意味をあたえる

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可愛い子には旅をさせろ2

昨日の記事についたコメントを読んでみると、私は「可愛い子には旅をさせろ」ということわざに対して、その意味を自分の中に定着させたくないのでないか、という風に感じた。つまり私は、自分の子に対し、すすんで苦労だとか試練だとかを与えようとは思っていないのである。

少し前にテレビを見ていて衝撃を受けたことがあって、それはヘンテコな親子を紹介するという番組の趣旨で、わがままそうな女の子が登場してきて、その子の部屋が紹介されていて、全体的にピンク色の女の子っぽい部屋となっていて、趣味の品々が紹介され、その隅の方に眼鏡をかけたショートカットのお手伝いさんのような、幸の薄そうな女性が座っており、その人がお母さんであった。その後、女の子のわがまま振りと、お母さんの過保護ぶりが紹介され、身の回りのことはもちろん一切しないし、好きなコンサートにも母親同伴で参加する。

それでスタッフが、スタッフのような口調で「こんなんでいいの?」みたいなことを尋ねるのだが、それに対し母親は「私も昔はこうだった」と答えるのである。こうだった、の中身は、母親も母親になる前は母親に過保護にされていた、という中身だ。

私はそれに衝撃を受け、それ以来甘やかすことは必ずしも人を駄目にしないのではないか、と思った。奇しくもその少し後で私は保坂和志にハマり、保坂和志は自分の猫を溺愛していて、私は猫を飼ったことがないから、溺愛の内容がイマイチわからないが、周りの猫を飼っている人が驚くと言うのだから相当だろう。また、別の周りの人が、
「保坂さんにもしも子供がいたら、毎日学校へついて行きそうだ」
と言い、本人もそうかもしれない、と何かのエッセイで書いているのを読んだ。

それから、自分の子供を甘やかすと駄目になってしまう、というのは本当はそうではなくて、駄目にしてしまうのには、また別の要因、あるいは複合的な要因があるのではないか、と考えるようになった。先入観なしで考えると、親に何でもやってもらった子供、なんでもやってもらわなくても同じだが、身近に親がいれば、いずれは自分もその立場になると考えるほうが自然ではないだろうか。言い換えれば、ゴールを提示し、それに向かう姿勢さえ身につけさせれば、もう手段は何でもいいんじゃないだろうか。

「ちっとも自然じゃない。わたしは親が嫌いだ」という人もいるだろうが、そういう人のほうが、もっとシリアスに自分が大人になったときのことを考えるだろう。親にならない、という選択肢も含めて。

最後に私が躾というものが嫌いになったエピソードを紹介するが、ある時、クリスマス会かなにかをうちでやったときに、妻の友達夫婦が車に乗ってやってきた。場が盛り上がってくると、窓には結露が付いた。ネモちゃんが調子に乗って玩具の車を乗り回し始め、うっかり妻の友人の妻のほうの手を轢いてしまった。どれくらい痛かったかはわからないが、それから友人は怖い顔をして
「今あなたは悪いことをしたんだから、謝りなさい」
と叱り、ネモちゃんは怖い顔にびびって泣き出し、もう謝罪どころではなくなってしまった。私は妻の友人の行為に腹が立ち、もし私本人の友達なら
「俺は悪いと思ってないのに謝るような人間にはなってほしくないから、謝罪を強要するのはやめてほしい。子供の行為は親の責任だから、もし不愉快な思いをさせたなら、こちらからは謝るよ、ごめんなさい」
と言うところだが、妻の友人という微妙な関係だし、それでも言いたかったが場がシラケるからやめた。結局泣きながらネモちゃんは謝り、子供を教育する職業の友人は満足して家路についた。

私は何が言いたいのかと言うと、「あなたのためを思って言ってるんだよ」みたいなのは心底うんざりだ、ということだ。