意味をあたえる

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奉仕

http://nagatakatsukioekaki.hatenadiary.jp/entry/2014/09/26/075228

この記事を読んで、この方は絵に奉仕しているんだなと私は思った。私も文章に奉仕しなければならないど、常々思っているのだが、それはどういうことなのか、なかなか答えにたどり着かないのて、参考にしたいと思う。断食なんかいいんじゃないか。私は今まで断食をしたことがないから、きっと予想もしなかったことが起こるに違いない。

しかし、私が今断食をしたら、きっとブログに「私は断食をしている」と書いてしまうだろう。そうしたら、これは奉仕ではなく、裏切りになってしまうから、やはり私は断食しないだろう。参考にする、というのは単純に真似をすればいいという問題ではない。長田さんは、おそらく自分ひとりの力でそのやり方を身につけたのだから、私も自分で自分のやり方を見つけなければならない。

昔テレビである芸能人が、
「昔、1週間断食をしたことがあって、終わった後に出されたご飯と味噌汁の味が本当に忘れることができない」
と話していて、そうしたら一緒にテレビを見ていた父親が、父専用の座椅子の上で肘をつきながら、
「一週間も断食して、飯なんか食えるわけねーだろ。吐き出しちまうよ」
と言っていて、この人は水戸黄門までやった人なのに、なんて嘘つきなんだろうと思った。しかし、実際どう話したのかは覚えてないが、「味が忘れられない」と言ったのなら、そのあと吐き出したのかも知れず、そうすれば嘘にはならない。どっちでもいいが。

ところで、この記事を読んでいたら、このブログは絵に関するブログだったので、私は自分の中学の頃の美術の時間を思い出した。中学と言い切れるのは、私は高校時代は音楽を選択していたからである。あるとき、私たちクラスの面々が美術室でおしゃべりばかりしていたら、美術の先生がすごい剣幕で怒り出した。その先生は、4月の時点ではまだ違う先生で、その先生をA先生とすると、A先生は夏か秋に産休をとって、代わりにきたのがB先生で、A先生はとても優しかったから、私たちは当然B先生も優しいのだと思い込んでいて、おしゃべりしていたのである。そうしたら
「じゃかあしい!静かにせんか!」
と怒られた。ちなみにABどちらも女である。

ちなみにこれはまた別のときだが、あるときB先生はピカソの絵を持ち出してきて、それはよくあるピカソっぽい絵ではなく、若い頃に書いた自画像で、100人が100人「人の顔」と判断できる絵で、先生は、
「私はピカソの絵の素晴らしさはわかりません。だけど、ピカソはこういう上手い絵も書けるのです」
と言った。「上手い」というのは私の創作で、正確に覚えていないから語弊を招く言い回しになったが、そのときはあまり感じなかったが、今思えば、とてもひどいことを言ったのだと思う。

理由として、そのときの私のクラスは男20名女18名の、およそ40人のクラスで、この先の人生でピカソが好きになって、ピカソの絵の魅力を理解できる人はおそらく2人くらいだからである。それなのに、先生が残り38人の方の側に立ってしまっていいのか。「わからない」と正直に言うのならまだしも、わからないなりに解説書を読んで、その一部を読み聞かせたりするべきだったんじゃないだろうか。私の勝手な思い込みかもしれないが、美術の時間とは、絵を書かせてばかりで、ちゃんとした絵画を見る時間など、ほとんどなかった気がする。逆に音楽は割と、クラシックを聴いたり、というのが小学校のときからあって、高校では、よくミュージカル映画を流したりして、私がジーザスクライストスーパースターという映画を知ったのも、そのときだった。高3のときに時間が余ったとき、先生が
「なんか見たいのあるか?」
とみんなに聞いて、私は即座に
ジーザスクライスト」
とリクエストした。ジーザスを面白いと言っているのは、私以外はもう一人しかいなかった。ミスチルのライブビデオが見たいという人もいた。私はそいつは馬鹿なんじゃないかと思った。ミスチルなんか、ミュージックステーションでいくらでも見ればいいじゃないか。たしかにそいつは馬鹿なやつで、数学とかいつも赤点をとっていた。