意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

もしもを考えても意味がない

昨日は私も休みだったが、妻も休みだったのでお店でスパゲティを食べてから買い物へ行き、そうしたら時間がなくなって、それでも妻はスポーツ店で靴の試着とか始めてしまい、私は苛々した。時間がないというのは、ネモちゃんの帰りの時間に間に合わないという意味だ。でも結果的に間に合った。

小学生は班ごとに歩いて帰ってくるので、別に迎えにいく必要はないのだが、家の位置の関係で、途中からネモちゃんはひとりきりになってしまうから、私たちは最初のうちは慣れないからと言って、途中まで迎えに行っている。もうすぐ一年が経つ。

最初に述べたが、昨日は夫婦揃って休みだったので、私は自分一人で迎えに行くつもりだったが、妻も行くというので、妻の車で、店から直接迎えに行き、病院の駐車場に停めて、ネモちゃんが歩いてくるのを待った。病院の建物はまだ新しい。少し早く着いた。

すると、右側からヘッドギアをつけた、男か女かわからない人が歩いてきて、妻が
「あの人てんかんなんだ」
と言った。地元では有名らしい。私はそこは私の地元ではなかったから、知らなかった。てんかんの人は、私たちを睨みつけた。「聞こえたかな?」と私が言うと「窓しまってる」と妻。しかし、聞こえていたのだろう。やがて少し距離を開けて、腰の曲がったお婆さんが歩いてきた。彼女が、てんかんの人の母親だった。母親の向こうは畑があってビニールハウスがあり、その向こうは国道だ。
「ずっと、面倒見なきゃいけないから、大変だよね」
「でも、幸せなんじゃない? 親子ずっと一緒にいられるんだから」
妻の言葉に憐れみを感じた私は、とっさにバランスをとるようなことを口にした。これは私の癖だ。

今日になって仕事をしながら、あれはきれい事とか、詭弁なのだろうか、と考えた。そういうときに行う代表的な自己診断が、
「それじゃああなたは、もしあの腰の曲がった母親と立場を代われるなら、代わるの?」
という自問だが、こう聞かれてしまったら、「代われない」と答えるしかない。「代われる」と答えることもできるが、答えたところで、「嘘だ」と言われてしまえば、反論のしようがない。だから、この場合の答えは最初から「代われない」しかない。

だから私はこっそりと、もしも代わったら、という想像をしてみるが、最初は勢いでいけるが、長く生活していれば、必ず、自分の選択を悔いるときが来るだろう。だから、もしもでいくら考えても、意味がない。

ここまで読んで意味がわからない人のために、補足するが、私は腹の底では「代わりたい」と思っている。むしろ、自分の子がてんかんでないことに、悔しさを感じるくらいだ。しかし、いくら言葉を尽くしても、それは全部嘘になってしまう。私自身でも、いくらなんでも言いすぎだと、引いているくらいだ。でも、そういう風に思っている私は確かに存在していて、いつかは自分自身を説得する言葉を得るだろう、と思っている。あるいはそれは勇気の問題なのかもしれない。