意味をあたえる

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小島信夫「うるわしき日々」4

唐突に、こんな文章が出てくる。

 

村上春樹河合隼雄に会いにいく』という本が最近出た。(p225)

 

 前回、小説の中に2人の「若い小説家」が出てくると書いたが、ひとりは保坂和志で、そのときにもうひとり出てくるが、それは次回に書く、といったまま、すこし時間が流れてしまった。そのときすでに私はもうこの小説を読み終わってしまい、今は付箋を貼った箇所を探し、急いで書き写した。一度付箋を貼ったら、貼った場所しか読まなくなってしまうので、村上春樹の登場は唐突ではなかったかもしれない。村上春樹ねじまき鳥クロニクル」が取り上げられ、そのあとこんな風に続く。

 

村上春樹の小説の主人公の相手は、なぜ自殺したり、消えたりするのだろう。

前々からそのことが疑問であった。この「うるわしき日々」の直接の作者である、小島信夫がそう思うのである。三輪俊介は小島信夫にそっくりであるが、何といっても小島信夫そのものではない。

村上さんの主人公の相手は、多分主人公に対して、心が通わない、本当のところの”わたし”を分ってくれない、と思うのであろう。そう思うのは、心が通うことができる、と一度は彼女が感じたからであろう。そう感じたのにそれは無理だと思ったとき、彼女は象徴的に彼の前から姿を消すのだろう。それというのも、彼がやさしくて心を包んでくれるとみえたからであろう。(p227) 

 私は、「村上春樹河合隼雄に会いにいく」は昔に読んだことがあったが、おぼえているのは、

「最近は全く夢を見ない」と言う村上春樹に対し河合隼雄が「そりゃそうですわな」と気のない返事をするところである。河合隼雄は関西人なのである。村上春樹も関西人であるが、関西弁を喋るというイメージがない。そこのところが、小説家と、心理学者の違いなのだろうか。

ところで奇妙なのは、本文中で村上春樹について思うのは、小島信夫である、と強調しているところである。三輪俊介とは主人公の名前である。この小説は小島信夫の身の回りに起こったことをそのまま文章に書き起こしているのだろうが、そしてそれは読み手も十分に了解している事項のはずなのに、こうしてたまに「三輪俊介と小島信夫はそっくりだが違う」と断りを入れるのである。小島信夫の後期の長編小説ではもうひとつ面白いところがあって、それは途中で作品の感想を言ってくる人が出てくるのである。これもフィクションでもなんでもなく、「うるわしき日々」は新聞連載であったから、それを読んだ友人が、電話をかけてきて、「魚がとびはねるような文章だ」と評したりする。こういうのをメタフィクションと言うのだろうか。メタフィクションといえば筒井康隆らしいが、私は筒井康隆を読んだことはないのでなんとも言えない。アマゾンのレビューなんかでは、メタフィクションを超えているなどと書かれたりする。私は単に「小島信夫らしくなってきた」と喜んで読み進めるのである。※引用部分をPCで書き、そのあとネモちゃんが帰る時間なのでスイッチを切って、車に乗ってスマホで書いていたら、どうにも調子が悪く、改行が思うようにできなくなったので、直すのが面倒なので、このまま更新する。なお、タイトルについて、今回は4で、3がないという人もいるかもしれないが、3はペットとの別れは悲しい、という記事を指す。