意味をあたえる

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やっぱり個の手触りについて考える

昨日の記事で「個の手触りについて自分が書けば、本質から遠ざかるから書かない」と書いたが、今日になってもちょくちょく考えてしまったので、記事にしようと、私、は、思っ、た。「記事」の部分を太字にしたのは、誰かがリンクしてると勘違いして、一生懸命クリックしてくれたら愉快だなー、と思ったからだ。このブログはいつだって遊び心満載なのである。

私は高校三年のときに「もののけ姫」が上映され、地元の映画館に友達と観に行った。多分8月24日くらいだったと思う。私たちは高校生だったので自転車で行った。映画館に到着する頃には汗だくになったが、朝一番の回に合わせたので、それほど汗はかかなかった。何故朝一番の回にしたのかと言えば、とても人気のある映画だったから、立ち見になることを危惧し、だから九時過ぎに上映開始だったが、おそらく私たちは八時半には映画館に到着した。8時ころに待ち合わせをし、待ち合わせ場所は、私の家の方が映画館に近かったから、私の家になった。

八時半に到着してまんまと席を確保した私たち。しかし、いくらもしないうちに私はウンコがしたくなってしまった。久しぶりに早起きし、そのあと一汗かいたせいで腸の働きが活発になってしまったのである。私は
「ちょっとトイレ行ってくるわ。席取っといて」
とオシッコに行く風を装って足取り軽く席から離れた。あまり時間をかけ過ぎるとウンコだと思われてしまうから、劇場から出ると私は早足になった。そのあと私はすがすがしい気持ちで映画を最後まで見た。

それから数年してその映画館は潰れてしまった。田舎だったからはやらなかったのである。私が腰掛けた便器も当然壊された、と書こうと思ったが、建物そのものは残っているかもしれないから、便器は生き残っているかもしれない。そこは私の地元だが、私はもう、そこがどこだったか思い出せない。ところでもののけ姫は当時大変な人気で、そのときの映画館も人であふれかえっていた。それなのにトイレで待つことなく、すぐに個室に入れたのは妙な話である。これはフィクションかもしれない。

もののけ姫で私が一番好きなシーンは、アシタカがタタラ場にやってきて、男集とご飯を食べるところだ。そこで、久しぶりの客人に興奮した老人が勢いよくアシタヵにしゃべりかけ、飯を口からこぼしてしまう。隣の牛飼い(名古屋章)に
「じいさん飯こぼれてるよ」
とうんざりした感じで突っ込まれるのである。うんざりしたのは仕事に疲れたせいなのかもしれない。私はさすがに最初に観たときはこのシーンには気づかなかったが、何度目かに気づいた。私はこの映画を映画館で三回見た。二回目は両親と見に行き、三回目は二回目で座れなかったから、今度は座って見ようとなって、席が空くのを待ったのである。

私は爺が飯をこぼすシーンについて、それは人間くさいから惹かれるのだ、と長い間思っていた。私はストーリーとはほとんど関係ないこの場面を、カットすることなく映画に取り入れた宮崎駿監督をすごいと思った。もちろん、「久方ぶりの客人に色めき立つタタラ場の人々」という雰囲気を出すための演出なのだろうが、その前後で女の人がはだける着物を直しながらきゃっきゃきゃっきゃやってるのだから、別になくても構わない。これが「個の手触り」ではないかと思った。別に「なくてもいいシーン」を取り込むのが「個の手触り」と言いたいわけではない。

私はひょっとしたら、宮崎駿は「じいさん飯こぼれてるよ」を体験したことがあるのかもしれない、と勝手に推測する。実体験かもしれないし、記号として体験したのかもしれない。それが、記憶に強く刻み込まれて轍になって、私は絵の向こうの轍を見ている。そして、やがて私はこう考える。その轍とは、そもそも私のものではなかったのか? と。しかしそれは私の勘違いでしかない......。

言葉が続かないのでここで終わり。


※小説