意味をあたえる

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若林奮「I.W――若林奮ノート」

坂を登り切って視界が広がった時、右前方にとがった山が二つ見えた。右は近く左は遠方に相似形であった。目的地の確認は再び地図によらなければならなかったが、道はその山の方へ向かって円を描きながら行ってしまうので、あたりの地形よりむしろ道によって高さをはかり、位置を知る事になった。同じような形の非常に特徴的な二つの赤い山が目の前に近づきつつあるのは不思議なことであった。次に一方の山は遠くなり、一方はやがてすぐ目の前にあり、金属とゴムとガラス、水、ガソリン、オイル、食糧、衣類、動物性の種々の物は一箇所に引き寄せられた。ここは南東の方の極であった。

(p154 書肆山田)

朝起きて、それは平日よりも遅い時間であったが、ヒーターの電源を入れ、それが熱風を吐き出すまではしばらくの間があり、熱を逃さないよう、私は小さくうずくまっている。手には若林奮があった。若林奮とは、彫刻家であるが、私はその人の作品を見たことはない。この本は保坂和志の本で引用されて気に入り、同じ本から私は三冊の本を購入したが、これが抜群に面白い。文章が面白い。しかしながらまだ半分しか読んでいない。面白いと思いながら、一回にせいぜい3ページとかしか読めない。寝る前だと数行でギブアップする。しかも最近は違う本を読み、ベッドの横に放置していた。ベッドの横にはプラスチック製の、軽い、脚立があって、私はそれをサイドテーブル代わりに使っている。妻がベッドのまわりに物を置くことを嫌い、だからそれは例え台のように置かれても、あくまで仮の場所なのである。

私はこの本に関しては、読み終えてしまおうという欲求があまり起きない。それは小説ではないという気楽さ(ロラン・バルトの回で触れた)もあるが、面白さに対する信頼があるからである。私は、現在複数のブログを購読しているが、そのうちのいくつかは、途中までしか読まない。もちろんつまらないから、という意味ではなく(もちろんあまり読んでて気分が良くないものは中断する。しかし私は大抵のものは最後までは読む。あるいは目を通す)、逆で、面白いから気持ちが少しでも離れた箇所で、潔く離れられるのである。料理に例えると、一番おいしいところだけを食べて、あとはお皿を下げてもらう、というのに似ている。実に贅沢な読み方だ。もちろん、読み手の食べきれる量に配慮したものが、つまらないという話ではない。

「I.W――若林奮ノート」は、彫刻家が、人類最初の絵を見ようとして旅をしている話らしく、いろんな洞窟などにもぐって壁画、というかそれ以前の壁に付けられたひっかき傷が交差して横向きの人や獣に見えるのを、見て回っているのだが、芸術家らしいと思うのが、たまにはそこにたどりつけなかったり、また、セザンヌの家だかアトリエに着いて、中に入らなかったり、というのがあるのである。だから、価値観というのが、完全にフラットになっていて、それはもちろん芸術家以外の人から見たらフラット、ということで、セザンヌが住んでいたとしても、それが家にしか見えなければ、家畜小屋でも同じということである。あるいはこういう人たちには「せっかくだから」という発想なんてなく、セザンヌが描いた山を見て、そこに何かを感じたら、もうアトリエを見たところで同じか、むしろ山を見たときの印象がぼやけてしまうから、もう見なくていいや、となるのかもしれない。