意味をあたえる

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小島信夫「菅野満子の手紙」(2)

主人公と編集長がテレビのサスペンスドラマの話をしていた部分が面白かったので書き抜く。(書き抜いた部分以外も面白い)「」の中で「謙二」と出てくるが、それは小島信夫ことと思って支障はない。

 

「あなたのいおうとする第二のこととは、何ですか。第一のことも、十分に分ったというわけではないけれど」

「実はそのことですが、私はたまたまテレヴィの『サスペンス劇場』というやつを見ました。『女の中の悪魔』というタイトルです」

 編集長も小説家も「ぼく」になったり、「私」になったりする。だから、読者は、作者が手抜きしたせいだったり、迂闊さのせいではないことを知っておいてもらいたい。

「謙二はああいうものをごらんになりますか」

「見ることもある。筋が同じだとやめてしまうけど。だいたい亭主が妻を殺そうとして、愛人か、別の男をつかってジワジワと責めつける。妻にも好意的な話し相手がいるが、ほとんど役に立たぬ、というようなものだね。翻案の場合でもそうだからね」

「ぼくはこの題には途中で気づいたので。というのは、ぼくが見たとき、既に始まっていて、女中に主人の教授がいいよって、軽くはねつけられるところでしたからね」

「誰がその男をやっていたの」

伊丹十三です。顔をしかめるところが上手で、ちょっと先生に似ていました」

「その奥さんはどういう人なの」

「胸をやんで、ひとりで寝室にやすんでいるのです」

「では、さっきの場面は書斎だね」

「その通りです。その男は翌朝、玄関まで走って送りに出てきて『行ってらっしゃいませ』という女中のことを考えながら前かがみになって歩きます」

「本がいっぱい入ったカバンをさげているというわけだね。何の教授?」

「たしか、専門は法律だったと思います」

「それで、何を考えているのですか」

「その教授ですか」

「そう」

「加代って女は、――女中のことです――ふしぎな女だ。いったい何を考えているのだろう、といったことを呟くのです」

「それはどういうわけかね」

「ぼくは、それよりも前の部分は見のがしたのですから、何ともいえないが、想像はつきます」

「それは、想像がつくね」

「小娘のことですしね。つまり、その気持になると、女中の方は約束がちがうと、男が思うようなソブリを示すということだと思います」

 編集長は筋の先きを急ぐのにもどかしいといった様子をした。

 小説家はこの話の内容そのものというよりも、編集長が、テレヴィの物語を仔細に語りはじめたこともあって、だんだんに興味をおぼえてきた。どこかに書いてあるのだったら、見すごしてしまうことにちがいないのだが……。

「いったい、きみは何をいおうとしているの」

 と小説家は、きいた。

「最後まできいてください、という権利が、私にはございまして」

と編集長はいった。

「その日、教授がもどってくると、妻のかかりつけの医者がきています。診察にきているのです。それにビールを運んでいる加代に廊下で会います」

ここまで写して、ちょっと長すぎることに気づいたので休憩する。一時に来客の予定があったが、気がつくと2時半くらいになっていた。本当は最初から気づいているが、来れば誰か声をかけてくれるか、そうでなければ物音で気づくだろうとたかを括っていたのだ。そうして下に降りてみたら、とっくに来ていて、今は郵便局にお金を下ろしに行ったというので、不在だった。飲みかけのコップが二つあった。それと、犬がいた。私は犬と遊んだ。この犬は大変臆病なので、私は犬が怖がる物を探そうと思った。前はネモちゃんが学校から持ち帰った鬼のお面を怖がった。裏返しにしている時は平気なのに、おもてにすると、途端に身をこわばらせてせわしなく動き出すのである。今度は太ももの筋肉を鍛える、バネの入ったプラスチックの合わせ板を怖がった。私はそれを蛇に見立てたから、作戦通りうまくいって愉快だった。噛みつかれるとか思ったのかもしれない。休憩おわり。

 

「主人は加代にきくというわけかね。たぶんその前に、男の靴を見て気がつくだろうね。医者がきていることも知るだろうね。靴のにおいをかぐように、それでいて斜めに眺めるだろうね。片手にはカバンを持ちながらということだね。それで廊下で会った加代に『またアイツきているのか。おれは虫が好かん』とでもいうのかな。おまけに張り合うように、『加代、おれにもビールを持ってきてくれ』とでもいうのではないかな。そうとすれば、彼はみみっちい飲みようをするだろうな」

「だいたいそんなふうです」

「ほんとうに、そんなふうな場面があるの」

「だからだいたいそうですよ。これは実に愉快だな。ぼくは愉快でしようがない」

 と編集長はいった。「『おれにもビールを』はよかったな。それがその通りなんだな」

「早く先きへ進めよ」

 と小説家は、こんどは自分の方から請求した。それから、

「早く結論をいいなさいよ」

 といった。

「そうはいかないんだな。ぼくは手紙ではなくて、かくの如き会話をすることに、自分を賭けることにしました」

 だいぶん酔いがまわったな、と小説家は思った。

「その夜、書斎へやってきた加代は、いつものようにアイサツをします。どんなことをいうと思います?」

「『先生、では私はやすませていただきます』とでもいうのだろう」

「『もう御用はございませんか』ともいいます」

「そうだろうな。それで」

「加代は書斎のドアを閉めて、部屋に立っている。それであとはお分りでしょう」

「なるほど。奥さんは?」

「ベッドの中にいます」

「どんな顔をしていることになっているのかね」

「うす暗いから、よくは分らない。しかし書斎のことを予想したり疑ったりはしていない模様でした」

「『女の中の悪魔』という題はそのものズバリだが、だいたい見当がついた。だからどうだ、というの」

「もうすこし、もうすこしのしんぼう。先生、あとのお楽しみ」

 憎らしいことをいうやつだな、と小説家は思った。何だか勝手がちがうぞ、とも思った。しかし表面は、すなおにうなずきながら、ブランデーをつぎ足した。

 それからあと、この来客は、この「サスペンス劇場」の番組の物語をつづけた。今までのように、ときどき小説家が質問をしたり、補ったりした。それに来客は、自分の方からそう仕向けた。一種の合作のようにして、二人は物語を復元することになった。

 その夜ソファの上で主人は加代に「どうしてお前は私とこんなことになったのだ、後悔はしないのか。いっておくが、あくまで、お前と私とは女中と主人という立場を代える気はない、そのことは分っていたはずだ、要するに慰みものにしたわけだ。お前というやつは、ふしぎな女だな」

 といった。すると加代は、シーツの下へ、いや、シーツの下ではなくてブラウスの半分だけかぶり、横向きになって、こういった。

「私はここへ来てから先生のようなのが、自分の求めていた理想の男の人だと、思いました。だからです」

「ほんとにそうなのか」

 男を演じた伊丹十三はある笑いをもらした。

 ある日、妻は鎌倉の別荘で転地療養をしたいのだ、と夫にいった。してみると、この教授はそういう家をもっていたのだ。やがて、その別荘がブラウン管にもうつるようになるが、それは昨日今日つくったものではないが豪邸というべきものであった。どうしてそんなにたいそうな別邸をもっているのであろう。妻のものなのか、妻の家からみつがれたものなのだろうか。私は見たことがないが、まるで川端康成の邸はこんなふうのものではないか、と思うようなものらしいのであった。しかも、これは別邸なのであった。

「そうか、あの医者がそういったのか。お前がそうしたいというのなら、そうするより仕方がないだろう。それで加代は連れて行くのか」

「はい、そうしたいと思います」

 ある日、講義を終えた教授は、カバンをさげて前かがみになって鎌倉で電車をおりて坂をのぼってきた。そこではじめてその邸がうつった。

 女中の加代が出てきた。

「奥様はいらっしゃらないのです」

「どこへ行ったのだ」

「散歩に出かけられました」

 彼はしばらくして家を出ようとした。

「だんなさま、どこへいらっしゃいます?」

「さがしに行ってくる」

 彼は下駄ばきで坂をおり海岸沿いに走った。風が吹いて波がおし寄せてくる。どうして彼は走るのか。走れば早くめぐりあえるかのように。彼は講義を終えるといそいでやってきたのだ。彼は彼女に会いにやってきたのだから、一刻も早く妻の姿に会うべきである。でなければ、遠い道のりをやってきたことの意味がないというのであろうか。彼は切通しを走ってくる、すると、反対側に、明るい空間を背景にして、加代が立っている。

 加代はじっと彼を見ている。それから彼を自分が鍵をあずかって管理している空家へ連れて行く。ガラス戸の多い窓から海が見える。そこで加代は着ているものをぬぐ。加代が、いわゆる「女の中の悪魔」になっていることが分る。加代は家へ帰ったとき、妻が医者の岡部と歌会に出かけていることを告げる。暗くなって医者に送られて妻が戻ってくるのを、夫はそっと覗き見している。それを加代が見ていることは、想像がつく。そしてその通りである。

「アラ、あなた今日お出でになっていたの」

「今日くるといっておいたじゃないか」

 もうこのとき、加代が伝えなかったことにわれわれは察しがつく。泊まるつもりであったのかどうか知らないが、夫は、帰って行く、加代はあとを追っかけてくる。

「だんなさま、こんどの金曜日だけはお出でにならないで」

 このあとはいう必要はない。彼はワナにおちてその日にやってくる。なぜなら、彼は昼間、東京から何度も電話をした。そして、誰も電話に出ないことを知る。彼は金曜日は逢引の日だったのだ、といいきかせる。

 私はとにかく急ぐことにしよう、読者のために。彼は加代に、妻が妊娠していることを教えられる。その子供が自分のではなくて、岡部のだ、と思いこむ。思うに、彼女は妊娠をし分娩をすれば、生命をちぢめることを医者から言いふくめられており、夫との間においても、妊娠しないための処置は、いつもほどこしていたことになっていたのであろう。ところが妻は、子供ほしさに夫に内緒でわざとその処置をはぶいていた。

 夫婦は離婚する。彼女に鎌倉の家をやり、株券もわけてやる。夫はもともとその気はなかったが、加代といっしょになった。そして今では十三年の年月がたった。 ある日、夫は松山の造り酒屋である妻の実家を訪ねて行く。彼は妻がなくなったということを風の便りで知った。そこで彼はランニング姿の男の子が自分と同じところに、同じようなアザがあるのを見つける。そこにいる老女中は彼も知っている。彼は彼女にその子供が自分のそれであることを教えられる。

「律子さん(妻のこと)はずっとおしあわせの日々でした」

「ぼくたちのことを恨んでいなかったか」

「心の中ではどうか存じませんが、子供と暮せるのがいちばんいい、おっしゃっていました。女ってそんなものじゃございませんか」

 夫が東京へ帰って何をいったであろうか。彼は二人の子供の母親である加代に出て行け、といいながら、自分が出て行き、仕事で行きつけのホテルに泊る。そこで彼は持病の心臓病の発作をおこす。加代がそのことを察して駆けつけてくることも当然であろう。

「すると、『女の中の悪魔』とは加代と律子の両方にいるということになるのだね」

 

(p164 集英社

引用おわり。いかがだっただろうか? 私は腕がとても疲れた。私は「すると、『女の中の悪魔』とは加代と律子の両方にいるということになるのだね」のところの、急ブレーキをかけるところがいかにも小島信夫らしいと思い、随分前から引用した。サスペンスの内容だから、長さほど読むのに苦はないと思う。でも、ところどころで引っかかる書き方をして、というか、むしろ引っかかるようにそれ以外を滑らかにしているフシもあるが、そうやって書いて、最後にこれである。どうして律子にも「悪魔」がいるのか、ここで立ち止まらなくてはならなくなる。それは、そんなに難しいことではないが、「律子も悪魔」という明確な答えを先に与えられるから、途中式がうまく組み立てられない。ここまですらすらと来たからもどかしくて仕方ない。「律子」なんて、最後の最後まで出てこない名前なのに、悪魔の別名みたく扱って、読者を先に進めなくしてしまうのである。