意味をあたえる

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保坂和志「未明の闘争」

 鎖の一方の端にふれたらもう一方の端がゆらいだという、あの話のことだ。農婦のワシリーサが泣き出し、娘がどぎまぎしたのは、たったいま学生が話して聞かせた、千九百年むかしにあったことが、この二人の女にも、この荒涼とした村にも、学生自身にも、すべての人になんらかの関わりがあるのは明らかだったからだと、チェーホフの『学生』の主人公であるところの学生は思った。
「老婆が泣きだしたのは、彼の話しぶりが感動的だったからではなくて、ペテロが彼女に身近なものだったからだろう。彼女がペテロの心に起きたことに身も心も引かれたからだろう。」
 冬に逆戻りしたような春先の寒い夕暮れ、学生が田舎道をひとり歩いていた。すると農婦と娘が焚火をしていた。学生はその焚火にあたらせてもらうことにして、しばらくそうしていると学生は、イエスが大祭司にとらえられたとき逃げたペテロもこんなふうに焚火にあたったのかと感じた。農婦たちもよく知っている話を学生はあらためて語りはじめた。
 イエスはとらえられて大祭司の館に連行された。そこでイエスは祭司長、長老、律法学者たちから訊問され、鞭で打たれていた。ペテロはいったん逃げ出したものの、イエスのあとをつけて大祭司の館の中庭に入った。中庭では作男たちが焚火をして暖をとっていた。ペテロはその輪に加わり、イエスの身に起こっていることに耳をそばだてていた。すると女中のひとりが、
「この人はイエスと一緒にいた。」と言いだした。
 しかしペテロは作男や女中たちの射るような視線に怯え、
「私は知らない。」と否定してしまう。
 まわりの人たちはさらにペテロを追求したが、ペテロは三度も「私は知らない。」と否定してしまった。と、そのとき鶏が鳴いた。ペテロは、
「鶏が鳴く前にあなたは三度、私を知らないと言う。」と、最後の晩餐の席でイエスが言ったことを思い出し、庭の外に出て激しく激しく泣いた。学生がその話を終えると、農婦のワシリーサがほほえみを浮かべたままいきなりしゃくりあげ、大粒の涙がとめどなく流れた。そして学生は「過去はつぎからつぎへと流れ出す事件のまぎれもない連鎖によって現在と結ばれている。」と考えたのだった。
 だから鎖の一方の端にふれたらもう一方がゆらいだと感じたのだが、それは鎖でつながっている必要はないんじゃないか。あるひじょうに圧の大きな出来事があり、その出来事から発した揺れが千年経とうが二千年経とうが止んでいないのだ。
 それは圧が大きい必要もないのかもしれない。だいたいチェーホフのこの話で、学生がふれた鎖の端というのはどっちのことなのか。農婦の方と考えるのが近代人としてありがちな合理的な解釈だろうが、学生がふれたのはペテロの方だ。ペテロにふれたから揺れが農婦の心にまで届いた。しかしペテロの身に起こったことは農婦が泣いたことによってあらためて力を得る。いくら聖書にペテロのことが書かれていても、人間の中からペテロ的なものが消えてしまったら、ペテロの身に起こったことも消えてしまう。つまり聖書も消えてゆく。

(p24 講談社)

昨日Twitterで流れてきたブログを読んでいたら、ドラえもんのび太のお婆ちゃんが出てくる話で涙しないやつは云々、みたいな内容があり、私は、あまり賛同できず、コメントで少しとっちめてやろうと思ったが、やめた。そのあと、全然別のブログでも同じような感情を抱いたが、やはりやめた。内容はちがう。

そのあと少しして、「未明の闘争」を読んだら、上記の箇所があり、もうそこに全部答えは書かれている。「鎖のどちらの端なのか?」というのが、もう保坂和志っぽくて、私は嬉しくなり、私の頭の中も保坂和志になって、もう、ここを引用せずにはいられなくなり、引用した。肩が凝った。そういえばさっき、三森さんのブログで、ブックホルダーが紹介されており、それは多分何度か読んだ気がしたが、そのときは私には全く関係ないと思った。

しかし、私は最近ブログではこのように引用することも多々あり、そのたびに
「指が冷えた」
だのぼやきながら、足の膝小僧などでページの端をおさえたり、ページの右半分、左半分、話の冒頭、中盤、終盤などで細かくおさえる場所を変え、まるで私はある種の職人さんのようであった。先日の「菅野満子」が辞書みたいに分厚かったせいもある。コロコロコミックののようだ。昔、祖母が私の家に遊びに来たときに、
「辞書でも読んでいるのか?」
と感心されたことがある。私は、
「これは漫画だよ。毎月15日に発売される」
と答え、とても愉快な気持ちだった。「未明の闘争」もそれなりの長さだ。今も、スマホを左手で持ち、その手の甲でページをおさえ、指の合間から字を追った。指の合間、とは右手のことで、右手でフリックを行うのである。