、自分の自信のなさを隠すためか、あるいは自分の確認不足を正当化するためなのか、とにかくそういう風に自分を奮い立たせるために、絶対というのである。

4.

最近私は「曠野」という小説を読んでいるのだが、ようやく面白くなってきたところなのだが、人々が宿屋だか飯屋に到着すると、モイモイ・モイセーイチというユダヤ人が応対するのだが、冗談みたいな名前にびっくりしたが、よく読むとモイセイ・モイセーイチだった。どちらにせよ冗談みたいな名前である。しかしロシアでは普通なのかもしれない。モイモイ、と言えば私はモイーズ監督を思い出しそれは、去年のマンチェスターユナイテッドの監督で、そのときは香川選手もいて、香川選手が試合に出るのか出ないのか、私はいつもヤキモキした。香川選手については、私は海外青年協力隊にいそうな出で立ちだなあと、いつも思う。

子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)

子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)