意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

このブログのねらい

数日前の数日間、ブログを丁寧語で書いた。「ですます調」と言うのだろうか。とにかく、子供の作文みたく書いた。その狙いについて、以下に書く。

昨日の記事でも書いたし、もっと以前にも書いたことがあったが、私は小学校のころは文章の書けない子供だった。書けないから、作文の授業は苦痛だった。特にイヤだったのは感想文だ。先生は
「本を読んで、思ったことを書きましょう」
と私たちに指導した。先生は、今思えばとんでもない嘘つきである。嘘つきは言い過ぎかもしれないが、好意的に言っても、この人は言葉があまりにも足りなかった。本を「読んで」思うことなんて、「おもしろい」か「つまらない」しかない。大人になればそこに「普通」が加わるくらいか。しかし学校で「つまらない」を使うのはご法度なので、選択肢は最初から「おもしろい」しかないのである。

「ルドルフとイッパイアッテナを読んで、面白いと思いました」

教師の言うとおりに書くなら、これだけで終わりである。それなのに
「2枚書きなさい」
「3枚書きなさい」
なんて、ノルマを課してくる。勘の良い生徒、空気の読める生徒なら、そこに
「最初は、「イッパイアッテナなんて、変な名前だなあ」と思いました」なんて、装飾することができる。私は素直な子供だから、できなかった。しかし、いくら装飾したところで、中身は「面白かった」しかないのだから、中身がスカスカの文章にしかならない。

それならば、何を書けば中身が埋まるのだろうか。もうここから先は感想文に限った話ではないが、結局は「私」を書くしかないと思う。つまり「ルドルフとイッパイアッテナ」が面白いと感じたら、その感じた自分とは何者か、を自分に問うのである。

例えば同じ書物を読んでも、面白いときとつまらないときがある。書いていることは変わらないのに、なぜ変化が起こるのか。例えばそれに妻の機嫌不機嫌が関係していると思うなら、妻について書くのが、その書物について書くことになるのである。

話はいくらか飛躍するが、絵描きが誰かの顔を描くとするときは、実は自分の顔、あるいはその他自分の一部分を描いているのである。

私は、中学になったら、突然文章の書ける生徒になった。中一のときの国語の先生があるとき、誰の書いたもの言わずに、感想文を読み上げるというのをやった。そのときに私の書いたものが読まれたのだが、私はそれが最初自分の書いたものとは気づかずに、
「いいこと書いているなあ。これは誰が書いたのかなあ」
と思っていたら、私だったのでとても驚いた。つまり私はもう二十年以上も勘違いしながら、こうして、文章を書き続けているのであった。

それで、最近になって「ですます調」で書いたのは、そうやって勘違いする前の文章で書いてみたい、と思ったからである。一行か二行書いたら、それ以上は続かないような書き方をしてみたかったのである。しかし、そうやって書いてみても、文はどんどん続いてしまう。私はそのような現象を「テクニック」と呼ぶことにした。私は自分の意志とは無関係に、一文綴ったら、次の文、次の文、と続けていこうとしてしまうのである。文章とは、ある程度の文が固まらなければ成立しないと思っている節があるようだ。

その後も、小学生風の文章を続けようと思ったが、いつのまにか終わっていた。