意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

リズムの良い文章

今朝、とあるブログを読んでいたら、
「この文章はリズムがいいなあ」
と思った。何日か前に、「リズムの良い文章を書きたい」みたいな記事を見かけ、そのコメントが
「でもそう言っている文章はリズムがいいですよ」
となっていて、果たしてそれは書いた人が望む言葉だったのか、と思った。単にほめられたくてわざと自虐的なことを言っただけなのかもしれないが。しかしたとえそうであっても、望ましい言葉ではなかったのではないか。ほめられることによって、かえって不自由になってしまうから。

どちらにせよ、私がそれを読んだときは、リズムがいいとは思わなかった。しかし私はリズムがいいとか、言葉のチョイスが良いとか、そういうのは文章の良し悪しにはほとんど関係ないと思っているから、そう感じなかっただけなのかもしれない。そうしたら今朝は「おお、リズムが良いな」と思ったので不思議だ。

それで、リズム良く書くための方法を私なりに発見したので、以下に書きます。語尾を「思う」とか「ような気がする」にせず、きっちり言い切ってしまうのが良いようです。「考える」とかもなるべくない方がいいかも。

そもそも文章は、思ったこと考えたことを書いているから、「思う」なんていちいち宣言する必要はない。見聞きしたことを写してます、というのもあるかもしれないが、それも自分の頭の中を通過するのだから、思考である。「思う」と書くのは、「頭痛が痛い」「違和感を感じる」と同じような気持ち悪さがある。

「「違和感を感じる」は間違った日本語ではない」というのを、以前どこかで見かけたが、正しい・間違っている関係なく、やはり同じ漢字がすぐそばに来てしまうと、落ち着かない。文章を書くようになると、例えば「聞く」にしたって「耳にする」とか、別の言い回しが用意されていて、その、多様な言い回しは、同じ言葉を避けるために編み出されたものだ、ということを実感する。

私は一時期小説を読むときには、同時に語彙も増やそうと思い、わからない単語を調べた。しかも今はわざわざ辞書を持ち歩かなくても、スマホのアプリで用は足りるからなんて便利だろう、と思った。

しかしそうやって身につけた単語を、いざ自分の文章で使ってやろうとすると、そこだけ浮き上がってしまい、不自然になった。身についていないからである。身につく、というのはどういうことなのか。感情もセットにならなければいけないのである。感情とは記憶である。いや、記憶ではない。たとえ忘れてしまっても、言葉そのものは、自分の奥底から湧き上がってくるからである。そう考えると、私がこう書く文章も、読み手からすれば単なる記号だが、私からすれば、ひとつひとつの単語に固有のストーリーや背景が宿っている気がして、なんだかロマンチックな気持ちになる。「読み手からすれば記号」なんて軽々しく書いてしまったが、その後ろにある感情の交わりを、もしかしたらその気配を感じてもらえるのかもしれない。「記号の希望」と名付けよう。

話をリズムに戻すが、「思う」「気がする」を使う必要はないのに、使ってしまうのはなぜか。文章を柔らかくするための演出、などのテクニカルな理由を除けば、それはためらいや逡巡のためである。本来自分の中に確固としたものがあるはずなのに、なんらかの抑圧があっておもてに出せないのである。だから、文章のリズムは、メンタルのリズムである。まずは心を整えなければ、文章にもリズムは生まれないのである。それでは心を整えるにはどうすれば良いのか? もう面倒だから全部すっとばして突き詰めたことを言えば、早寝早起きである。夜勤の人も、自分の就業時間から、ベストの睡眠時間を算出し、規則正しい生活を心がけましょう。なんて、ありふれた答えなんだ、とがっかりする人もいるかもしれないが、もうこれ以上に効率的で確実な方法はないのです。

最後に、リズムの良さは、文章の良し悪しにはほとんど関係ないことをもう一度強調しておく。

おわり。