意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

「本当の」を頭につけると思考がストップする

午前中、ラジオを聞きながら仕事をしていたら、その日のラジオのテーマが、
「あなたは愛されたい派? それども愛したい派?」
となっていて、私はなんじゃそりゃ、と思った。しかし、
「私は愛したい派です」
「ぼくは愛されたい派です」
というのが、ラジオネームとともに読み上げられていく。みんな真面目に考えているんだなあと思う。あるいは真面目に考えていないのかもしれない。私は、そんなこと唐突に訊かれても、「わからない」としか言えない。私には「あなたは蛇口派? それとも排水溝派?」と同じタイプの質問に聞こえる。

それでも私なりに考えたことがあって、それは
「誰かに愛され続けるためには、その人を愛してはいけない」
ということだ。理由は、誰かが自分を愛してくれた、好きになってくれた、興味を持ってくれた、というケースがあったとしたら、その対象は、その誰かを愛していない自分だからだ。もし自分がその誰かを愛してしまったら、もう別の自分になってしまい、相手は魅力を感じなくなってしまう。

文字にしてみたらなんてことはない、よく言う「追っかけているうちが華」というやつだった。しかし、午前中の私は仕事中で文字にすることができなかったので、この考えは妥当かということに夢中になった。例えば、親子の愛。子供からの見返りがないからこそ、愛が無償の愛になって、それが本来の親子関係、という価値観が浸透すれば、子育ての精神的負担が、少しはマシになるのかもしれない。親子の部分を夫婦に置き換えても行けるかもしれない。私の仕事は幸いなことに大した集中力を要しないので、こうして考えに没頭できるのである。

それで、結論として「愛さないこともまた愛である」というのに達して、本当は結論でもないのに、私の思考はストップした。「愛さないことも愛」とは、ライオンが崖に子供を突き落とすイメージである。いや、あれは口減らしか? かわいい子には旅をさせろ、のイメージである。ただかわいがるだけの見せかけの愛ではなく、本当の愛。頭に「本当の」をつけると、妙にハマったようなすっきりとした感じがして、これ以上考えたくなくなる。

同じ種類の言葉に「難しい」がある。これは前の仕事の上司に教えてもらったことだが、上司というか、その人は社長だった。社長と言っても、私よりも6才年下だった。私はいろんな経験をしている。それで、6歳下の社長が、
「難しい、と言うと、もう考えなくなる」
と教えてくれた。たしかに誰かと深刻な話をしているときや、答えの出ない話をしているときには、
「難しいですね」
と言ってしまう。むしろ、深刻な空気に耐えかねて、話を切り上げようとして「難しい」と言う。難しいと宣言すれば、いったん保留にして、遠くにうっちゃれるからである。そういうのが癖になって、「難しい」は思考停止の言葉になったのかもしれない。

だから、今日の午前中に、私は「本当の」は、「難しい」と同じカテゴリの言葉なのか、と考えていた。今日の午前中は、もっと暇かと思ったら、意外と忙しくて私はイライラした。しかし、年度末だから、仕方ないと、自分に言い聞かせた。内線を取ると、相手は私が出るとは予想しなかったようで、とまどったような笑い声を漏らした。予想外に弾んだ声が、春の訪れを連想させる。

なぜ「本当の」が「難しい」と同じカテゴリで、思考をペンディングさせるのか。それは、私たちが虚構の中を生きているという、紛れもない証拠なのである。

ところで、内線をかけてきた相手は、一体誰だったのだろうか......。