意味をあたえる

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小島信夫 保坂和志「小説修行」

先日小島信夫「うるわしき日々」について書いたらコメントをいただき、私は返事を書いた。おもしろい指摘をしてくださったので、良かったら、読んでみてください。

そうしたら再び返事をいただき、その中で

「あなたは往復書簡のような形式で書いたらおもしろいんじゃないか」

と言ってくださった箇所があり、それはどういうものなのか、ということについて考えた。往復書簡なのだから、誰か相手を探してやることを指すのかもしれないし、「形式」とおっしゃっているのだから、そういう相手を想定して、ひとりで黙々と書くことを指しているのかもしれない。そういうこともおもしろいのかもしれない。しかしその前に私の頭に浮かんだのは、タイトルに書いた本である。これは小島信夫保坂和志の往復書簡をまとめたもので、「小島信夫 往復書簡」と私の脳内で検索すると一番にヒットする。もしかしたら、コメントの方は、その本にヒントがありますよ、と言いたかったのかもしれない。もちろん、本人の自覚関係なく。

p177より引用してみる。

 前回の保坂さんの書簡の部分を送られてきたあと、一度国立の喫茶店で会うことになっていたが、保坂さんはカゼをひいているので直ってからにしたいと思う、という電話があった。十年前ごろから会っていた国立の喫茶店「白十字」は、今はなくなった、とぼくはいった。「あの店の後ろにあったゴルフの練習所もいっしょにとりはらわれてしまって、新しい建物が出来るので、『白十字』は、近くに小さい店をこさえたところからすると、大きいビルが出来た折には、そこの一階に戻ってくる予定だと思う」とぼくはいった。そういうわけで、駅の南口の改札口あたりで待ち合わせることにしようということになった。 ぼくは前々から、「こんどどんなことを書くのですか」と小説のことをたずねるようなことはしたことがなかったように思う。ぼくの記憶では、会うとしても、保坂さんは、小説が雑誌にのったあとと決めていたようで、その方がお互いにいいと考えていたのであろう。処女作の『プレーンソング』のときからそうであった。この連載がはじまってから、第一回めの文をワープロの大きい字で打った原稿を読んだあと「白十字」で会った。

(中略)

 一年近くたって、今度は、一度会うことにしたいと保坂さんの方が言った。たださっきも言ったようにカゼをひいていてめずらしく熱がひかない、ということで、会うのが遅れた。南口の改札口から少し離れたところで待っていた。改札口の近くは混雑して乗降の客のじゃまになることがわかったので、ずっと離れたところに立っていた。

(中略)

 ぼくはいまふいに思いついたことなのですが、あなたが、「白十字」でお会いしたときに、カフカの『城』を読んでいて、自分は自分なりに、たずねて歩くところを小説にできないか、と考えているみたいなことを口にしていたような気がします。

(中略)

だから、言葉になってしまう前の段階を辿って行くような部分を書くというのであったら、どうであろう。保坂さんは「白十字」でぼくに言いたがっていたのかもしれない。

(中略)

 以上のことを、ぼく〈小島〉は、国立駅南口にある喫茶店で話したわけではない。

 引用おわり。

私が注目したのは、小島信夫が執拗に喫茶「白十字」のことを出す部分である。そんなに「白十字」は重要な場所なのであろうか。しかも最初の部分を読むと、「なくなった」とあるが、結局別の場所に移転しただけなのだろうか? その辺りも、時間軸も曖昧だ。

ここを読んで私が思ったことは、前々から思っていることでもあるが、例えば絵を書くときに、私は以前、スマホで画像をダウンロードしてそれを絵に書いたりしたが、そのときにはやはり枠であるスマホも書かないと絵として完成しないのである。例えば女の人の顔のアップを書く場合に、そうすると、アゴとか頭は画面の外に切れるじゃないですか? まあそれは実際にあった出来事なんですが、そうするとまず普通に考えれば、絵にしようとすると、見えないアゴとか頭をバランスを崩さないように想像して付け足すわけですが、自分が今しているのは「模写」だから、「想像」することがとても苦痛で、それによって模写という行為を放棄して、全体が「想像画」になってしまいそうでつらい。別にあらゆる絵画が光を自分の目、脳を通して手を動かすわけだから想像画である、という解釈も可能ですが、単に私は模写という作業が楽しいから、やっぱり曖昧な部分を書くのが気持ち悪い。舗装道路からいきなりぬかるみに入るイメージ。だから、最初はその女の人の顔は、頭とアゴがない状態で書き上げるわけだが、そのあとやっぱりスマホそのものも付け足して、ついでにスマホを持つ手まで書きたくなった。書かなかった。

小島信夫がどうして、あのような文章、小説を書くのかについて、私はわからないが、わからないなりに乱暴に書くと、つまり前段落のようなことで、小島信夫は「全体」を書かないと、書いている対象そのものも、書いたことにならない、と考えていたのである。だから、小島信夫からすると喫茶「白十字」について、きちんと描写しないと、そこで語られたことも全てないのと同じなのである。しかし、読者は結局「白十字」があるのかないのかも、よくわからないのだから、正確性には欠けている。それを「きちんと」と言っていいものなのか……。

私は、これとは別にもうひとつ思ったこともあったが、今日は珍しくパソコンから更新し、パソコンはヒーターから距離があって手先がとても冷えたので、ここで筆を置く。

 

※引用は中公文庫「小説修行」小島信夫 保坂和志

 

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西門

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