意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

死は生の対極にあるわけでなく……

朝からあれを書こう、これを書こう、と考えていたが、ほとんど忘れた。今はさっきの仕事でムカつくことがあって、むかつく、というのは相手が悪ければとことん相手を責めればいいのだが、もちろん心の中で。心の中じゃないとどうなるかと言えば、当然トラブルになるし、トラブルになったって、自分が正しければ主張を通せばいいけれど、自分が100%近く正しい、という場面はなかなかやってこない。でもたまにはある。

でも頭の中、心の中自分の中。なんでもいいけど自分の内側であれば、少しでも正しい確信があれば、自分が悪いとか考えずに、どんどん相手を罵倒しよう。自分の内側は、現実世界とは繋がってるかもしれなくても、現実の世界ではないから、無法地帯で構わない。

しかしそういう風に思っても割り切れない場合があり、今がそうだ。私は今、私自身のことを書いている。その証拠に、ここまで「私」という一人称が出てこなかった。やはり私は「私」を登場させて、自分と距離をとっている。それで、今はもう、私、と言っているからフィクションだ。一気に書きやすくなってきた。


朝考えたことに話を移すが、私が村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだのは20歳くらいのときであり、そこの冒頭のところで、例によって正確な引用ではないが、

「死とは生の対極にあるのではなく、生に内包されている」

というのが、わかった、というのがあるのだが、当然ながら話の中に明確な答えがあるわけではないから、私はそれがどういう意味なのかわからず、最近までずっと考えてきた。ずっと、というと1本の糸のように途切れず継続しているようなイメージだが、そんなことはなくことはなく、断続的だった。


それが最近になってわかった、というか、私のこのブログの、ほんとうに最初の方の記事のタイトルで「考えない、というのは考えるに含まれる」みたいなのがあって、そこに「生」をおきかえれば成立することに気づいたのである。例えば冷蔵庫にしてもそうで、冷蔵庫が壊れる、というのはひとつの状態であり冷蔵庫の対義語、または否定形は、冷蔵庫が存在しない、である。存在しない、というのは家にないとか、盗まれた、とかそういう狭い意味ではなく、冷蔵庫という概念が登場する前の状態だから、もうこの世界には、冷蔵庫の否定形はありえない。もしかしたら、未開のジャングルなどなら、発見できるかもしれないが。


関係ないが、未開のジャングル、と聞いて思い出したが、会社の人がアフリカ人はみんなマサイ族みたいな格好をしている、と話していて、そんなわけないですよ、と私はやんわりと否定をしたが、私がさっき喧嘩したのは、その先輩だった。