意味をあたえる

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安曇野・大王わさび農園

朝早くから出かけた。メンバーは私・妻・志津・ネモちゃんで、それと義母がいた。義母が最初はりんご狩りに行きたいと言っていて、私は別にりんごには興味がなかったからいつも一体どこでりんご狩りをしているのか、群馬県なのか長野県なのか山梨県なのかもはっきりしないのだが、いつも同じ場所だから幹線道路から折れて坂を登る車のぐあいだとか、建物の感じは覚えている。その幹線道路とは、旧道らしい。

しかし、2日くらい前になったら義母は急に安曇野に行きたいと言い出し、私は安曇野富良野の区別もつかないくらいだが、きっと遠いんだろうな、と思ってナビで軽く調べたら片道3時間はかかる。もちろん行きも帰りも私が運転だ。義母は私のことを運転手だと思っている。私は、子供のころから出かけるのがそんなに好きではなく、両親もそんな感じだったが、結婚してからは真逆になり、おかげで高速道路の運転にはだいぶ慣れた。今日は秋だったから、様々な虫がフロントガラスにぶつかって、粉々に砕けて行った。点々は残るが、元は蝶だったのか、トンボだったのかも定かではない。虫が可哀想だから、もっとフロントガラスに傾斜のついた車に乗りたい。傾斜がついたくらいでは大して変わらないが。

結局りんご園をキャンセルしてわさび園に行ったのだが、りんご園にも後から行った。安曇野インターで降りてわさび園に行ったのに、帰りは違うインターを指定されて、山をひとつ越えなければならなかった。そのインターは地元の人でしか読めないような地名のインターで、私はブログで書くために覚えていようと思ったが、やはり忘れた。山道を走っているうちに、私はすっかり参ってしまった。私が行きも帰りも運転手を買って出るのは、私が乗り物にとても酔いやすいという理由もある。よく運転する人は車に酔わないと言うが、私は山道などは、自分が運転してても酔う。ただ、運転しないよりかは、いくらかマシだから、運転する。

だから、わさび園では、入り口の横に川が流れていて、そこでやっているゴムボートに乗ったのだが、そこでも気を抜いたら酔いそうだったから、櫂をこぐことに集中しようとした。そうすると、私のすぐ前が義母だったのだが、義母は耳が悪く、そのためインストラクターの掛け声とは全然違うタイミングで櫂を水にめり込ませ、そのために私の櫂と何度もぶつかって、私はイライラした。しかし大した距離もこがないうちに、やがて休憩になった。そうすると「よかったら水に足や手をつけてみて」と言われ、私のはす向かいに座っていたネモちゃんは、身を乗り出すのだが、私は川に落ちるのではないかと、気が気でなかった。ネモちゃんの隣は志津で、志津はまだ中学生だから、ネモちゃんの裾を引っ張るとかそういうのができない。私が隣なら、がっしり腰をおさえるが、そもそも座る位置は係員が決めてしまったから、どうすることもできなかった。しかし、川、と言ってもそれは人工の川で流れも遅くて底も浅く、さらに私たちはライフジャケットを着用していたから、溺れ死ぬ可能性は低かった。だから、気が気じゃない私も滑稽なのだが、とにかく山の話とか、木の話とか、歴史とか、そういう係員の話は全く耳に入らず、早く終わればいいと思っていたが、やがて水車が近づいて来て、水車は3つあり、この水車はそれぞれ大きさが違っており、それは下流から眺めたときに、人の遠近感を狂わすためすであり、なぜそんなものを建てたのかと言うと、元は黒澤明の「夢」という映画のセットとして使われたものである、という説明を受け、それは大変興味深く聞き、ボートが終わった後も水車の方へ行って、見たりした。だから、私は自然に興味を持てない自分の感性を、ネモちゃんをカモフラージュにして隠していたのかもしれない。めちゃくちゃ強引な解釈だが、私はこのところ考えている小説のことの延長で、今日は自然物を注意深く見ようと思っていたのである。しかし、山だの木だの植物は、私にとって背景でしかなく、背景には名前がない。しかし、小説とそれ以外の文章を区別するのは、やはり背景なのかもしれないと最近改めて思うようになり、背景がないと、人ばかりであり、人というのは、それは物語の登場人物という意味での人だが、全員が自分の延長なのだから、なかなか目の前に出て来て他人のような感じがせず、目の奥に引っ込んだままになってしまい、そういうのは「これこれこうだと私は考えました」というのなら格好がつくが、考えてばかりではちっとも小説にはならない。