意味をあたえる

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記憶の石(3)

8しかし父はその日の仕事が泊まりであったから、母が私のアサガオについて相談するのは明日以降だった。私は父がなんの仕事をしているのかはよく知らなかった。泊まりの他には遅番と、遅出というのがあったが、それらの区別は私にはつかなかった。なんにしても、父はあまり家にはいない。日曜日も必ずいるというわけではなく、いても昼まで寝ていた。父は寝るときはパンツ一丁で布団にくるまり、父のタオルケットは黄色と青と白の縞模様であった。私はそれを見て外国の海を連想した。その外国の海の隙間から、褐色の肩が顔を覗かせている。私は色白だが、父は色黒だ。祖母の話では、父も子供時代は色白だったが、3時のおやつにキュウリやトウモロコシを食べていたら、自然と色黒になった。しかし私は野菜よりもお菓子のほうが好きだったから、色白のままだった。

9父の仕事場には、外の花壇の中央に大きな石があった。それはそこの施設長がこの建物を建てる際に、一緒に購入時したものであった。石の脇には径の小さい、つるりとした樹皮の気が植えられ、細かい葉の影が、石全体をまだら模様にしていた。石は施設長の部屋の窓からよく見えた。

10あるとき私は父の仕事場へ連れて行ってもらったことがあり、そのときは土曜日だったから、人はあまりいなかった。ねずみ色のデスクが所狭しと並べられた部屋で、父は何かを探しており、デスクの引き出しを上から順番に開け、下までくると再び上に戻った。それから壁際のロッカーまで行って、自分の扉を開けた。扉は長細く、きしんだ音を立てた。ロッカーと窓の間にはホワイトボードの予定表があって、そこには細かく予定が書き込まれていたが、私はまだ字が読めなかった。そのうち私は飽きてきた。
「外行っていい?」
「道路出るなよ。危ないから」
私が外に出たがったのは、飽きてきたのもあるが、知らない人と顔を合わせるのが嫌だという理由もあった。彼らからしたら、私が部外者だからだ。つるつるした玄関で靴を履き、外に出ると最初に目についたのは自動販売機だった。自動販売機はポカリスエットが売っていた。しかしディスプレイには亀裂が入り、そここら中に砂埃が入って汚らしく、本当に買えるのか疑問だった。施設は建物以外は駐車場となっており、駐車場は舗装もされていなかったので、全体的に埃っぽかった。普段は車でいっぱいになるのだろうが、その日は土曜日で人がいなかったから、父の車を含めて3台しか停まっていなかった。子供の私には砂漠が広がっているようだった。しかし、すぐ隣にはゴルフ場もあり、雑木林もあったので、まるっきり砂漠というわけではなかった。

11やがて私は「施設長の石」を発見し、私はそれに登りたい衝動にかられた。石の高さは私の背とだいたい同じだった。私はそこに登って周りを見渡せば、さぞかし良い眺めであることも理解していたが、それよりもただそこに手をかけ足をかけたりして、石全体を征服したかった。木の葉がつくる陰影が、石本来のでこぼこをカモフラージュして、私を挑発しているように感じた。しかし、それは花壇の中にあり、花壇の周りには柵がしてあった。柵は細く切った竹を曲げて半円状にしたものを地面にさし、それを少し重ねながら横に並べていったもので、重なっている部分は低くなっていて、私でも容易にまたぐことができた。だから私はそこを狙ってまたいだ。片足を突っ込んでから周りを見渡したが、はるか上空で旋回するトンビの鳴き声しか聞こえなかった。トンビの目から見た私は蟻のようだった。柵をまたぐとすぐにパンジーが植えられており、その畝を大股でこえると、石は目前に迫った。思ったよりも急勾配で、だから私はまずは端の方に右手をかけた。右のほうが、若干下がっていたのである。石の先が私の指に食い込んだ。私はその痛みを堪えながら右足をでっぱりにかけ、体全体を持ち上げた。その勢いで左手を伸ばし、頂点を一気に鷲掴みにするという作戦である。

12その時背後で声がした。

13しかしそれは気のせいであった。

14無理に振り向こうとした私は、その際にかかっていた右足が外れ、地面に落ちた。パンジーのことが頭をよぎり、なんとか左足を踏ん張り、尻餅をつくことは避けた。代わりに運動靴の大きな足跡が地面についてしまい、私はそれをごまかそうと周りの土をかけたが、ほじくった土は周りと色が違うから、バレてしまうのではないかと気が気でなかった。しかしこのまま花壇にいれば、元も子もないので、足の形だけ消すと、私はすぐにそこから離れた。砂漠には最初から誰もいなかった。

15私がその時右足の膝を大きく擦りむいたことに気づいたのは、やがて父が出てきて、車に乗って家に帰ってからだった。