意味をあたえる

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夢十夜、ふたたび

少し前に、いつも読んでいるブログの方が、夏目漱石夢十夜」に触れていて、それは第六夜の運慶が出てくる夢についてなのだが、それを読んでから、私は本棚から取り出して、読んでみた。


そうしたら、それまで私はいい加減に書いていて、「彫師のひとが」としか書けなかったが、この人は運慶であり、また、その他にも改めて読むと色々発見があった。運慶とは鎌倉時代の仏師である。


また、私が今、いまだに保坂和志を読み続けているが、それと重なる部分もあった。


新たな発見としては、まず運慶はかなり無遠慮に、無造作に仏像を彫っているのだが、夏目漱石は、そのことにとても驚くのだが、すると近くにいた人が「仏像を作り出すんではなくて、元々木の中に埋まっている仏像を掘り出すのだから、土の中の石を取り出すようなものだ(そのくらい簡単だ)」と教えてくれる。仏像を掘り出す、というのはすごくよく覚えていて、はっきり言って私が毎日こうしてブログを更新できるのは、この考え方、というかなんというか、を参考にしているからである。実際は夢だけれども、私は夢でも見ているかのようなことを書きたいから問題ないし、いや、私が言いたいのはそういうことではなく、自分から何かを作り出すなんてことは、ほぼ無理なんだ、という姿勢である。謙虚さというか。そうなると、このブログでも何度か引用した、保坂和志小島信夫の小説はその人ひとりが書いているわけではないというやりとり、もう書き写すのにも飽きたから、興味ある人は適当に遡ってください、にも通じるところがかって、私はただ自分に都合の良いように解釈しているだけだから、実際は通じていないのかもしれないが、みんな小説家なんだから、当たらずとも遠からずなんだろう。つまり、みんな自分の力なんかじゃ書いていない。しかしここまで、おさらいで、それで新しい発見とは、ひとつは「土の中の石を取り出す」という比喩のことで、これを私は勝手に「力まかせに」と読み替えた。だから、私は力まかせに書くのがいいのかもしれない、と思い力まかせがなんなのか、具体的にこうだとは言えないが、私は今力まかせに書いている。私は以前、このブログで「急いで書くのが良い」と書いたが、今もなるたけ考えずに、急いで書くようにしているが、しかしこれは考えてみると、短距離走の書き方だ。だから、このブログのひとつの記事はとても短い。これを小説にしようとすると、とても息が続かない。これを書いている間は呼吸もままならないわけだから。だから、力まかせを、長続きさせる方法を、これから考えなければならない。考える、というのはもちろん、具体的なテクニックを編み出すとか、そういう意味ではない。


それともうひとつ発見があって、運慶の土から石を取り出す作業を見た夏目漱石は、それなら自分でもできるはずだと、自分の家の、この前の嵐で倒れた樫の木を薪にしようとほっぽってあったのを、ひとつひとつ彫って行ったが、どれにも仏像はいない、ところで、この自分で仏像を探すくだりでの、嵐で倒れた樫の木、という書き方がいかにも小説っぽい。私はここだけは、夢ではなく、起きている間に創作された部分ではないかと思った。しかし、おそらくこれも実際に夢として見られたのだ、創作であって欲しい、と私が願っているだけだ。


そうして、どの木材の中にも仏像を掘り出せなかった夏目漱石は、最後に「どうして運慶が今の世にも生きているのかがわかった」と結ぶ。これはちゃんと引用したわけではなく、今はもう隣でネモちゃんが寝てしまったから、部屋が暗くて本が開けないから、引用できないから、記憶で書いたから、ちょっと違う。