意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

Twitterを始めました

思うところがあって、Twitterを始めました。とりあえずPCを立ち上げ、アカウントをつくった後に、いつも読んでいる人のページへ行き、フォローボタンがあったら押しました。なかった人、私の方で見つけられなかった人で、持っていたら、良かったら、フォローしてください。IDはfktackです。この文字数では取れないだろうと思い「fktack-dayo」とか、「fktack-desuyo」とか考えたら取れました。よろしくお願いします。

と。これだけでは記事にならないから、ついでに、「比較的愉快な記事」というカテゴリをつくり、そこに面白そうなのを放り込んで行きました。これです。

比較的愉快な記事

さかのぼっていけば、私のイチオシ記事、「ウニマンについて」も読めます。もっと探せばあるのでしょうが、最初の頃はタイトルと中身がばらばらだったので、よくわかりませんでした。タイトルとは、こういう時のためにあるのですねぇ。

そうしたら、「父について」という記事を見つけ、たまたま昨日もタイトルで書いていて、わざわざ改めて書く必要もなかったと思った。

父について - 意味をあたえる

しかし、中身で私の父親に触れている箇所はまったくなく、書き出すまでは父について思うところがあったのだろうが、書き出したら違うことが書きたくなってしまったのだ。私は、ブログを始めた頃はこうしたことがよくあり、対応策として、カテゴリをタイトルとしたこともあった。ところでその中で理想の文章について触れた箇所があり、それは「書きかけで消えてしまい、半泣きで必死に記憶を辿りながら書き直す文章」とあった。私はこの考えは今でも変わらず、変わっていないからと言って、進んで実践しようとは思わないが。一昨日の記事で実際に記事が消え、私は悲鳴をあげたとあったが、それが滑稽だった理由は、本来は消えて喜ばなければならないのに、悲鳴をあげたからである。迷った挙げ句、私はその後に書こうとしたところから書き出した。おそらく、消すべき文章だったのだ。そんなの自分に都合よく解釈してるだけだろ、と言われそうだが、こういう部分がなければ、とてもやってはいられない。長い目で見れば、「もったいない」という考えは、その人にとってマイナスである。