意味をあたえる

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台所の椅子で考えたこと

実家の台所にはテーブルと、椅子が四脚あり、しかしそこで食事をすることは本当にある一時期だけで、あとはみんなとなりの和室のちゃぶ台で食べた。たいへん物が多い家で、新聞も三種類とっていたので、床なんか見えず、和室でも洋室でもどちらでも良かった。新聞は本当は二種類しかとっていなかったが、どういう理由なのかは知らないが、父は新聞屋に、余った新聞を持ってくるように言っていたので、三種類だった。そのため、三番目の新聞は、埼玉新聞だったり東京新聞だったり、またはスポーツ報知だったりした。父はヤクルトの配達員もしていたから、そういう融通もきいたのだろうか? 謎の多い父である。

台所も物が多かった。ダイニングテーブルの上には、私の喘息の発作をおさえる機械が置いてあった。だから私は幼い頃、私たちが台所で食事をしないのは、私が小児喘息だからなのだ、と思った。しかし、それ以外の物も多いから、単に片付けが苦手なだけだった。

換気扇のそばは、家の喫煙所でもあった。私が小児喘息を発症したとき、両親は子供の前では決して煙草を吸わないようにと、きつく言われた。
「医者に怒られたよ」
と父はその頃言っていたので、おそらく本当にきつく言われたのだ。私はまだ幼かったから、大人が怒られる場面なんて想像もつかなかったが、今なら日常風景だ。その頃の父は、今の私よりも年下だ。おとといも会社で、40代のひとが、50代のひとに、最初は優しく
「頑張ってください」
なんて言っていたが、だんだんと雲行きがおかしくなって、声を荒げた。
「俺だって言いたくないけど言ってるんですよ。そんなんじゃ誰も言ってくれなくなりますよ」
と言った。50代は飄々としていた。私はパソコンで有給申請をしながら、
(言われなくなったら、それこそこの人にとっては歓迎すべきことだろう)
と思った。

40代が扉をばたんと閉めていなくなった後、50代が、
「なんかまずかったかな?」
と、悪びれず言った。私はこの部署の力関係について、簡単にレクチャーした。いちばん力を持っているのはXさんである。瀬戸さんが、
「Xさんにほめられた」
て言ったから、スイッチ入っちゃったんです、と私は説明した。こういうのは不味いかな、と言いながら私は思った。でもまあいいや、私だって沢野さんが嫌いなんだから、と思いなおした。

「飯村ちゃん月曜いないんじゃ寂しいな」
と瀬戸さんが言った。
「がんばってください」
と私が言うと、
「全然こもってないよ、飯村ちゃんはしょうがねえな」
と瀬戸さんが表情を崩した。私たちは今はロッカー室にいる。瀬戸さんは作業着の下に、白い股引を履いている。瀬戸さんはあと二年で定年だ。

私は月曜に有給をとったが、特に理由があるわけでもなかった。