意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文体(2)

私が自分の文体について語ろうと思い立ったのは、一昨日のことか? 一昨日のことである。そこで私は本棚から「文學界」という雑誌の2012年6月号を取り出した。私の本棚は寝室にあり、茶色くて細長い。文學界はしばらく畳の上で放置された。

もう一度このカテゴリーの狙いを説明すると、私はこの場で自分の文体に影響を与えたと思われる小説などを取り上げ、私の文体が、決してオリジナリティあふれるものではないことを、皆に知らしめたい、という、裏返った自己陶酔である。

引用します。

07

 わたしな「下の浜」とここらに住む人たちが呼ぶ、大きな港のはしの埠頭の根元にいる。昨日は雨だったけれど今日は晴れている。左に製鉄所とたくさんの煙突が見えて、右に父がいる。父は大人で大きくて力も強い。わたしは七歳で小さく力も弱い。
 わたしたちは釣りをしている。わたしたちの前には釣竿が二本並んでいて、家から乗ってきた自転車が後ろにある。その後ろはコンクリートの壁で、壁の向こうに何があるのかは知らない。遠くに山があるのは知っているけれど、ここにいるわたしからは見えないし、山の向こうが何なのかも知らない。父がたばこに火をつけて立ち上がりわたしから離れた。父はポケットに手を入れてどんどん小さくなる。父は岸壁からからだを乗り出して海をのぞいたりしながら歩いていく。今ではわたしの人さし指ぐらいしかない。わたしは人さし指を立てて父をかくしてみる。父はもう見えない。カモメがわたしの上を飛ぶ。ここでカモメを見ることはほとんどない。
 父は昨日工場をやめた。そのことで父と母はケンカをした。大きな音と父のものすごい力で家中がぐるぐるとまわった。雨漏りを受けていた洗面器が飛んで水がこぼれて、三面鏡が割れた。母が父に蹴られて
「痛い痛い」
 といい、妹が大声で泣いた。父に髪の毛を掴まれてなげとばされた母の大きな足がわたしの太ももに当たって、すぐに赤いアザになり、青くなり、今も青い。そしてものすごく痛い。もしかしたら折れているかもしれない。腕にも青いアザがあるのをさっき見つけた。そこではわたしの細い血管がやぶれている。そしてそこから血が少しずつ出ている。
 釣竿の先につけてある鈴が鳴った。わたしは鈴をランドセルにもつけている。それは祖母にもらったもので、わたしが歩くたびに鳴る。鈴をくれた祖母は父の母で近くに住んでいる。鈴の音が止まった。遠くから船の汽笛が聞こえた。鈴がまた鳴って、鈴のついていた竿が海に落ちた。魚がひいていたのだ。父がいたあたりを見ても父はもういない。わたしはひとりで竿をひろわなければならない。わたしはもう一本の竿を上げて、その先につけている針で、落ちた竿についている糸を引っ掛けて拾い上げようとした。竿にはリールがついていたから早くしないとリールの重みで沈んでしまう。仕掛けの先にはサバがいた。思うように動けなくなったサバの心臓は動きが悪くなりはじめていた。サバは泳いでいないと死んでしまう。わたしは身を乗り出した。岸壁のへりにいたカニの目に、真上にあらわれたわたしがうつった。見ている先を派手な色の魚が通過した。ベラだ。ベラはとても骨が硬い。昔はこのすぐ沖までクジラがきた。父も母もまだ生まれていないずっと昔だ。赤いビー玉が頭の中に見えた。

(「文學界」2012年6月号p176)

ずいぶん長く引用したので、私は骨が折れた。これは山下澄人の「ギッチョン」という小説の冒頭である。私はこの小説を読んで、自分の小説観が、がらりと変わってしまったので、それを伝えたくて引用した。もっと細かく説明すると、引用箇所の最後のほうの、サバとカニが出てくるところである。私はそれまで、小説とは、主人公というものをひとり決めたら、それはもちろん場面でちがう人に入れ替わってても良いが、その場面では主人公の見た風景、感じた心情しか綴れないものだと思っていたが、それは単なる思い込みだった。それに気づかせてくれたのが、本文中のサバとカニだった。しかし注意深く読むと、カニの目、というのはそういう比喩ととらえることもできるし、比喩ですらないのかもしれない。だけど、カニの目にベラの派手な色が映るのは鮮やかだ。カニの目は小さいから、宇宙から見た地球のようなのかもしれない。そしてサバの心臓。私は、小説とは、自分で考えるよりも、ずっとなんでもありで、自由だということを知った。2012年だから、まだ二年か三年前の話である。(六月号と言っても、私が六月に読んだとは限らない。そもそも六月号が六月に出た試しがない)そのあと、山下澄人の「緑のさる」という小説を買ったら保坂和志との対談が付録でついていて、そこで保坂和志に興味を持って保坂和志の本を読んだら小島信夫がでてきて、それを読んで今に至る。

ここまで書いたところで、妻と志津とネモちゃんが帰ってきて、彼女たちはコインランドリーに行っていた。私は二階にいたが、二階に来たのは妻と志津だけだった。志津は、私がほっぽった文學界を手にとって挿し絵にサンマの頭をしたご婦人の絵が書かれていたのでそれに興味を示したが、私は表紙などまともに見たことはなかった。

そこで、私は興味を起こし、さっきの引用箇所を読んで聞かせてみることにしたが、2人は早々に飽きた。志津は次の生理の日を数えだし、妻は
「そこまで読んで面白いの?」
と朗読を遮った。「面白い」と私は強がって言ったが、まだ一ページも読んでいないのだから、面白いもなにもない。しかし、そのあと「三面鏡」と、「アザが青くなり、今も青い」というところで噴き出した。

(続く)