意味をあたえる

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歯医者の籠

歯医者に行ったら北山さんに会った。
「あー、こんにちは」
と私は挨拶をした。声のトーンを少し上げ(奇遇ですね)というニュアンスを込めた。北山さんは、
「こんばんは」
と返してきた。もうとっくに日は暮れているのである。私は、
「こんばんは」
と言い直した。

「ここに通ってるんですか?」
「いや、初めてなんだけど。初めてっていうのは、ここの歯医者が初めてってことで、歯医者にはかかったことあります」
「痛むんですか」
「先週末から、痛くなっちゃって。でも顎? 歯じゃなくて顎? が痛いんですよね。でも、引っ込みました。だから、虫歯じゃないかもしんないんだよね。でも、顎でも、歯医者にレ
ントゲン撮ってもらえばはっきりするじゃないですか。レントゲン、ありますよね」
「ありますよ。自分も三年くらい前に歯茎が腫れました。そうしたら、根本が腐ってるって」
「腫れては、ないんですよ。んで、子供が飲み残した抗生物質、飲んだら、痛みが引っ込んだ。でも、気になるから、診てもらおうかなって」
「仕事帰りですか」
「一度帰りました」
北山さんは、塗装工をしている。濃い青色の作業着を着てきている。ズボンの下端に、飛び散った塗料が付着している。しかしそれは乾いていた。夏頃に飛び散った塗料だろう。北山さんは、青色申告をしている。

私は一昨年まで、地区の役員をやっていて、その役員は5人選出されるのだが、私以外はみんな気さくな性格なので私は難儀した。体育祭の練習などで、私だけが話し相手がいなくて、ぼんやりしてしまうのである。私は初対面の個人ならば、話しかけるのは得意なのだが、これが複数になると、一気に怖じ気づく。名前が不確かだと、さらに厳しい。かと言ってひとりで黙っている、ということもできない性分なので、ひとりで悶々として、ものすごくストレスを抱え込む。しかし、私はどういうわけか、周りから見ると、人見知りには全然見えないらしい。

そんな中、北山さんは、一声かけると延々としゃべるので、私としては貴重な存在だった。北山さんさえいれば、私も役員として、格好がついた。北山さんは、大型犬のような顔をしていて、痩せ形で、猫背だ。私よりも年上で、奥さんは丸っこい。娘も太っているのに、
「うちの犬、メタボなんですよ」
なんて、深刻な顔をして言ってくる。犬を散歩させる北山さんにも会ったことがある。なかなか栄養価の高い一家である。北山さんと同じタイプの人を、他に2、3人見つけた私は、なんとか役員を最後までやりきることができた。忘年会のときには、区長の家に上がり込み、棚に飾ってあった「白州」にありつくこともできた。
「白州飲みたいです」
と私が言ったら、出してくれた。私も区長も酔っていた。区長の奥さんはシラフだった。奥さんは、
「まずは手元のアサヒスーパードライ500を飲んでから」
と言った。私はほとんどひと息で飲んだが、白州もトリスも、全く味がわからなくなってしまった。

先に私の名前が呼ばれ、すぐに北山さんの名が呼ばれ、私のひとつおいて左の席についた。先生がやってきて、さっき私にした話を、頭からしている。「抗生物質」の部分を「風邪薬」に置き換えていた。北山さんなりに、気を遣ったのだろうか。「虫歯じゃない気がする」などと、勝手に見立てを語り、先生も「うぜーな」と思ってるだろうな、と思った。でも、「うんうん」なんて言っている。

私がのんきにやり取りを聞いているのは、この先生というのが、さっきまで私の治療をしていた担当医だからである。つまり、北山さんの話が終わらないと、私の治療が再開されないので、私はだんだんと北山さんが恨めしくなっきた。さっき書きそびれたが、私が役員だったころ、私はいつもこの人は「北山さん」で合っているのか心配でたまらなく、会話の中で名前を言わないよう神経をつかった。やむを得ず名前を言わなければならないときには、
「うぃあわわ・さん」
などと、ごにょごにょ、と言いながら相手の表情を盗み見て、間違っていないかを確認した。私の人見知りは、こういうところに原因がありそうだ。それから、北山さんの名前はとっくにおぼえてからも、その不安定な感じが抜けず、実は今日会ったときも最初に思ったのは、
「この人北山さんで合ってたっけかな」
だった。そして、名前を一切言わずに言葉を交わしたあと、やがて私が呼ばれ、耳を澄ましていると、
「北山さーん、北山、和孝さーん」
と呼ばれて安心した。あいつ、和孝なんて言うのか。私は安心ついでに先生に、
「今の呼ばれた人、私の知り合いなんです。この近所に住んでるんですよ。塗装屋です。犬がメタボと話すかもしれませんが、彼以外全員メタボです」
なんて話したくなったが、私は今口腔内に器具を突っ込まれている。もちろん、突っ込まれてなくても、言わないが。

とにかく先生は今は北山さんにかかりきりで、とっととレントゲン室に案内すればいいのに、内出血がどうこう言っている。そのうちに別の女の医師がやってきて
「口をあけてください」
と、私に指示した。バトンタッチしてたのだ。私は実は治療は済んでいて、今日はクリーニングだけだったので、わざわざ先生じゃなくても良かったのだ。しかし、この女が下手くそで、いちばん嫌だったのは、途中で
「口ゆすいでください」
と言ってきて、私はもう終わったと思って、ティッシュで口の周りをのん気に拭いていたら、
「口あけてください」
と言われ、まだ途中だったこと知らされ、がっかりした。

ところで、歯医者には足元の少し離れたところに籠が置いてあって、そこに荷物を入れるよう指示される。私はバッグに財布を入れているので、治療で目隠しをされると、盗まれてしまうんじゃないかと、不安になってしまう。そんなの大げさだ、と思うかもしれないが、外国人なら甘いと言うかもしれない。

小学生のときに、「お店屋さんごっこ」という行事があり、これは学校ぐるみで割り箸鉄砲だの折り紙だのを作って売買するのだが、そこで上級生の教室に行くと、「過去に行くトンネル」というのがあり、しかしトンネルは狭くて暗いから、持ち物は自分に預けろと、受付の男が言う。彼は学校指定の青いジャージを着ている。私はお金をむき出しで持っている。お金とは、朝先生から一枚紙で配られて、それをハサミで切り離したものだ。受付の男は、
「大丈夫、盗んだりしないよ」
と私の心を見抜いた。実は私はそのときクラス委員で、お店屋さんごっこは、クラス委員会のときに決まった。先生が、
「他の学校では「お店屋さんごっこ」というものをやっている」
とアイディアを出し、私たちはそれに賛成をしただけであったが、それでも私は企画者であるから、ここで我を通して興をそぐよりも、だまされてしまった方が、みんなのためになるだろうと思い、全財産を彼に預けることにした。所詮は紙の金だし。

そうしてトンネルをくぐり抜けたら、受付の男は待っていて、約束通りお金を返してくれたので、私は安心をした。というより、過去に行くトンネルに夢中になって、お金のことなどすっかり忘れていたので、びっくりした。

そんなことを思い出した。